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吸血鬼の憂鬱




 ——大雪像祭当日 ダフロイト北西 ガライエ砦。


「今度はなんだ!」

 背後から声を掛けられたシャルドラは、鼠色のローブに羽織った煤けたトーガを翻し苛立ちをあらわに怒鳴り声をあげた。

「偶然にもまた地下墓地でも掘り当てたのか? それとも飛竜でも飛んできたのか? 吸血鬼どもが襲い掛かってくる以上に悪いことでも起きたのか!」



 胸壁の向こうに見えた不審な騎影を報告するため、全速力で駆けてきた皮の軽装備の男は、目の前の——いかにも気難しそうな顔をした——魔術師が口角に泡を溜め叫ぶさまを直視しかね——それは畏怖でもなく、滑稽だったから、俯いて笑いを堪えてた。


「それでなんだ!」その滑稽がもう一度吠えた。

 目をひん剥いた魔術師は募る苛立ちからか、前に後ろに左に右に忙しなく動き男へ詰め寄った。男は「あ、いや」と短く答えると、やはり俯きながら「南に不審な騎影が」と手短に伝えた。


「数は?」

「単騎です」

「今なんと云った?」

「単騎です。と……」


 ウロウロとしたシャルドラは、それにピタリと足を止め「その一騎というの」は、と腹の底から響く重々しい声で云うと男が差し出した望遠鏡をひったくり「吸血鬼どもよりもよっぽど恐ろしいものなのだろうな?」と不審な一騎を探した。

 中庭で張り上げられた悲鳴や怒声、鉄と鉄がぶつかりあう鈍く鋭い衝撃音、そんなものに掻き消されそうなシャルドラの独言にも聞こえた言葉へ男は「すみません、今なんと?」と訊ね返した。

 がしかしシャルドラはそれには答えず、この軽装備の男の失態を——くだらない報告を追求してやろうと、喰い入るように南に下る岩と草ばかりの草原を望遠鏡で舐め回した。随分と狭量な魔術師だ。


 駄目だ地下墓地を塞げない!

 吸血鬼どもが溢れ出てくる!

 始祖はあの女だ!


 中庭で怒号が飛び交う。


「シャルドラさん、撤退しましょう。ここはもう駄目です」


 男は魔術師に必死に訴えた。

 尤もこれ以上、魔術師の判断が遅くなるのであれば自分一人でも逃げ出してやろうと男は考えた。ジリジリと後退りし、中庭の様子——首を跳ねられた女の骸や、体躯を腹から引き千切られた男の残骸、鮮血が土を濡らした跡、そんな惨劇の中に活路を見出そうとした。


 駄目だ! 胸壁に取り付かれるぞ! ——男はその一声を耳にし意を決した。


 シャルドラを置いて逃げ出そうと。

 しかし、目の前で身体を胸壁から乗り出した魔術師の様子が一変したのに気が付くと不安に駆られ「シャルドラさん?」と声をかけた。


「あれは……」シャルドラは望遠鏡を何度も覗き込みながら絶句した。

「なんで、あいつが居るんだ」

「ど、どうしたのですか?」男は胃を締め付けられるような不安に襲われ、シャルドラの傍に戻った。何かあればこの臆病な魔術師はきっと魔力の防壁を張るはずだ。だからこの得体の知れない状況では、魔力の防壁の中に居る方が安全だ。

「あれは、アッシュだ。知っているぞ。あの出立ちにあの顔……宵闇の鴉だ」


 シャルドラはそう云うと茫然自失とし、力なく右手から望遠鏡を落とした。レンズの割れる音が、なぜだか周囲の喧騒よりも煩く耳に纏わり付き惨劇の幕引きの合図のように感じた。









 ——数刻前。


 アレクシスは不機嫌だった。

 白磁のような白い肌はとくに赤らむわけでもなかったが、燃えるような真っ赤な瞳は大きく見開かれ上品に整えられた右眉は下げられ左眉はへの字に吊り上げられた。絵に描いたような不機嫌。それを浮かべた。

 女は地面に寝転がる兵士の頭を踏みつけ、瞳と同じ真っ赤な髪を掻き上げる。


「あなた、どこの兵隊さん? 随分とお行儀が悪いわね」


 アレクシスはそう云うとスリットの入った黒いワンピースから艶かしく伸びた長い脚で兵士の頭をなじった。膝下まであるブーツの踵が耳の穴をとらえ、底は額を擦っている。これには堪らず兵士——若い青年は、鈍い悲鳴をあげた。


 リードラン解放戦線——青年はそこまでは答えたが、今度は踵を口に突っ込まれ蛙が潰れた様な声を発すると続きの言葉は喉元に消えた。


「あら、ごめんなさい。話の途中だったわね。でも、もう興味ないわ」


 随分とくだらない輩に起こされたものね。最初の時とは大違い——アレクシスはそうして、大きく溜息をつくと若い兵士を足蹴から解放した。

 彼女にとっての目覚めはこれが二度目だった。

 一度目の目覚めは東のブレイナット公国公王領の北に位置する<名も無き聖域>で、二度目はここ、ガライエ砦の地下墓地だ。最初の目覚めは一人の少女の手によってだった。目覚めの刻に少女は「今日からあなたはアレクシスよ」と彼女をアレクシスとして存在させた。その前の記憶は最初から無かったから、きっとその刻がアレクシスにとって生を受けた瞬間だったのだ。


 渇きを覚えたアレクシスに「人の血を啜りなさい」と教えたのもその少女。

 人は眠くなるが吸血鬼は寝る必要がない。吸血鬼は夜にだけ食事をするという作法を教えたのも、その少女だ。人を狩るのは簡単で、アレクシスの妖艶な容姿と不思議な力を持った瞳を使えば人間はイチコロだと秘訣も教わった。だから、生きる術を教えてくれた少女に恩を返そうとアレクシスは望みを訊ね二つ叶えた。


 一つは、このガライエ砦を落とすことだった。

 数日後には、とある兵団がこのガライエを急襲する。その前に砦をもぬけのからにして欲しいと少女は望んだのだ。





 ——百数年前 ガライエ砦。


「アレクシス、ありがとう」


 少女は砦の胸壁にアレクシスと腰をかけ、中庭にひしめきあう骸と血の海を眺め笑顔で云った。

 満月が少女の銀髪を輝かせた。

 白魚のように透き通った少女の顔を可憐にひきたてる。アレクシスはこの狂った願いを望んだ少女の可憐さすらも狂い、実は自分は少女に魅了され、操られているのだろうかと疑った。しかしだ。どのみち自分も人の命を簡単に奪う狂った存在なのだからどちらでも良い。今は、この少女に恩を返せたという事実だけが大切なのだから——「いいのよ、気にしないで」そう少女に満面の笑みを浮かべた。

 その後、アレクシスと少女は砦に地下墓地を造り——もちろん、魔術で——穴を掘り、ささやかな石棺を造り、躯を片付けた。

 少女の最後の望みは、その地下墓地で合図があるまで寝ていて欲しいというものだった。合図は少女が直接アレクシスの心象に送るからすぐに分かると云い、アクレシスはそれになんの疑いもなく了承し眠りについたのだった。





 「それで——あなた、お名前は?」

 アレクシスは血反吐を吐き寝転がる青年兵の前へしゃがんだ。

 簡単な石棺が百近く並ぶ地下墓地は、無数の魔法の光が松明に灯され赤黒く変色した青年兵の顔を生々しく照らしだした。アレクシスは青年兵の顔を人差し指でなぞり「ねえ。聞こえている?」と虫の息の青年の頬を突いた。その姿は蟻をなぶり、それに話しかけているようで、そこはかとなく幼さを匂わせる。期待通りなのか、返ってくるのは「許してください」とか「殺さないで」といった命乞いの言葉だけで、アレクシスはそれに苦笑いをした。


「もういいわ」

 焦れたアレクシスはそう云うと、鋭く伸びた人差しの爪で青年兵の首に一文字を描き「じゃあね」と囁いた。ひかれた線の後をゆっくりと赤い筋が追いかけると、首の皮がぱっくりと鳥の皮を裂いたように開き、そして静かに大量の鮮血が吹き出た。

 青年は堪らずゴボゴボと口からも血を吐きながら、必死に首から流れる血を止めようとする。両手を動かしたが駄目だった。呼吸は喉笛からヒューヒューと音を立て漏れてしまう。開かれた気道を剥き出しにした首からは血がとめどなく流れ、そして遂に青年は絶命してしまう。




 アレクシス様——


「男の血は嫌いなのよね」と赤黒い躯となった青年の肩をぐっと足で押すアレクシスを、儚げな声が呼んだ。それにアレクシスはパッと表情を明るく向日葵のような鮮やかな笑みを浮かべ振り返った。そこに佇んだのはアレクシスとは真逆、純白なドレスへ身を包むブロンドがよく似合う華奢で細身の女性であった。

 何かの合図を待ちながら首を垂らす白い彼女の慎ましさにアレクシスは少なからず疼きを感じ艶かしく唇を縛った。

 小さな顔の小さな顎の輪郭をなぞりながら「顔を上げて」と白い彼女へ耳打ちをする。ご報告が——白い頬を染めた彼女は、近づくアレクシスの瞳を視界の外に感じ、消えいる声で伝える。

 赤い彼女は「勿論よ」と応えながらとうとう、か細い彼女の首筋に牙を優しくあてがった。その気になれば、少し噛むくらいで首筋に牙を埋められるが、アレクシスは舌先にあたる彼女の肌の感触を暫く愉しんだ。鎖骨のあたりから耳の下までゆっくりと唇を這わせ恍惚とした吐息を漏らす。

 白いドレスの女はその度に目を強く瞑り沸き起こる快感を押し殺しているのか「んっ」と小さく声を漏らし苦悶した。次第に女の白い肌は紅潮し、息を荒くする。


 それでも何かをアレクシスに伝えなければならないようで主の肩に華奢な手を添えると「アレクシス様」と、やはり消え入るような声で小さく漏らした。

「ごめんなさいね——そうね、報告よね。でも大丈夫、大凡の察しはついているのよ」とアレクシスは愛おしそうに女に手を絡ませた。力が抜けたのか、女は身体を預けるようアレクシスの露になった胸の谷間に顔を埋めながら「術式が破壊されていました。砦の中庭にたくさんの兵士が——」と吐息を溢し伝える。赤の主人は「そう」——と短く応え、女のブロンドを優しく愛でた。


「本当に無粋な輩。私達の聖域に土足で踏み込んでくるなんて」


 アレクシスの言葉尻は強かった。

 辛抱できなくなった赤の主人は、遂に白い華奢な首に牙を埋め込み血を啜った。白い女は「あああ」と悲鳴とも快楽の嗚咽とでもいうのか声をあげ、そして、主人の身体を強く抱きしめた。その姿に愉悦を感じたアレクシスは、一度牙を抜き彼女が苦悶する表情を確かめ、また牙を立てる。流れ込んでくる甘美な血液は、ただ渇きを満たすためではなく白い彼女がこれまでに目にしてきたもの記憶やその残滓、愛するものへの愛情、憎しみ、あらゆる混沌を頭の中に映し出しアレクシスを愉しませる。

 だから何度もそうして歯牙にかかった獲物の顔を恍惚とした濡れた目で見つめ、愛おしそうに再び牙を突き立てるのだ。自分を愉しませる愛しき獲物をそうやって愛でた。


「さて、それでは無粋の輩を懲らしめに行きましょう」

 歯牙にかかった女は力なくアレクシスの脚元に崩れ落ちる。それを濡れた目で追ったアレクシスは微笑み、軽やかに手を二度打ち鳴らす。

 久方ぶりの食事の時間よ——そう云うとアレクシスは地下墓地唯一の出入り口である東側の階段に向い優雅にゆっくりと歩き出した。するとどうだろう——魔術の光が届かない暗がりから、ぬらりと無数の影が這い出てくる。それは獣のように四つん這いの者も、煤けたコートにウエストコート、ブリーチズの貴族然とした者、娼婦、農民に少女、そしてかつてこの砦を守った兵士といった多様な人の成れの果てだった。


 目は赤く輝き狂い、皆一様に「おおおう」と呻き声をあげる。

 それは吸血鬼の眷属だった。

 アレクシスが片手を軽くあげ、そして振り下ろすと、それまで緩慢とした吸血鬼達だったが、突然に力がみなぎり風の速さで主人の傍を走り抜けていったのだ。


 狂宴の始まりの合図だった。

 一方的な殺戮と晩餐。それは人の身では抗えないダフロイトが傍に抱えた淀みの解放だった。彼らの多くはこの世の桃源郷、人の欲望により急造された偽りの楽園、ダフロイトの生々しい輝きに耐えられなかった人々の末路といってよかった。アレクシスが眠る間、聖域を守護する眷属達の餌食となった者。吸血鬼の洗礼に耐えられなかったものは血肉を求める獣となった。


「結局、あの子からの連絡はなかったわね」それでも——アレクシスは休眠する以前、銀髪の少女が口にした<外環の狩人>を探し<外環の楔>を奪取する使命を想い出すと「やることはわかっているわ」と囁いた。地下墓地の階段を抜けると、血の香りが風に漂ってきた。


 すでに中庭では血の祝宴が始まっていた。





——数刻前 ガライエ砦前。


 随分と騒がしいな。

 軍馬を不思議な方法でしまったアッシュは、砦に続く道を歩き顔をしかめた。実際、剣戟の金属音や男達の怒声に魔術の硝煙が、遠くから風に乗りアッシュを掠めていたのだから、何も起きていないはずがない。胸壁を走り回る人影や何かが燃える煙も見えてきた。


 きゅ——け——つ——をおしも——せ——。


「吸血鬼?」


 吹き荒ぶ風の音に怒声が見え隠れする。

 その中にはどうも吸血鬼を示唆する言葉も混じっているように思え、アッシュは背中にかけられた両手剣を外し肩へ担いだ。


「なんにせよネリウスのことは訊かないとな」ゆっくりと歩みを進めるアッシュは砦に目を凝らし小さな声で何やら呟き始める。蒼白い月明かりを背負った<宵闇>の輪郭は、長らく続いた呟きの抑揚に合わせ緑で縁取られたり赤く縁取られりを繰り返す。最後にはフードの中に浮かぶ黒瞳が蒼く輝いた。




 シャルドラ様がやられた!


 怒声と共に数人の兵士が慌てて門を打ち開き、全速力で駆け出てきた。

 腕を引き千切られたものもいれば、上半身の装備を剥ぎ取られた女兵士や魔術師らしき者、満身創痍の人々が決死の形相で駆けて来た。その後ろの暗がりからは、涎を撒き散らし驚異的な走力と跳躍で獲物を捕獲する無数の人外が溢れ出た。逃げ遅れたものは人外の餌食となり身体に牙を立てられ陵辱され絶命をする。男女も関係なく喰らいつかれ肉を引き千切られ、そして犯されたのだ。


 逃走の人流へ逆らい歩く<宵闇>の脇を兵士が駆け抜けていく。


 「おい! あんたも逃げろ!」


 逃走兵はアッシュに声を掛け必死の形相で坂を下り駆けた。

 しかし、小さな岩に脚を取られ坂を転げていく。そして、それを追うようアッシュの頭上を幾つかの影が跳躍していくのがわかった。「助けてくれ!」逃走兵の絶叫が轟いた。しかし、その側を駆け抜ける兵士達は恐怖に囚われ狂ったように笑いながら駆け抜けるものもいれば、有らん限りの声を張り上げ剣を振り回し逃げまどい、誰一人として助けの手を差し伸べるものはいなかった。

 ついに囚われた逃走兵は三匹の人外の餌食となると、その場に沈んだ。



「こりゃ酷いありさまだな。吸血鬼というより屍喰らいの類か」アッシュはそう呟き、沈んだ兵士を一瞥し歩き出した。


 門から溢れ出てくる人々に人外。

 とある女魔術師はこれが最後と諦め脚を止め、魔術の詠唱を始めるがあっけなく人外の波に呑まれ、ローブも何もかも引き裂かれると幾数の吸血鬼の餌食となった。

 とある戦士は仲間を逃そうと、しんがりを走るが脅威的な跳躍力の前では意味はなく前を逃げる仲間を持っていかれた。


 戦士はその場に茫然自失とし跪きうなだれた。そして、そっと近寄ってきた女吸血鬼に首筋を奪われ力なく笑ったのだ。アッシュはそんな光景を脇目に、飛びかかってくる吸血鬼を一刀の元に斬り伏せ、首を斬り落とし、胴を二つに割った。


 そうして暫く斬り結びながら歩き、アッシュは砦の大門に取り付いた。


 燃え盛る中庭は、逃げまどう兵士を追いかけ、走り回る吸血鬼どもで溢れかえった。そのなか、ひときわ高貴な様相を伺わせる黒のワンピースをまとった女が<宵闇>へ向かい真っ直ぐと歩いた。赤く燃えた瞳は不思議な光を放ち同じ赤の長髪は燃え盛る炎の風に大きく揺れた。


「お前が——こいつらの大将か?」アッシュは黒鋼の両手剣を女に向けた。

「あら、随分と不躾な物言いね。淑女の扱いがなってなくてよ?」

「ほざけよ」女の切り返しに短く応えたアッシュは、目を細めた。どこか違和感を感じたのだ。この女の存在そのものにだ。アッシュやアッシュに類似した人々は皆リードランでは<外環の狩人>と呼ばれた。

 その由来は諸説あるが一番わかりやすいのは、彼らの非常に長い寿命だ。老衰で死ぬのかさえも定かでない。だから、人々は彼らの営みは自分達の営みの環から外れたところにあると考えたのだ。

 彼らは国政には関わらず、各国に跋扈する魑魅魍魎の類の討伐や人々の生活を脅かす神代の獣——古竜を筆頭とした竜族に、燃え盛る火山を根城にする炎狼、鬼の類などを狩ることで報酬を得て生活をすることから狩人と呼ばれた。その真の目的はわからない。がしかし人類に仇なす存在ではないことは確かだ。しかし例外もあった。フリンフロン初代国王のジョージ・シルバは後の文献で<外環の狩人>であったことが記され、ヘルムートに王位を移譲すると臣下の目前でそれこそ忽然と姿を消したのだそうだ。


 <宵闇>は、悠然と対峙するこの女に自分と同じ空気を感じた。

 しかし何かが違う。中身のない木偶人形とでもいうのだろうか。それは魂の抜けた肉体と言い換えてもよいのかも知れない。だからアッシュは警戒をした。


「あなた、外環の狩人よね?」


 その言葉にアッシュは一歩距離を取った。

 <外環の狩人>は互いの存在を初対面であったとしても名前くらいは認識できる。だから女が訊ねた内容は口にしようがない。それがわからないということは狩人ではない。目の前の女はそれを訊ねた。だが何かがおかしい。アッシュはいっそう警戒を強めた。


 「だとしたらどうする?」いつでも黒鋼の両手剣を振り抜けるよう構えを取ったアッシュは少しだけ前傾になり目の前の吸血鬼を見据えた。そして集中をした。中庭から聞こえてくる悲鳴に怒号はもうアッシュの耳には届かず、鼻腔の奥を突く湿った木々が燃える酸味のある煙の臭いも感じない。全ての感覚を視覚と触覚に集中し眼前の得体の知れない脅威に向けたのだ。


 吸血鬼はその様子に満足した。これでやっとあの銀髪の少女の希望を叶えられる。妖艶な笑みを浮かべ、顎をあげながら濡れた目で<宵闇の鴉>を見つめた。


「あなた、お名前は?」


 そう云うと吸血鬼は左手を前に突き出した。

 軽く握った左手に蒼く輝く粒子が集まる。そして、アレクシスは黒鋼のエストックを握りしめアッシュに切っ先を向けたのだ。確定だ——アッシュは心中呟いた。この芸当を成せるのは<外環の狩人>だけだ。


 アッシュ・グラント——<宵闇>はそう応えた。




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