「これっぽちも恨みつらみを持っているわけではありません。ですが——
魔導師レトリックは羽交締めにしたエステルが小刻みに身体を捩るのを押さえつけ、赤黒く輝く短剣らしきものを放り投げた。
——これは仕事でもあります。いや、違いますね。どちらかと云えば私欲ですね」
レトリックの丹精に整った顔はピクリとも表情を変えなかった。
ただの一つでも心を乱せば、自分が置かれている緊迫した状況に呑み込まれてしまう。だから、心を殺し淡々と要求を述べたのだ。
アッシュ・グラントは、それに怒りを露わにレトリックを睨んだ。
投げてよこした短剣は、シェブロンズでキュルビスが手にしたアーティファクトとだった。レジーヌが追い求めた代物でもある。レトリックはそれをアッシュの胸に突き突き立てろ、そう云ったのだ。そうすれば赤髪の姫を解放すると約束をした。その契約は魔導師の間で
「アッシュさん、落ち着いてください。奴の口車にのっては駄目です」
アドルフは今にもアッシュの怒りが決壊するのではないかと、心配そうに背後から声を掛けたのだが当のアッシュはそれに、うんともすんとも答えない。
シラク村を焼き焦がした業火にその元凶。
それは崖から放たれた<魔力の奔流>が西の彼方に運び去った。しかし、それも束の間。首を無くした大蛇の躯が、ドスンと音をたて横たわると孕んだ溶岩を垂れ流し始めたのだ。ブリタはそれに気がつくと咄嗟に駆け出し、今やなけなしの魔力を振り絞り<魔力の障壁>で忌々しい溶岩を押さえ込んでいた。
ライラは、苦しく顔をしかめたブリタの顔を見るとアドルフに「ここは任せて」と声をかけ、薬師の方へ顎をクイッと向けて見せた。暗にブリタが魔力欠乏症に見舞われる前に手を貸してやれと云ったのだ。
「なんだって云うんだ」口にしたのはアッシュだった。
「アッシュ・グラント——」
ライラは様子をおかしくしたアッシュの肩へそっと掌を添えたのだが、アッシュはそれを乱暴に振り払い「なんでこんなことをする」と、更にレトリックへ言葉を突き立てた。
「死地に赴いたのはあなたでしょう、アッシュ・グラント。私は私の使命を果たすため、必要なものを必要なだけ利用をさせてもらっている。それだけです。偶然とそれに隣あった必然。そんなようなものですよ<宵闇の鴉> 呪うなら、あなた方がここへ来ることとなった運命を呪ってください」
「そんな詭弁はいいです。エステルを離して下さい。その人は関係ないでしょ」
眉間に皺を寄せたアッシュは一歩前へ。
腰を折れば<楔>へ手が届くところで立ち止まった。
「あなたの使命だと云いましたね。それは誰が?」
片足で短剣を引き寄せるアッシュはレトリックの一挙手一投足に注意を払う。ぶっきらぼうに投げかけた言葉へ返るものはないだろう。そこはかとなくそう思っていたアッシュであったが、目の前の魔導師の表情が陰ったように見えた。
ライラもそれを見逃してはいなかったようだ。
アッシュの背後を周り右からレトリックへの距離を詰めようとした。
「誰が? おっと、ライラ・リンパル。抜け駆けは感心しませんね。それ以上近寄らないでください。あなたがたの身体能力は阿呆のような、おっと、ずば抜けているのですからね。下手を打てば、この姫も巻き込みますよ——
レトリックはそう云うと左腕を乱暴に動かしエステルに後退するよう、力を込める。それに顔を歪めたエステルは「ごめんなさい」と小さく口にし、レトリックに従う。アッシュはそれに小さく、かぶりを振った。
——それで、誰がって話ですね。ペラペラと喋るようなものじゃあないですが、正直なところ私はこれに対しては不信感を抱いています。つまり、導師フェルディアと魔導師アイザックが望んだことにです」
言葉を切った魔導師は北の崖に奇妙な気配を感じ、横目でそれを確認する。
そこにはどうだろう、信じられないが<魔力の奔流>が現出した崖には一人の少女が佇んでいたのだ。あの少女がアレを放った? レトリックが目をやったその時には、パタリと倒れ込んだようで、すぐに姿が見えなくなる。
魔導師が口にした使命への不信感。それは嘘でもなんでもなく本心だった。
ミネルバに四つ首の蛇に魔力の少女。一体何が起きているのだ。
「アイザック・バーグね。傲慢の
意外にもレトリックの口を突いた名に反応を見せたのはライラだった。
アッシュは、それに眉をひそめ、剣術士の顔を肩越しに見た。
「ご存知でしたか」
それに更に表情を曇らせた魔導師は、警戒を強める。万が一にも可能性はないのだろうが——自分が知らないアイザックの二つ名を口にした狩人は、あの狂人に雇われた可能性が頭をよぎったからだ。
「彼らは云ったのです。その<楔>を狩人に打ち込めば——打ち込めば<外環の雫>を取り出せると。<雫>は滅びた肉体を回復し魂を呼び戻せると。彼らの真意は分かりません。しかし、彼らが見せる奇跡の前では、それにすがるしかなかった」
レトリックはそう続けると、右頬をひきつらせた。
ライラはそれにかぶりを振ると「そう。でもね——」と更に一歩詰め寄り「いい? あなたに使命を課したのは、吸血鬼の始祖の一人。あなたの恋人でも生き返らせてくれると約束をしてくれた? 本当に人が蘇ると?」
「始祖?」その言葉に目を見開いたのはアッシュだった。
「嘘だ。そんな輩に導師が惑わされるはずも——」レトリックもライラの言葉に面食らい言葉を振るわせた。しかしあの日、教会を訪れた赤髪の淑女アレクシス。彼女から感じた翳る雰囲気。陰鬱を身にまとったような怪しさ。そして、美しさ。確かに、そこには人の魅力はなかった。だとすれば——それを迎え入れたあの老人は。
「私には妻と娘がいました」
レトリックは何かにすがるよう言葉を捻り出し「しかし、不治の病に冒され身体中から毒を振り撒いたそうです」と続けた。
「そうです? それを見てはいないの?」とライラ。
「ええ、見てしまえば毒に侵されると。そして遂には二人とも逝ってしまった」
「それで蘇らせるから——<雫>を取り出せと?」
「ええ、不治の病もすっかり取り払われるだろうと」
ライラはその言葉へ無言の否定を投げかけた。
それは雄弁な沈黙だった。
人がおいそれと死して至った深淵から大手を振るって戻るなどという都合の良い話はない。そんな話は神代の語り草に見えるか見えないか。仮に戻ったのだとしても、代償は支払われた。それは他人の命ではなく、すべからく自身の身を削り捧げなければならない。
かの尊師メルクルスもそうだっただろう。
彼は聖霊ロアの手で<生命の起源>に還されたと聞く。尤もそれが愛ゆえのものだったのか、はたまたは我欲に満ち満ちた負であったかは定かでない。
「まさか——」
揺さぶられた。
レトリックは心を揺さぶられ、しかしそうであろうとも、すがった藁を手放しては全てを失う。だからエステルの身体をいっそう強く締め、か細い首にあてがった刃を仕切り直した。いずれにせよだ。真意を確かめるにも、仮に妻や娘が還ってくるにせよ、この場から逃げなければならない。
「諦めなよ。悪いようにはしない。だからその娘を離して、レトリック」
ライラは右手を差し出した。
「駄目だ、信用できませんよ」
「大丈夫、信じて。なんだったら私も一緒にアイザックのところに行ってあげる」
始祖の名を耳にしてから沈黙を守ったアッシュだったが、ライラの交渉の筋に思うところがあったのか「これを突き立てたら、どうなるのですか」と割って入ったのだ。それにライラは「ダメよアッシュ・グラント。それはダメ」と、それまで何処か気の良い雰囲気だった彼女が声を凄ませたのだ。
※
アドルフ・リンディはライラに云われブリタへ加勢に駆け寄った。
吹き飛ばされた大蛇の巨躯は、あらゆるところから溶岩を垂れ流し、それは無限にあるのではないかと思えた。
魔力の障壁の中で嵩を増していく禍々しい溶岩。ブリタは駆け寄った野伏に「水を出せますか?」と短く訊ねた。どうやら溶岩を冷却し固めてしまおうということらしい。
「さすがブリタさん、
アドルフは駆け寄りブリタに訊ねられると「はい」と短く答え、慣れない術式を展開し始めると、そう云ったのだ。
この旅が始まる頃からアドルフは、ことブリタについては様子がおかしく何かを探り探り話すようだったのだ。ブリタもそれには気が付いているのか、アドルフと話すときは、そこはかとなくぎこちない。
クレイトンでレジーヌが展開をした術式に似たものを展開するアドルフは、黒鋼の短剣で鞘をチンと鳴らすと、宙に浮かんだ術式から大量の水を降り注がせた。
「私がここで慌てたらシラク村が壊滅しちゃうじゃないのですか」
「そうですか? こんなまどろっこしいことをしなくても、本当は一気に片付けられちゃうんじゃないのです?」
「アドルフさん、私は薬師ですよ? これを維持するのもやっとなんです。そんな私に何を望んでいるんです?」
ブリタは少々憔悴した面持ちを滲ませ苦笑した。
「それもそうですね。失礼しました。お。少し落ち着いてきましたかね?」
「確かに。あと少し」
「ですね!」
先ほどまでの腹を探るような野伏の低い声は、なりをひそめ、いつもの若々しい活力の漲る声で云ったアドルフは、もう少しだけ流し込む魔力を増し、放水の量を増やした。ドドドと音をたて流れ落ちる大量の水は、溶岩を冷やし大量の水蒸気を狂ったように立ち昇らせた。
それにしても。
アレだけ苦戦を強いられた四つ首の大蛇。六員環の暴食の蛇を、<魔力の奔流>の一撃で屠ったのは誰だったのか。アドルフは北の崖に目をやった。そこには、両手を腰に添えた少女、ミラの姿があった。まさか——アドルフは目をひそめるのだが、それも束の間、彼女は両手を上げながらパタリと倒れ込んでしまったようだった。
※
「アッシュやめて。やめてちょうだい」エステルはそう懇願した。
アッシュは<楔>を拾い上げ、見つめ「その<雫>ってのを僕から取り出せばエステルを解放してくれて、成功するかどうかは別としてあなたも大切な人を助けることができるかもしれない。そう云うことですか」と、誰に云うわけでもなさそうにボソボソと口にしたのだ。
エステルはそれに一抹の不安を感じ、やめろと懇願をした。
良いことはきっとない。エステルの心に去来する予感は、そう告げている。女の勘というのは時に正確であるのだ。ライラもそれには「ダメだよ、アッシュ」と、強く云い聞かせた。
「ええ、それで万事解決です」
「しかし僕は狩人ではないですよ」アッシュはレトリックを一瞥した。
「ええ、でも導師フェルディアもアイザックも、あなたから取り出せる<雫>が最良だと」レトリックは、そこで落とした言葉の隙間に何かしらかの機を見出したのか。曇らせた顔を一変させ「助けてください。アッシュ・グラント。それで私もあなたも幸せを——」と、ねじ込もうとした。
「アッシュ・グラント! ダメよ! レトリックも黙って。それは始祖の企てのはずよ! 冷静になって。お願い。それをこちらに渡して。レトリックも、その娘を離しなさい。悪いようにはしない。約束する」
失った者。失おうとている者。その両者に流れた空気は、薄い細い糸で互いの均衡を保っているようで、ライラは今にもそれが、ほつれ崩れるのではないかと悟った。崩れてしまったその先は互いの破滅。
<楔>がもたらすものは定かではないが、仮にも始祖が託した魔導具であれば、それが正に働くこともなく、その結末は二人のいや、下手をすれば三人の死だ。
しかし——。
「ライラさん、こうなった以上、どっちも助かるなんて都合の良い話もないでしょ。それで、魔導師。切っ先を胸に当てればいいのですか? これでエステルを解放しなければ、あなたの命は失われます。いいですね」
どうやら意を決したのはアッシュだった。
駄目だ、考え直せと声を挙げるエステルとライラの声はすでにアッシュには届いていなかった。
「突き刺す必要はありません。添えてあなたの魔力をほんの少し——」
「わかりました。エステルを離してください。少しでも変な動きをしたら——」
「わかっています」
レトリックの表情も、エステルを拘束した力も幾許かそれで緩んだ。
※
「ちょっと、どうなってるの!?」
「そんなの、わからねぇよ! 兎に角急ぐぞ!」
聖霊ロアが消え去った崖から、アッシュの異変に気がついたミラとグラドは馬を駆り、来た道を急いで戻っていった。ミラの顔が青褪めている。それもそうだ。アッシュの異変というのは、身体をくの字に折り、大地に転げ、のた打ち回っている姿だったのだ。それに周囲の面々は手を出せずに、こまねいているようなのだ。
耳を澄ませば、獣の咆哮——何かそんなものが耳に届いてくる。
※
「アッシュ!」エステルとライラは同時に叫んでいた。
<楔>を胸に突き立てたアッシュが、ほんの僅かに魔力を流し込んだ、その時だった。赤黒かった<楔>が明々と輝きその姿を透過し始めると、それは「——を確認。失敗。生体——で——。成功。——への——を許可します」と、所々聞き取れない奇怪な言葉を発し、宙に浮いたのだ。
赤黒い輝きに包み込まれたアッシュは、身体を折り曲げ苦しみ始めると、次には弓形に身体を仰け反らせ、身体を浮かせた。何度も身体を強く痙攣させると今度は、アッシュの身体を吊るすように浮かんだ<楔>から再び奇怪な言葉が発せられた。
「——の影響を確認。——を遮断します。——を開始します。失敗。個体名バーナーズが——します」
奇怪な言葉が終わるや否や、アッシュの身体は力なく地面に転がった。
赤黒い輝きも今では失せ、残されたのは白目を剥いたアッシュの苦悶の声だけだった。それは獣の咆哮のようにも聞こえたし、地獄から轟く怨嗟のようにも思えた。
「これは——
これに酷く驚いたのはレトリックだった。
成功すれば<楔>は狩人の身体から小さな一粒の<雫>を取り出すと聞いていた。しかし、とうの<楔>は突然に言葉を発し、所々聞き取れはしなかったが「失敗」の言葉を発していたように思う。レトリックはそれに直感したのだ。理由はわからない。しかし、これはどう見ても——
——失敗したのですか?」
のたうち回ったアッシュに駆け寄ったライラだったが、苦しみ暴れ回るアッシュの脚に腹を蹴られ吹き飛ばされた。これに気がついたアドルフは「すみません!」とブリタに声をかけ、アッシュの元に駆け寄ったが、やはりアッシュの強靭な拳に胸を強打され吹き飛ばされた。
「きゃ!」
エステルの小さな悲鳴が聞こえた。
レトリックはアッシュのその様相に顔を青くするとエステルを突き飛ばし、後退り「これは一体」と、惚けたように溢したのだ。
「女魔導師。すまなかった。こんな筈では——」
レトリックはすっかり血の気が引いた顔を歪めると、エステルに謝りなおもジリジリと後退をする。するとどこかからか「お父さん!」と叫ぶ少女の声が聞こえると、外套を翻し「アイザックは——」と言葉をきり、エステルの顔を一瞥をした。
一拍の間を間を置き「ベルガルキー首都クルロスだ。打ち捨てられた区画の教会でアレクシスと呼ばれる女と潜伏している。あれもきっと始祖なのだろ?」と苦々しく口にした。
「待って!」
云い捨てたレトリックが踵を返し、その場から気配を隠すよう逃げるのをエステルは呼び止めようとした。しかし、手を伸ばしたエステルをひらりと躱したレトリックはそのまま素早く駆け出すと、瓦礫の合間を縫い姿を眩ましてしまったのだった。
※
怨嗟の獣が呻く。
そんな風な声を挙げ続けるアッシュは時折「待ってくれ」だとか「バーナーズ」と口走るのだが、その言葉の集まりには意味を見出せなかった。
レトリックが逃げ出すとエステルは踵を返し、アッシュの元に駆け寄った。
それと同じくして馬を飛び降りたミラとグラド、苦痛に顔を歪めながらも立ち上がったアドルフとライラも、暴れ回るアッシュの元に駆け寄った。
「エステルさん、<拘束の幻装>は使えますか?」
胸を抑えたアドルフは片膝をつきエステルに訊ねた。
エステルはそれに使えると答えたのだが、ただ魔力が乏しく拘束力に欠けるかも知れないと補足をした。しかし、アドルフはそれに「十分です」と答えると「僕の<言の音>に上書いてください」と云った。
アドルフは素早く地面に<言の音>を描くと「続けて唄ってください」と短くエステルに伝え言葉を紡ぎ始めた。エステルは跪き、ちょうどその旋律に輪唱するよう言葉を重ねていった。
地面はそれに呼応する。
緑色に輝き始めると暴れ回るアッシュを輝きで優しく包み込んだ。するとどうだろう、輝きは幾千本も蔦の様相をあらわし、アッシュの身体を絡めていく。最初は、その蔦はアッシュの腕や脚に断ち切られていたのだが、段々と強度を増し、遂にはアッシュをがんじがらめにしたのだ。
その合間。
<言の音>を紡ぐなか、節と節の合間にブツブツと声を挟むと、はたと立ち上がりミラに「ミラさん、アオイドスさんの硝子玉をもっていますか?」と訊ねた。
おろおろとしていたミラがそれに「う、うん」と訝しげに答えると、焦燥し切った野伏は「すみません、貸していただけますか?」と乱暴に手を出して見せた。
これにグラドは「おい、野伏! 訳を聞かせろ」と、がなった。ミラとアオイドスを繋げる唯一の絆。それを野伏は不躾に渡せと云ったのだ。グラドはミラとアドルフの間に立つと顔を真っ赤にした。
「グラドさん、ごめんなさい。時間がないのです。それにそれを貸して欲しいと云っているのは——」
その時だった。
蔦に拘束をされたアッシュが更に声を大きく呻き始めると、いつの間にか破けたチュニックの合間から顕になった胸に腕に裂傷が走り苦しみ始めたのだった。裂傷は広がりを見せると、その筋に血を追わせ打ち震えるアッシュを文字通りに血塗れにする。
宙に浮かんだ<楔>がそれに合わせ、鋭い音を当てると砕け散る。
その下で跪き<言の音>を紡ぎ続けるエステルは、この目も耳を覆いたくなる状況に直面すると恐怖を顔に浮かべた。
「早く! 一刻を争います!」
アドルフはいよいよ切羽詰まり、必死の形相で二人を——グラドとミラを捲し立てたのだった。