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アッシュとミラ




「ねえ野伏。アッシュ・グラントは生きているの?」


 一同騒然とするなか、ライラ・リンパルはどこか呑気にアドルフに訊ねた。彼は先ほどから、アッシュの傍でぶつぶつと誰かと話をするようだったが相手が誰かは皆目見当がつかない。

 答えは直ぐには返ってこなかった。

 それを横で聞いたエステルは不安を顔に滲ませ、アドルフの手元と顔へ交互に視線を送り、ライラの問いになんと答えるのか、そわそわと待った。



「ええ、大丈夫です——」


 暫くするとアドルフは珍しく鋭く目を細めライラを見上げて云った。警戒。どこかそのような雰囲気を感じたライラは、肩を竦め「ならよかった」と大袈裟に笑みを造りアドルフの視線を受け止め、余韻を残した野伏の反応をまった。


 シラク村を襲った惨劇は、一応の鎮静を取り戻したかに思えた。

 しかし、どこからともなく集まった鴉達が瓦礫のあちこちに降り立ち周囲を見回す。その光景はお世辞にも穏やかではなく、死肉に今にも群がろうとする姿勢と光景は、まだ惨劇は終わっていないのだと一同に知らせている。



「ライラさん? でよろしかったですか?」

 周囲を見渡し、アドルフは言葉を続けると彼女の言葉は待たず「今はそっとしておいて貰いたいです」と続ける。


 ライラがここに居合わせた事情は、そこはかとなく察している。

 だが、野伏はそれを承知で今は何も云わないでくれと、暗に表情で訴える。それは、片目を瞑る訳でも、申し訳なさそうに笑う訳でもなく、どこか真剣な面持ちだった。その雰囲気を肌に感じたからなのか「訊きたいことは山ほどあるからね」と、ライラは釘を刺したものの、承知したというふうに答えたのだ。



 エステルは二人のその会話に、憮然とした。

 まただ。

 外環の狩人が訳知り顔で私達をよそに何かを決めている。そして、四つ首の処理を終えたブリタがそこへやってくると、更にその表情を暗くしたのだ。


「アドルフさん、アッシュさんは——そのもしかして以前の巨魔トロルの狩人のような」とブリタ。

「ええ、それよりも少々まずい状況でしたが、でも大丈夫です。先生が——」


 アドルフが答えようとしたその時だった。

 仰向けに寝転がったアッシュが、ゴボゴボと水気を含んだ音を口から大きく漏らし咳き込んだ。大量に吐血し、あわやその血液に溺れかけようとしたのだが、慌ててエステルが彼の顔を横に向け最悪の事態は回避できた。

 エステルはアッシュの背中をさすり「アッシュ、アッシュ」と声をかける。

 大量の血を吐き出すアッシュの姿を目の当たりにしたミラが堪らず「お父さん!」と声を挙げた。


「え?」


 ライラは小さく声を漏らした。

 ネイティブがアッシュを父と呼んだのだ。



(先輩。これってどういうことなんですか?ネイティブがアッシュ・グラントを父だと。アッシュは——)


 ライラが念話を送った先はショーン・モロウにであった。


(おお、なんだ藪から棒に。今、ギネスさんに例の話を訊いているよ。それよりも、ちょっとこっちも雲行きが怪しくなってきてさ)

 ショーンは何やら、お茶でも啜っているのかズズズと音を立てるふうだったから、ライラはそれに顔をしかめ(ちょっと、もう)と、その下品な音に乗せた物言いへ苦情を伝えると、話を続けた。尤も話題は、アッシュの事よりも急を要する雰囲気を漂わせたショーンの話題にすり替わる。


(で、どうしたんです? 趣味に公費を使ったことがばれちゃいました?)

(そんな事実どこにもないでしょ? 人聞きが悪いなぁもう。いやね——この件からは手をひけってさ)

(え? どこのどなた様が?)

世界の円卓フラクタルが出張ってきたよ。俺たちは引っ込んでろって)

(まさか——嗚呼もう、一体何が起きているんですかね)

(ね)

(ね、じゃないですよ。もう)









「給金分キリキリ働けよ! お前らならこんなの、ちょちょいのちょいだろ!」


 うひゃあ! と、倒れ込む土鬼ノームに驚き、がなり、悲鳴を挙げ、なんのつもりか叱咤激励を飛ばすのは議長のナウファルだった。

 世界蛇、四つ首の大蛇、ヒドラ、人々が様々にそう呼んだあの災厄の蛇。それは禍々しく赤々と輝き、黒々と瘴気撒き散らした。その結果、暗がりに身を隠す魑魅魍魎を呼び寄せ、今まさにシラク村を蹂躙するため村をぐるりと囲う壁に、門に、殺到してきたのだった。


 土鬼ノーム人喰い鬼オルグ巨魔トロル

 警戒もせず村の門を飛び出していった村人達は魔物の餌食になると断末魔を挙げ、この襲撃を警備隊に知らせたのだった。

 西の奥では大蛇が暴れ、東と南の門は魔物の達の軍勢に退路を絶たれると警備隊は村の門を固く閉ざし、防衛にあたった。北はどうなったかわからない。


 決死の警備隊に村人達は「門を開けろ!」と叫び自分達を早く安全なところまで連れて行けと泣き叫ぶ。その中にはナウファルを「邪魔だ」と云い放ち、足蹴にした村人もいただろう。しかし、ナウファルはその現場にくるや否や声を大に「大丈夫だ、あとは警備隊に任せておけ」と云い「必ず命は助けてやる」と続けたのだ。


 警備隊の面々はそれに「何の権限があってそんなことを」と抗議したのだが、ナウファルはそれに「村を護りきれば報奨金を出す」と条件を出した。それでも足りないなら王都のグラハム伯へ王国軍への取り立てを具申してやると付け加えた。尤も最後の約束は、とんだ博打ばくちだったが、これを乗り切った猛者であれば何とでもなるだろうと踏んだのだ。


 これに士気を上げたのは若い隊員達だった。

 出どころのわからないナウファルの箔に感化されたのか、はたまたは、そこはかとなく耳にしていたナウファルとシャクール兄弟の逸話——村をここまで発展をさせた話だ——とそれを結び付け、希望を見たのか、とにかく若い隊員達は士気を上げたのだった。


「よし! いいかお前ら、お前らの勇猛果敢さはよく知っている! だがな、世の中それで渡れるほど甘くはないぞ。いいか、よく聞け! ここに居る——ああ、そうだそうだ、お前だ。ここに居るオズワルド大隊長は非常に優秀な戦士だ、大隊長の指揮に従いキビキビ動け! お前らの力を存分に引き出してくれる。そうしたら名誉だろうが、名声だろうが、ついでに報奨金もお前らのもんだ」

 ナウファルは、魔物達が打ち叩く門を背にそう捲し立てると、傍にいた戦士——ナウファルを足蹴にした一人だった——を引き寄せ、彼の背中をバシっと叩いたのだ。


「な、何を——」


 突然引き合いに出されたオズワルドは目を白黒させナウファルを見たのだが、ナウファルはそれに「これで手打ちにしてやる」と小さく呟いたのだった。こうして出来合いの防衛隊を組織したナウファルは門を固める戦士達に発破をかけ、暫くの間その場を鼓舞して回ったのだった。少しの後、西の空に青の閃光が走るのを見届けると「あいつ、やったのか!?」と声を裏返し叫ぶとシャクールを連れ西に馬を走らせた。





「ひでぇ有様だなこりゃ」

「兄上、危ない!」


 西に駆けたナウファルとシャクールは瓦礫の山に道を塞がれると、馬を降り方々で燻る火の手を避けながら歩いていた。少しばかり進むと瓦礫の影から躍り出た黒々とした外套に身を包んだ男と出会した。しかし、その男は二人を一瞥すると、ひらりと身を躍らせ瓦礫の向こうへと姿を消し、何か得体の知れない不穏を二人に残す。


「ありゃ魔導師だろ。シャクール見たか?」

「何をだ、兄上?」

「あの魔導師の首飾りだ。ありゃメルクルスのだろ。嫌な予感がするぜ」

 ナウファルとシャクールはそれに顔を合わせると、先を急いだ。





 ミラ・グラントは暫くのあいだ、アッシュが苦しみもがく姿をハラハラと見ることしかできなかった。自分は同じ年齢の子供よりも自分は大人で、何でもできると思っていた。何だったら世界を一人で旅できるだろう。そう思っていた。


 しかしそれはとんだ思い上がりだった。

 やっと出会えた『父親』は目の前で苦しみ自分ではない誰かの手で介抱され、自分は何もできなかった。何かに身体を押さえ付けられるようだったのだ。手を伸ばそうとすれば何かに引き戻され、お父さんと叫ぼうとすれば口は何かに覆われたのだ。

 そうやって身体を押さえつけるものは、幼さだったのだろうか、未熟さだろうか。ミラは、うまくそれを言葉にできず、泣くこともできず、何もできず、ただ頭の中を真っ白にすることしかできなかった。


 でも。何がどうであれ、今、アッシュは自分ではない誰かの手により命を繋ぎとめた。ミラはそれを目にし、ようやく涙を流せた。兎に角、今はそれでよかった。

 背中に分厚い手の感触を感じた。それはグラドの手だった。アッシュは血塗れであったが、疲弊した顔であったが、背を丸め座った姿であったが、今、ミラが夢で観ていたあの顔がこちらを見ている。

 それは穏やかな顔だった。

 グラドの言葉を頭で反芻する。

 ありのままのアッシュを見てやれと。


「叔父さん——」

「嗚呼、兎に角話してこいよ。お前も薄々はわかってたんだろ? アッシュは本当に記憶を無くしている」

「うん——それに……」

「ん? まだ他にあるのか? まあでも、座った腹が動いちまう前にいっとけ」

 涙を腕で乱暴に拭ったミラは最初は辿々しく歩き、そして心を決めると颯爽と歩き出した。エステルに身体を預けたアッシュの前に立ったミラは、すぐさまその場に胡座をかくと「大丈夫?」とアッシュに声をかけた。




 自分を父親だと呼んだ少女。

 勿論アッシュにはそんな経歴も、証跡も、前歴もない。その筈だ。それは周囲の反応からも明らかだ。

 だがしかし、心のどこか奥とも遠くともわからないところ、自分が自分でない自分を見るように、感じるように、鏡面を見るように、その少女は自分の何かかも知れないと小さな篝火を見た気がした。それは少女の黒瞳の奥なのか、そこに映った自分の黒瞳の奥なのか。それはわからない。


「ええ。助けてもらったようですね、ありがとう」

 そっとアッシュを覗き込むミラに、ハッと我に返ったアッシュは、そう云うとかぶりを下げた。少女の向こうで腕を組み、フンスと鼻を鳴らすグラドにも目をやった。少しばかり笑顔をこぼし、かぶりを下げる。





「おう、無事じゃなさそうだな!」


 脚を引きずったナウファルが一行の前に姿を現したのは、ミラが何かを口にしようとしたその時だった。でっぷりとした身体を包んだ豪奢なトーガは、もうボロボロでその下のローブも何もかもが黒く煤けたナウファルは、身体を揺らし、大袈裟に周囲に群がる鴉を追い払いながらやってきた。

 兄を介添えするシャクールはかぶりを下げながら、それに付き従った。

 口の悪い議長閣下は思い思いに佇む一行に視線を配り、アッシュの前に立つと下卑た笑いを浮かべ顎をさすった。


「なんだよ、メルクルスの魔導師を見かけたから不吉なことになってんじゃねぇかって心配してきてみたがよ、女をはべらせて大そうなご身分じゃあねぇか」


 アッシュはそれに苦笑し「そんな風に見えます?」と、でっぷりを見上げた。「いいや見えねぇな」とナウファルは表情を一変すると、真顔となり深々と頭を下げた。

「この恩は忘れねぇぜ。一生かかっても返させてもらう」

「ねぇ、ナウファルさん」アッシュはそれに微笑んで短く云った。

「何だよ」

「あの大蛇をやったのは、このなんですよ。僕たちじゃない」


 ナウファルの威勢に気圧されたのかミラは議長がやってくると、そそくさとアッシュとエステルの影に隠れていた。アッシュはそんなミラの肩に手をやった。


「本当かよ。さっきの光か?」

「ええ、このの術式です。ですよねミラ?」

「本当か!? 凄えじゃねえか!」


 名を呼ばれ目を丸くしたミラは顔を紅潮させると「ああ、うん」と、俯き加減に小さく返した。やはりと云うべきか、当然と云うべきか。一度引っ込んだ覚悟はそうやすやすと穴から顔を出そうとはしないものだ。それとも、もっと別の理由なのかも知れなかったが兎に角ミラはもじもじするばかりだった。


 エステルは、最初はミラを怪訝な面持ちで見ていた。

 しかし、彼女の身体一杯に溢れ出る純粋さが理由は何であれアッシュに向けられるのを見ると、いつしかの自分の事を思い出していた。アッシュとの出会いも何もかもが最悪の状況であった。それとミラが置かれた状況が同じだとは思わないが、でも、初めて名前を呼ばれたあのとき、きっと自分もこんな顔をしたのだろう。そう思っていたのだ。


「エステルさん、どうしたの?」

「え! あ、はい!?」


 エステルの不意をついたのはブリタだった。

 ブリタは不作法なナウファルを終始、迷惑そうに眺めながら憔悴しきったアドルフ、ライラに飲み薬を呑ませると、エステルに薬の小瓶を渡しにやってきたのだ。不意に声をかけられ、猫目に心を見透かされたような気分のエステルは「あ、ああ! ありがとうございます」と不器用にそれを受けとり、飲み薬を口にしたのだった。



「おい! 肉だるま!」

 ここにも空気を読まない男が一人。

 大声を挙げたのはグラドだった。ミラが心を決めアッシュと向き合った矢先に出鼻を横から挫いたでっぷりへ酒樽が突っかかっていったのだ。それにアドルフは「はぁ」と溜息を漏らし、かぶりを振ると二人に間へ割って入った。


「ずけずけと割って入ってきやがって、何様のつもりだ」

「ちょっとグラドさん——」

「何だ穏やかじゃねぇな、おい。何様だって云うお前こそ何様だ——」

 ヨレヨレのボロボロの筈のナウファルだったが、売り言葉に買い言葉、威勢を張ると、幾分か自分よりも背の低いどっしりとしたグラドへ、ズイっと身体を寄せた。それにミラはいよいよ顔色を変えると「叔父さん!」とグラドに駆け寄り、なだめようとする。


「良いんだって、後でいっぱい話せるから!」

 ミラはピシャリとグラドに云い切ると、自分のために声を荒げてくれた叔父さんの腕を引っ張った。それにナウファルは、ハッとした顔をすると「ああ、まさか取り込み中だったか?」と意外と真剣な顔でグラドに訊ねたものだから、グラドは「おう」と少々なぜだか拗ねたふうに口を尖らせた。

「ナウファルさん、えっとですね——」と、そこに口を挟んだのは、エステルに肩を借り立ち上がったアッシュだった。

 アッシュは、ナウファルにことの顛末を始終伝えると「——なので、僕はこのと話をしたいのですよ」と結んだ。

 ナウファルは、それにバツの悪そうな顔をすると「何だ、まるで俺が空気読めねぇみたいじゃないかよ。悪かったな」と、頭を乱暴に掻き回し、本日何度目かの頭を下げる。


 アッシュの云うとおり口も態度も悪いが、素直で本当は良い奴なのかも知れない。


「ところでだ——」

 ナウファルは顔をあげ一同の顔を見渡し言葉を続けた。

 それは東門、南門に押し寄せた魔物達の事を一同に話し始めたのだ。


 一難去ってまた一難。すでに西の空が朱く染まり始めている。帷が降りてしまえば、最悪の状況を迎えるだろう。

「なんで、それを先に云わないんですか」とアッシュが呆れた口振りでナウファルを責めるが、責められたとうの本人は「こっちの都合を云うのに礼を欠く訳にはいかねえよ」と反論をする。


「だったら、軽口を叩いている場合じゃないでしょ。僕らがもと居たところですよね?」

「おう、行ってくれるか」

「ここまで来たら、最後まで付き合いますよ」


 一部始終を傍観したライラはそれに「私も付き合うよ」と馬上の人となり、アッシュ達と馬を並べた。


「私達はお役に立てなさそうですから、怪我人の手当と、念のため西門も見てきます。えっと——グラドさんにミラさん、手伝って貰えますか?」


 ブリタはそう云うと、グラドとミラとその場に残った。

 ナウファルとシャクールは、はなっから頭数に入っていなかったが「俺達も手伝うぜ」と使命感に心を激らせブリタ達の輪へ、割り込んでいった。

 そんな一行の様子に苦笑をしたアッシュは「ミラ、また後でゆっくりと!」と最後にそう声をかけ、馬を回頭し駆け出した。





「アッシュさん、大丈夫ですか? 顔色が——」


 馬を並べたアドルフがアッシュの顔を覗き込み、後ろを駆るエステルには聞こえないほどに訊ねた。あれだけ吐血し苦しみ踠いていたのだ、いくらブリタの薬が万能であったとしても、エステルの魔導が優れていたとしても、この短時間で回復をするはずもない。


 そもそもアッシュは大崩壊で生き残った後は全盛期とは比べ物にならない程、体力を低下させていたのだ。

 今こうやって平静を装うアッシュの顔色が悪かったとしても、不思議ではない。それに加え野伏は、酷く心配をしていることもあった。<楔>が砕け散る前に発した「個体名バーナーズ」という単語。

 アッシュ・グラント。いや、乃木無人の意識に潜った葵とも最後の方は連絡が途絶えていたのだ。

 そして、連絡が途絶える前、頭へ流れ込んできた声があった。

「嗚呼、バーナーズ。それはなんだ」と、聞き慣れない声はそう云ったのだ。


 アッシュは声をかけられると随分と苦しそうに「ちょっと厳しいですね」と、乾いた笑いを小さく漏らし顔を歪めた。


 村はほぼ壊滅状態だろうと思っていたが、南側は生き残った村人が身を寄せ合う姿も、家屋から外の様子を窺う者も見受けられた。比較的に被害が小さい。

 だが、それも夜の帳が降り魔物達の刻を迎えれば、その様相は一変するだろう。

 すでに陽は落ち始めている。


「急ぎましょう」


 アッシュはブリタから旅立ちの時に渡されていた丸薬を口に放り込むと、鞍袋に放り込んであった水筒から水を流し込んだ。




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