「我々の花冠と白樺の君は、原初の刻、我々に加え岩堀りの酒樽どもを導き世界の壁を越えようとしたのだ。そうだ。今では鍛治の技を受け継ぐのは、多かれ少なかれ酒樽どもの末裔だ。
白銀石を掘った白石の部族とは違う。
あの部族は四番目の獣、つまりお前ら人間が放たれると颯爽と世界から姿を消した。東の焔を求めて壁を越えたのだそうだ。その頃はまだ監視の大蛇は放たれていなかったからな。だが、それでもあの壁は全ての脚を拒むのだが……どのようにして越えたかはわからない。
ところで魔導師。お前は本当にその頃の記憶がないのか?
それともお前のグラントの名は偽り、いや、そんな顔をしないでくれ疑っているわけではない。長い歴史の中、血筋が隠蔽され秘匿されることはままある。その類か? 世界に放った竜の記憶はないのか? 人へ智慧を与えた泥人形のことは? 聖霊と云ったか……?」
サタナキア砦の正門が開け放たれると、そこへ集結を始めた
招かれたのであれば堂々と正門から入れば良い。
そうも思ったが事情が変わったのだ。
アラグル達の同胞は焔の探索の最中、サタナキアへ詰める騎士達に拉致されたと云うのだ。偶然とアッシュ達の元へ姿を現したのは救出のため砦へ足を運ぶと、ミラの口ずさむ旋律を耳にしたからだった。見れば怪しげな——失礼な話だが——魔導師がエルフの旋律を奏でるのだ。捕らえ、どこでそれを知ったかを問い正す必要があったのだ。
それを聞きアッシュ達はアラグルの同胞の救出に手を貸すことにした。
アラグルらは救出の後に世界の壁を越える旅に出ると云った。アラグルの双子姉妹はアッシュの手によって呪いから解き放たれ聖霊の原へ旅立ったと知ったからだ。それであれば、この地に留まる理由がなかった。双子姉妹が望んだ人間との共存。それはもう叶わないのだろう。
監視を続けるあいだ、アラグルはアッシュに根掘り葉掘りと質問攻めにしたが、アッシュに片手で制され口をつぐんだ。そしてアラグルは鼻を鳴らし「来たか?」と答えを得られぬまま不服そうに現実に引き戻された。
「全部終わったら、答えますが——今の僕は記憶が殆どない。だからあまり期待はしないでくださいね。っと、ほらあれ。あの伝令が下の野営陣へやってきたのです」
「伝令? 何を云っている。あれは——お前らの軍に身を置いたヘルナンデス中将の息子。歴とした騎士であろう」
「え? 息子?」
「そうだ。我々が掴んだ情報ではそうだ。
中将の暴挙は彼の妻と息子が攫われ、このサタナキアに幽閉されたことにある。その裏で何が暗躍したのかまでは掴めていないがな——尤もあの様子では既に肉体は滅びているのだろうよ」
茂みの奥ではミラが他の三人のエルフから、エルフの旋律を聞いているのか、緊張感のない空気を醸し出している。アッシュはそれを肩越しに見ると苦笑し溜息をついた。
「どうする魔導師」
「壁は登れそうですか?」
訊ねられるとアラグルは片手をこめかみにあて、城壁を見上げた。黄金の瞳が神秘的に輝いた。そして「ふむ」と呟くと「ああ、大丈夫そうだ。目に見えぬ障壁の気配はない」と満足そうに答えた。
「わかりました。それであれば僕とミラは——ミラ、こっちへ来て——正面から行きます。どのみちあの伝令とは
「なんと。
「と、いうと?」
「闇の——煉獄の炎を感じたのか? それとも地獄の原の凍てつく風を感じのか?」
「いいえ、痛みを少々」
アッシュはアラグルのこの期に及んでの探究心に半ば呆れ返り苦笑をするとそう答えた。このエルフは常に知識や経験則を求めているのだろう。業火に焚べる燃料はその知識といったところなのか。何れにしても刻は刻々と流れている。急がなければならない。
「——ですので、アラグルさん達は先ほどのあの小さな木扉のあるところから壁をこえて砦の中へ。同胞の解放を急いでください」
「豪胆な魔導師よ感謝する。本当にそれで良いのか? 万が一があれば我々が一戦を共にするのは、やぶさかでないぞ」
「大丈夫です。誓約は絶対です」
「どんな内容だ」
「僕が砦に赴き、要件を満たせば浄化する。それまでは危害を加えない。違えば王都を蹂躙すると」
「ほう。その要件とは————そうか、それが焔の扉を開け放つということか」
と、アラグルの言葉が終わる間際に砦に動きがあった。死霊の軍馬が歩を進め始めたのであった。アッシュはそれに「それでは、後ほど」と一陣の風となり茂みから飛び出ると、一目散に正門へと走っていった。
「幸運を。豪胆で智慧に溢れた術者達よ」
アラグルは人差し指と中指を揃え横に軽く振るった。
※
「始まりの王はどこへ?」
ブロンドをたなびかせアラグルの横を走ったシルダリエルが旋律を奏でるようなエルフ語で云った。アラグルと同じ黄金の瞳は前方の城壁を見つめた。
「シルダリエル。あれは今や世界の王ではない。他の何かだ。しかし我らの友。他に理由があるにせよ身を挺して我らの目的に助力すると云った。助力を申し出た我々のことは差し置いてな。不思議な男だ。あの術者達は正面切って
「不思議な聖人ですね」
「ああ、そうだなシルダリエル。彼らは聖人やもしれんな。死と時の導師ル・カルに誓って云おう。彼らが焔への扉を開放すれば我々は東の焔の世界に渡れるやも知れぬ。旧友である酒樽達の元へな」
「聖人への返礼は」
「私の命では足りぬか? まあその刻に考えよう。今はアウルクスに誓って、急がねばならぬ場面だ」
「御意——出てきましたよ悪鬼どもが」
シルダリエルが指差した先。それは先ほどの木扉であったが、今やそれは開け放たれ、わらわらと歩く屍が溢れ出すところであった。
「あの扉の上が一番手薄だ。奴らを蹴散らすぞ」
※
「約束通り、やってきたぞ!」
「きたよ!」
アッシュは時間を稼がねばならなかった。少なくともアラグル達が砦の中へ潜入をするのを見届ける必要がある。正門から少しずれ、アラグル達の動向を脇目に感じながら、正門に姿を現した伝令の
不思議と物怖じしないミラも胸を張り声を高らかに挙げた。
それに塚人の軍勢は落ち窪んだ双眸に青白い炎を灯し二人の来訪者を迎えた。流石にミラはそれに「ひ!」と小さく声を挙げたが、張った胸は下ろさず一歩も下がりはしなかった。そんなミラの肩をアッシュは、むんずと掴むと背後へ下がらせ「大丈夫だから」と笑って見せた。
亡霊の軍馬へ騎乗した伝令——アラグルが云ったヘルナンデスの息子がゆっくりと正門の奥から姿を現すと、傍の塚人は道をあけ恭しく、かぶりを下げた。そして小さく掠れ空気が抜けるような声は、しきりに周囲の塚人は「ルーベルト」と恐らくその塚人の名を挙げた。
「聡明な愚者。よく来た。我々の派兵を一旦は見送ろう。
我が名はルーベルト。父に生を奪われ呪われ、この忌々しい砦に縛られる騎士だ。そう、映えあるフリフロンの騎士である。だが、この血脈の源泉は大草原にあり、我が先祖はこの地でお前に屠られたと聞く。それは真実か?」
「騎士ルーベルト。僕は人間であり縛られた寿命を持ちます。永遠の刻を過ごすエルフではなく」アッシュは右手を胸に当てそう云うと軽くかぶりを下げた。
「そうか。ならば父が語った昔話はお前の事ではないと?」
「それは、わかりません。父君がどのような話をされたかは存じませんが、ただ……」
「ただ?」
「ええ、今の僕には記憶がありません」
「ほう。ではお前の記憶の始まりはどこから紡がれている」
「先の大崩壊後からです」
「ふむ。<世界の卵>が忌み水を呼んだ刻だな?」
「忌み水?」
「ああ。この身体を得た刻から私の意識は常に世界を揺蕩っていると云って良い。
そしてそれは世界の隙間を通じて理を垣間見る。そこで観たものは、そう、世界を包むもう一つの世界とその源泉の塵であった。
それは水であったし砂であった。
<世界の卵>は姿を現すとそれを大量に内包し世界へぶちまけようとした。しかし、それは聖霊と——宵闇の鴉の手で防がれた。それを成したのはお前ではないのか?」
「失礼ながら、先に述べたように……」
「そうか。<世界の卵>は焔の模造品だと聞くが、この砦の地下深くに眠るものは正真正銘の焔であり、それを扱えるのは世界の王とその聖霊のみ。
我が父は、それはお前だと云ったのだが……仕方あるまい。誓約は結ばれており、それは成されなければならない。そしてこの身体と魂を現世へ戻さなければならない」
「失礼ながら騎士ルーベルト。その世界の焔とは?」
「——それは世界に三つ、いや四つか——存在する。世界の在り方を定める焔だ。
世界は焔を通じ<生命の起源>から世界を形成する。その番人たる聖霊は竜と共に焔を護り均衡を保つのだそうだ。しかし百数十年前だ。悪魔の手により四翼のオルゴロスが狂うと世界は均衡を失い始めた。
焔が揺るぎ始めたのだ。
それから聖霊は役割のため焔から動けなくなり、世界に悪霊の類が跋扈するようになる。聖霊はなんとか、己が眷属を増やすと次第に均衡を取り戻し始め今に至る」
ルーベルトは馬上からアッシュを見下ろし少しの間、沈黙した。それは、話の流れからアッシュがもしやと思ったのだろうが、頭を垂れたアッシュは無反応であった。それに落胆するような様子を見せた塚人の騎士はくぐもった声で話を続けた。
「そうか……記憶がないとは誠のことのようだな。良いだろう。
我々は焔を通じ、本来の我らの生者としての肉体を取り戻したい。どのような理屈でかはわからぬが我々は父に連れられ地下へ潜ると——このありさまだ」
かかか。
恐らく笑ったのだろう。空気が漏れるような掠れた声が軽やかにそう溢れたのだ。アッシュはそれに顔をあげると至って真剣な顔で「それで、父君は?」と訊ねたのだ。それにルーベルトは気を悪くしたのか憮然と「は」と云うと「地下だ。遥か奥底に眠る大空洞の扉の前におられる」
そう云うと不機嫌に馬を回すと「ついてこい」と短く云った。
※
本来、弓というものは腰をすえ矢を放たれなければならない。
そうでないのならば威力は半減し云うなれば子供の玩具以下だ。しかしアラグルが連れ従うエルフの戦士は違った。完璧に足音を隠蔽し駆けるなか短弓に矢をつがえると、何かしらかの言葉を連ね矢を射っていく。
放たれた矢は、前方に群がり歩く屍の眉間を捉え頸を跳ばしていく。
損ねた屍には二人の戦士が駆け寄り四肢を斬り落とし最後に眉間へ刃を突き立てた。そうやって森の戦士達は無尽蔵に砦から溢れ出てくる屍を屠りながら、ついに城壁へ取り付くと縄を放り投げ素早く駆け昇った。
「アッシュ・グラントは大丈夫でしょうか?」
矢をつがえ城壁からできる限りの歩く屍を地に還す女エルフの戦士は、正門の方を眺めたアラグルにぼそっと云った。
「ああ、無論だ。彼の魔導師が連れだった魔術師。あれはどこか人間にはない匂いを感じた。いざとなれば、あの娘が窮地を覆すだろう」
「珍しいですね」
「何がだ、シルダリエル」
「人間をそこまで信じるのは何百年振りですか?」
「どうだろうな。人間だエルフだドワーフだと種に拘った話でもなかろう」
「と、云いますと?」
「シルダリエル。
我々は始まりの種であるが神でも悪魔でもない。この大地に根を下ろした等しく命であると云う事だ。それは慈しみ認め合い連れそう。そうであろう? 憎しみ合うのは愚者だけで良い。そして、我々は少なくとも愚かではない。あの術者、いや尊き魔導師は我々の双子姉妹の魂を救った。であれば、我々は彼らを信じなければ嘘というものだろうよ」
「……愚考を。お許しを」
「また、それを許すのも是だろうよ。シルダリエル行くぞ。我らの魔導師が悪霊を引きつけている間に決着をつけるぞ」
※
アッシュは東の城壁に目をやった。
深緑の一団が城壁に姿を現したのを確かめると、その中で一際目立つ視線に自身の視線を絡めた。あれはアラグルのものだろう。そして、それは少しの間の後に軽く手を挙げたように見えた。アッシュはそれを確かめると視線を外し前をいく塚人の騎士の背中を追った。城壁の一団は北へ向かい素早く姿を消した。
正門から小さな中庭を渡り本丸へ入った一行はすぐそこに、ぽっかりと口を開けた地下への階段へと進んでいった。中庭で馬を降りたルーベルトは一人先頭を歩き、他の塚人は中庭へ待機をさせていた。それもこれもアッシュと交わした誓約のためだ。アッシュは誓約通りに砦へ来訪し、ルーベルトの云う扉を開ける役割を担う。故にそれを妨げることがあれば消滅するのは自身である。それを違えればアッシュも同じだ。だから背中を取られる心配もない。この魔導師が気狂いでなければの話だが。
「暫く歩くぞ魔導師」
「ええ、お構いなく」
「昔の話だ——」ルーベルトは階段を音もなく進むと、唐突に話を始めた。
「——と、云ってもこの身体になってから流れ込んできた、この地にまつわる記憶だが、この砦の地下深くに広がる大空洞は遠く草原の都クルロスの下まで広がっているそうだ。ああ、そうだ。あの紫紺の沼。死と怪物の沼が広がるクルロスだ。なぜ草原の都がそうなったか知っているか?」
「メルクルス神派の魔導災害……ですか?」
暫くの間、ルーベルトを先頭にアッシュとミラは暗がりに伸びる下り階段を行くと、それは螺旋を描き地下に向かっていることがわかった。目を凝らせば、壁は苔むしておりぬらりとしている。所々で空気は澱みカビ臭い。
それは奇妙な取り合わせだ。先頭を行くのは塚人だ。その存在だけで近隣の教会は大騒ぎをし遂には軍隊が駆り出されるほどの脅威なのだが、今やアッシュ達はそれに誘われ地下へと降りていく。まるでそれは地獄への探訪といった気分だ。だが、不思議とルーベルトの霧に包まれた屍の騎士といった風体に恐怖も、悍ましさも感じない。きっとそれはルーベルトが生来持ち合わせた気風によるものなのだろう。
そして遂に階段は終わりを告げ横穴へと通じる一本道へと変わった。
「そうか。魔導師。お前の記憶、いや知識では、あれは魔導災害によるものと記されているのだな。いいや、間違いではないのだろう。それを扇動したのは確かにメルクルスの魔導師だったと私の中にも記されている。故にその戦犯を問うのであればメルクルスの坊主共で良いのだろうな」
「というと……魔導災害というのが真実ではないと?」
「さあ、どうだろうな。そこは靄の中だ。だがそれは——」
「アッシュ。気をつけて。前に……」
永遠に続くと思われた横穴を進んだ先に気配を感じたのはミラであった。ミラは螺旋を下る間に術式を展開し暗がりを見通していた。しかし、それを気取ったのは視覚ではなかった。見えるよりもっと先のぬらりとした暗闇から放たれた異質な存在感。まとわりつくような気配。そんなものをミラは感じ取り警戒の言葉を発したのだ。
「嗚呼、ルーベルト。お前は父と違い聡明な男だ。良いぞ。
非常に良いぞ。まさか<人徳>までも連れてくるとは手間が省ける。さあ良く戻ってきたな<宵闇の鴉>よ。いいや、今はただの木偶の坊か。それとも手懐けた<憤怒>の名で呼んだ方が良いか? いずれにせよ久しいな。アッシュ・グラント」
ミラはたった今、暗がりからぼやっと現れた白い影に身震いをした。背中に冷たいものが流れるのを感じた。
戦慄からなのか一瞬にして毛穴という毛穴から汗が吹き出した。
白い影が発した声は、ねっとりと鼓膜に纏わりつき不愉快だった。しゃがれの隙間にまるで粘膜でも貼っているような気味の悪さにミラは慄き、そしてアッシュの背後へ身を隠すと、外套をぎゅっと掴み「アッシュ……あれは」と小さく怯えて見せた。
白い影の言葉にルーベルトは「父を愚弄するか、魔導師」と、声を荒げ憤慨し一歩前に踏み出すと、腰に下げた鞘からすらりと白刃を抜き放った。
「よしておけルーベルト。塚人風情が儂に一太刀でも浴びせられると思うか? それよりもお前の母親には合わなかったのか?」
「なんだと? 母上をどうした」
「嗚呼、その様子では上では会えなかったようだな」
「魔導師、貴様……何をした」
「言葉はよくよく選んで使わないと、痛い目を見るぞ塚人。そんな心構えだから、お前の母親は今頃、地上で血に飢え徘徊しているだろうよ。今頃はエルフの血を見つけ啜っているかも知れないながな」
その言葉が終わるか終わらないかの刹那、ルーベルトは抜き放った白刃を構え白い影へ飛びかかっていた。しかし、ルーベルトの巨体は宙に留まり白い影へ刃を叩き込むことができなかった。
宙で姿を留めたルーベルトは「アイザック・バーグ! 誓いを違えるか!」と絶叫するが、その剣は構えたまま振るうことも許されず、ただ虚しくその場に叫びが響いた。
「地上に……血に飢えた?」
アッシュは宙吊りになったルーベルトの白い靄の身体を一瞥し、その言葉を溢した。その言葉が意味すること。それは吸血鬼の眷属が地上に放たれているのではないか。アッシュの頭によぎったそれは、ルーベルトがアイザックと呼んだ白い影の言葉で確信に変わった。
「色欲——アレクシスは派手にクレイトンで眷属を放っておったが、あんな低俗で役にも立たない眷属を放っても面白くもないだろう。そうは思わないか憤怒? ヴルコラクは狼のように獲物を追跡し——おお、そうだったな。お前の
耳をつんざく金属音がアイザックの言葉が終わる間際に鳴り響いた。
アッシュは素早く狩猟短剣を引き抜くと、稲妻の速さで駆け寄り刃を放ったのだ。しかし、それはアイザックが手にした一本の金属の杖に防がれ、大きくけたたましく音を挙げたのだった。
「嗚呼、アッシュ・グラント。それに——動くなよ<人徳>。相手は儂ではない——」
白い影——アイザック・バーグの不気味な上擦った声がそう云った。
そして——宙吊りにされたルーベルトへ続きアッシュとミラも体の自由を奪われた。