目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

The Negotiation Limerick File




 予定外の雨。

 森山の云うとおり、ここ数十年は天候のが狂うことはなかった。それは台風の到来に至っても、全てが予定された事象なのだ。

 但し、それを意図的にコントロールできないという部分においては、人類はまだ自然を支配したとは言い難い。人類は未だ人類なのである。だから政府ならびに関係省庁は、それを建前に乃木坂の「白の王城」を「彼れらは神を僭称する不届者ではありません」と宗教団体やそれを後ろ盾とする政治団体から擁護ができる。

 そう。天候にまつわる情報を「予報」から「予定」に置き換えたのは、アーカムメトリクスの功績であった。未だそれを「予定」であると断定する材料は出揃わないが、それでもこの数十年の実績はこの先、百年を保証していると云って良かった。


 アーカムメトリクスは医療系コングロマリットである。

 が、その研究開発の過程で発表に至り実用化に向け推進をするプロジェクトの多くは、その範疇を超えていると云って良い。天候についても然り、そして最たるは「セキュア・バイオ・メトリクス」だ。

 開発当初は肥大化するカルテ情報をクラウドへ分散型ブロックチェーンとして保存、その紐付けのキーを生成するシステムであると公表された。腕時計型のスマートデバイスを装着した人間の生体情報——DNAマップから脳内に形成される神経ネットワークの情報に至るまでを取得しPODS(パーソナル・オンライン・データ・ストア)へ格納。それを元に生成される複雑な暗号情報がキーの役割を果たす。つまりそれは、データ化された人間を表す情報だと云えた。

 そして、この技術は気がつ付けばスーパーAIの発展へ寄与するようになると、瞬く間にチェンバーズの故郷、シュメールとエッダ、二つの仮想世界を産み出した。そこで産まれ育ったスーパーAIは必要に応じ、チェンバーズへインストールされることでの世界へやってくる。


 世界は亜人デミ・ヒューマンの登場に震撼したのだ。


 これに黙っていなかったのが宗教団体とその背景を持つ政治団体だった。

 もっとも後者は政権奪取を夢想してのことであったから、神を崇めた宗教家たちの危機感とは全く異なる理由で、アーカムメトリクス及びそれを誘致し米国と結託をするようである政府を痛烈に批判をしたのだ——「この技術は神を冒涜するものである」と。つまり人が踏み込んではならない領域。人が種を創造し、その神であろうとする所業であると云ったのだ。

 神が与えたもうた自由意志に含まれない所業。神がそうしたように、種を創り自然をも操ろうというのであれば、それは神への冒涜であり、神敵のなす業であるとアーカムメトリクスとそれを匿う政府に詰め寄ったというわけだ。





 冷たい雨のなか、西蒼人の自宅を後にした森山は大通りへ出ると目黒駅方面へ足を運んだ。大鳥神社から登る坂の両脇には昔ながらの商店が未だ健在だ。懐かしさを感じる風景に今は赤や青、透明の傘がちらほらと見え始める。これだけ技術的な進歩が目まぐるしい今の時代。誰か傘に変わる発明をする天才はいないものかね。と、森山はすれ違いざまの傘を避けながら、目を刺されそうになりながら、それを迷惑そうに一瞥してきた女を目で追いながら、心中毒づいてみせた。

 腕に巻きつけられたデバイスは、相変わらず晴天であると云い張っている。

 森山はそれに視線を落とし「このポンコツ」と、今度は声を出した。空を見上げてみれば確かに暗雲が覆い尽くし雷の姿は見えないが、どこかピリピリとした空気を感じる。

 森山は雨に顔を曇らせ大通りをのぼった。

 目黒駅からまずは五反田駅へ移動するためである。


 同日同時刻——霞ヶ関。


 高木陽菜は森山の指示でDCIA本部へ赴くところであった。

 リードランから戻ると、森山からのメールに気がつくと、書かれた内容へ文句をたらたらと、強い陽射しのなか本部に向かったのだ。

 内容はこうだだった——『武器もってきて』



 蝉の声がうだる暑さに拍車をかけるなかスーツを着込んだ陽菜は、なんで私服じゃダメなのよとぶつくさと独り言が止まらない。年々、暑季の陽射しは強くなっていく気がするのだが、どうやら世間はそういった認識ではないそうだ。気象庁の報告によれば、これでも紫外線が降り注ぐ量は、先の世界大戦から格段に減少をしているのだそうだ。世界大戦以降、どのような魔法を使ったのかアーカムメトリクス傘下の企業は現存するどの樹木よりも多く二酸化炭素を吸収し酸素を高サイクルで放出をする種を培養し植林を促進。そして、その効果が現れてきている。と、賢い人々は口々に云っている。

 もっとも、それが成層圏にどのような影響を与え紫外線が降り注ぐ量を軽減しているのかは、陽菜には興味がなかった。うだる暑さをどうにかしてくれれば、なんでも良い。というわけだ。


 しばらく街路樹の木陰を頼りに歩いた陽菜は、馴れた足取りで通りから脇道に入ると、冷んやりとしたトンネルを抜けた。次に陽の光の中に躍り出た先では黒々としたゲートが陽菜を出迎えた。そこには四人の人影が見えた。この陽射しのなか汗ひとつ流すことなく警備をする警察官らしき人影は亜人デミ・ヒューマン、チェンバーズだ。

 燦然と降り注ぐ陽の光を受けDCIA本部は青黒く鈍く輝いていた。

 それは窓全面に施された紫外線を大幅に軽減をする塗料の副産物だ。

 陽菜は正面でセキュリティーチェックを受けると、チェンバーズへ「大丈夫。通用門から行くから」と片手を挙げゲートを開こうとしたチェンバーズを制した。

 通用門をくぐった陽菜は颯爽とDCIA本部敷地内を進むとメインエントランスへ身体を滑り込ませた。建物全体で彩光されるよう設計がされたエントランスは、その明るさの割には陽の暑さを感じることはない。

 しかし——空調は適温に制御されているが、たった今猛暑の中から飛び込んだ陽菜にはまだ少々暑く感じる。それも少しすれば馴れて快適になるだろうことは勿論分かってはいるが、それでも「——暑いわね」と文句が口と突いて出た。

 陽菜は汗が引くまでのあいだ待合のソファーに腰をかけ、スマートデバイスへ視線を落とした。デバイスが示した天候は晴天。

「猛暑です。とか表示もしなさいよね。気が利かない——」

「高木捜査官——」

 暑さゆえにスマートデバイスの涼しけな表示に文句を云った陽菜の元へやってきたのは一人の男だった。いや、左瞳をよく見れば、それはチェンバーズであると分かった。陽菜に声をかけたチェンバーズは左瞳に装備された非接触型スキャナで陽菜のスマートデバイスから彼女が捜査官であることを認識した。

「——本日は本部へは、いらっしゃらないご予定では?」男性型のチェンバーズは云った。

「そうよ。でも森山捜査官の指示なのだけれど、武器持ち出しの申請は通ってない?」

「はい、そのような申請はまだ。それに森山捜査官のビーコンが途絶えているようです。何かありましたか?」

「ビーコンが? まさか。森山捜査官の今日の予定申請は?」

「今日は休暇をとっています。ただ——」

「ただ? ——ああ。そっかプライベートか」

「すみません、システム規定で——」

「オッケー。気にしないで。バディーコードで接続。申請と行動ログを見せて」

 そう云って片手を振った陽菜は、あどけなさを残した顔を幾許かしかめた。

 それにチェンバーズは「ありがとうございます」と自身の首の裏へ手を回し細い一本の線を引き延ばした。線の先には小さな白銀に輝くプラグの姿が見え、陽菜はそれを受け取った。

 手慣れた手つきでそれを自分のスマートデバイスへ接続をする。

「バディーコードを確認。情報を開示できますが……」

 陽菜は接続したプラグを抜き取りチェンバーズの手に戻すと、そう云ったチェンバーズへ「ここで大丈夫。音声でお願い」と笑って見せた。

「森山捜査官の本日の予定は『有給休暇』です」

「有給? そんなのまだ日本にあったの?」

「はい?」

「ごめん、こっちの話。続けて」

「はい。ロケーション情報によると森山捜査官は目黒区下目黒……大鳥神社の近辺にいらっしゃったようです。そこで一度、職務規定の復唱を受けています」

「は? また何かやったの?」

「高木捜査官、その呼称は……」

「ああ、ごめんなさい。それで森山捜査官はなんで復唱を受けたの?」

「はい。ヒュージクエリへ接続、『西にし蒼人あおと』の情報を引き出した後で、職務怠慢に類する発言で悪性閾値の警告があったようです」

「……何やってんだか……。そっか、それでギネスさんに話を訊いているってことなのね……。あれ? でもさ、本部から森山捜査官へ連絡がいっているんじゃないの?」

「いいえ。本部から連絡は何も」

「嘘? 本当? って嘘をつくわけないか。秘匿回線の利用は?」

「ありません」

「そう……。それで?」

「はい。その後の足取りは目黒五丁目で途絶えています。その前に高木捜査官との通信記録が残っています。リードランサーバーからのものです」

「え? 今なんて?」

「はい、リードランからの通信と」

「ちょっと待って。なんでそのサーバー名を? 呼称制限が解かれているの?」

「はい。本日未明にアーカムメトリクス社所有のリードランサーバーは、一般への長期閉鎖の確認が取れたため、issue#389213の捜査対象から外されました」

「たった今、あんた私がリードランサーバー内から先輩に通信したって云ったじゃない。ってことは、閉鎖されていないってことでしょ?」

「と、云われましても……」

「ああ、そっかごめんなさい……。そうよね。あなたたちは『事実に基づいて』話てくれているものね。ありがとう」

「高木捜査官」

「何よ?」

「本部へは行かれますか?」

「いいえ……。そうだ。ねえ、今この場で有給休暇を申請できる?」

「申請は一週間前の規定ですが、体調不良や親族の方の……」

「アイタタタタ。ねえ。月のもので腹痛が酷いのだけれど。申請して良い?」

「月のものとは?」

「もう、こんな所で云わせないでよ。スキャンして……」

 するとチェンバーズの左瞳が再び奇妙な輝きを放った。

 瞳の奥で何かが蠢いているようで、陽菜はその瞳——視線の走査線が身体中を舐め回しているように感じると、身体をぶるぶると震わせた。

 冷たい視線。

 人の言葉でコミュニケーションをはかっているが、それでもこれはチェンバーズであって人間ではない。だから冷たく感じる。しかし、乃木無人は彼らを自分の子供のようなものだと云ったそうだ。確かに。リードランで出会った人々はまるで本当の人間であった。意志を持ち自発的に考え話す。陽菜はミネルバと対峙したそのときは、狂気に身震いさえした。乃木無人はそれさえも指して「自分の子供である」と云ったのだろうか。

 だがしかし、だとするのならば、それであれば乃木無人——アッシュ・グラントはなんだと云うのだろう。人の身でありながらリードランへ同化をしていると云ってよかった。何故ならば——


「高木捜査官。失礼いたしました——申請の事由は生理痛によるものですね」

「……あんたさぁ……そうだけれども……口に出して云う?」

 陽菜は釈然と立つチェンバーズへ、釈然としない面持ちを向け溜息をついた。

 行き交う人は少ないとはいえ全く人が居ないというわけではない。もう少し言い方があるだろうと思いはしたのだが、そうか、リードランの人々なら通じるのだろうがでは無理かと諦めのだ。

「申請が受理されました。どうぞご自愛ください」陽菜のため息を意に介さないチェンバーズはそう云うと、満面の笑みを浮かべた。

「はいはい。って先輩、通信遮断してるのこれ?」

 片手を振って陽菜はソファーから腰を上げると、どこか慌てた様子でメインエントランスを後にした。





 尾行つけられているのは判っていた。

 森山は冷たい雨と不穏な空気に織り込まれた気配を感じると、目黒駅へ直行することを避け、首都高速道路の入口まで足を伸ばした。

 そこまで伸ばしても気配の数は変わらない。であれば、その気配は少なくとも西蒼人に用があるわけではなく、自分に用があるわけだ。

 首都高速を頭上に見上げ通りを左へ曲がる。そして尾行の気配をまくように——そう思わせながら尾行をよう走り出すと、高樹町入り口下の駐車場へ身体を滑り込ませた。スマートトラフィック計画以降、駐車場の意味合いは運行される予定のない車両の保管スペースだ。飛び込んだ先の駐車場はかつて有料パーキングとして利用されていたが、今では国土交通省が民間から土地を買い上げるとJRT(ジャパン・レイルウェイ&トラフィック)の車両保管場所を整備した。つまり運行されていないタクシー車両の保管場所ということになる。

 そして、森山はこの時刻であれば車両が出払っていることはスマートデバイスを通じ認識済みであった。この雨の降る直前の情報ではあったが、果たしてそこは車両がまばらに在るだけで、広々とした昼でも薄暗い空間であった。

 森山はそこへ、迫り来る気配を誘い込むつもりであった。

 JRTの職員が通勤に使ったのであろう電動自転車を見つけると、それにまたがりキコキコとペダルを漕いで、追跡者の接触を待った。

 少しの間の後、森山が飛び込んで来た入り口に気配を感じる。

 スマートデバイスに視線を落とす。

 先ほどから表示がおかしく生体反応が表示されない。

 だから森山は持ち前の勘を信じ、入り口に感じた気配へ声をかけた——「コソコソしていないで、出てこいよ」



「随分と良い勘をしているじゃないか。それも古武術の業なのか?」

 果たして姿を現したのは先刻、西蒼人と待ち合わせた際に見かけたローブ姿であった。三人居る。一人は大柄で他の二人は森山とさほど背の高さは変わらないようだ。辿々しく答えたのは、大柄のローブ姿だった。

「さあね」

 森山は——電動自転車のペダルを漕ぐことを止めず、大柄ローブを睨みつけ不敵に答えた。目を細め薄暗い中、わずかにローブの中に浮かぶ顔の輪郭と声音から大柄が男、他の二人は女だと目星をつけた森山は「なあ、おっさん。この雨はあんたらの仕業か?」と、大柄ローブへ続けた。

「さあな」

「なんだよ。大人げないな。おっさんじゃなくてお兄さんだったか?」

「時間稼ぎのつもりならよせ——訊きたいのは……わかっているのだろ?」

「乃木無人の居場所だろ? 沖ノ鳥島だってよ。なんだったら住所も教えようか。東京都……」

「云ったはずだ。時間稼ぎはよせ。できれば危害を加えたくない」

「おいおい。一応これでも俺は警察官だぜ。お巡りさん。わかる?」

「ああ。しかしこの雨の中では、頼りのフラクタルユニットの接続が不安定だろ? 何が起きても目撃者がいなければ……」

「何があっても、わからないって? 随分と舐められたもんだな——云っておくが俺は強えからな……後悔すんなよ」

 森山は漕ぎ続けたペダルを止めると、電動自転車から降り大柄の男と対峙した。

 そしてゆっくりと構えをとる。

 それは——流れ描く縦の一文字。両掌両の脚、その先、十指に気を流し込み己が身体を刀に見立てる。左掌は白刃で一切の刃こぼれは無く光露を放ち、右掌は頑強な鍔だった。

 十秒先の刻へ幻を描く。

 森山の心中へ牡丹の花弁が可憐に飛散する幻がゆらりと煙立つ。

 森山はそこへ、対峙した三人の姿を重ね合わせた。

 さあ。もう十秒先の現実は揺らがない。森山の黒瞳は瞼に半分姿を隠し「入った」ことを教えた。

「よく吠える犬だ……」大柄の男は、それに間合いをジリジリ取ると、煩わしそうに呟きフードを取り払った。




 同日同時刻——蒲田。


 乃木無人の意識へ潜った乃木葵。

 接続直後に広がった視野は互いが混じり合い、顕在層が見せた濃紺の世界であった。そこから乃木無人の深層へ潜ることで、無人の記憶を強制的に顕在層へ引き上げ、あわよくば現実世界へ引き戻そうと考えた。

 しかし、それは色々な問題を孕む。

 意識の顕在層までの接続は今でも特殊なケースの治療に利用はされるが、そこまでだ。

 深層のさらに奥へ沈んでしまった心象——その状態が感覚器官を通じ形成された心象の枠組みを保っているかは別とし、それを再び顕在層へ引き上げる行為。

 それは、人の尊厳を踏み躙る行為にもなる。つまり、見られたくないものまで見られる可能性が大きい。そして、それだけ不確かな情報の海に潜るということは、潜る人ダイバー精神的個性ユニークを汚染する可能性が高い。つまり個性を、自我を、保てなくなる可能性だ。


 ヒトの意識の深層を超えた先。それがあるのかすらも未知数であり、人類はその領域へ踏み込んでいない——しかし不思議なことに、その手立てだけは準備されている。だから理論上、潜ることはできる。

 逼迫した状況に意を決した乃木葵はそれを敢行——決した「意」の真意が何であったかは別とし、兎に角、意識を失い何者かに汚染される危機にある乃木無人を救うため葵は無人の意識へ潜ったのだ。

 しかしだ、不可解な音に導かれ、葵が降り立った先は——何も存在しない真っ白な空間で、そこに在ったのは二頭の狼だった。

 まるで顕在層のようなその場の振る舞い。

 葵が望めば衣服も着用できたし、足の裏に硬い底面の感覚も与えられたし、目前のそれは二頭の狼として在った。そしてそこで観たものは——それぞれの心象にあるネリウスと呼ばれた男の末路。一つは葵の記憶の片隅にあったものと合致し、一つはしなかった。


 そこでしょぼくれた白狼は云ったのだ。

「世渡しとはよく云ったものだ。お前達はどう足掻いても世界の摂理を越えて行くことは叶わなかったわけだな。


 バーナーズに首根っこを咥えられ、葵は仔猫が運ばれるよう無人の意識のなかで身体を揺られた。

 そしてバーナーズがぼそっと漏らした「——抜けるぞ」の言葉と同時に、無人の意識へ放り出されたのだ。



 バーナーズは葵を顕在層へ放り投げると、無人の意識の中を駆け巡り、そこに揺蕩う幾つもの星々を嬉々と呑み込んだ。それに濃紺の海は打ち震え、呑み込まれた星々の輝きは狂気に染まる様に赤黒く色を変えながらバーナーズの体内で灯を消してゆく。葵はその様子に身震いをした。まるで乃木無人の一部を狂気に満ちた狼が喰い尽くすようで……そのうち無限に在ったと思われた星々は全て姿を消してしまえば無人の存在は消えて無くなってしまうのではないかと感じた。

 しかし今は、早く戻らなければならない——葵は胸騒ぎを覚え心のどこかで、そう直感した。もう一度バーナーズを目で追うと、憤怒の狼は瞬く間で強く体を輝かせると無人の意識から姿を消した。いよいよ早く戻らなければならない。



 葵が目を開くと、無人の傍らへ静かに座ったチェンバーズの姿があった。

 無人の意識へ接続する直前には、飛び跳ねる無人を押さえつけ、必死にへ対応をしたチェンバーズ。彼女の機転がなければ恐らく、あのしょぼくれ狼は、無人の全てを喰らい尽くしたに違いない。そうなれば、ともすれば無人はあの狼に乗っ取られていた可能性は否定できなかった。

 最後は空間の狭間へ取り残され——何者かに破壊されたようではあったが、それでも想い返すと葵は身体を震わせた。

 そして、もう一度大きく身体を震わせると両手で顔を覆い息を荒くした。

「アオイ?」

 それに気がついたチェンバーズは葵に声をかけると、優しく肩に手をやった。

 しかし葵はそれに答えることはなかった。

 そして声を震わせた。

「……失敗した……」

「無人の意識が戻らない——ことですか?」

「違う。そうじゃない」

「アオイ?」

「無人の意識に潜った。

 そして行き着いたのは無人の意識の深層ではなかった。もっと別の場所。深層のその先。もっと根源的な何処か。そこに居たのは二頭の憤怒だった。二頭居たの。ありえない。メリッサがなの。そこがどれだけ特別な場所であったとしても、同じ憤怒が二頭いることはあり得ない——一頭は私が記憶しているメリッサの最期を知っていた。そして云ったの。時はそう易々と渡れないって」

 チェンバーズは葵の肩に乗せた手をゆっくりと降ろすと、今度は葵のか細い身体を抱きしめた。

 葵は留めどなく涙を流していた。声は震え、辿々しく言葉の端々はまるで宙へグラデーションを描く様に消えていく。それを正確に聞き取ることは難しかった。よしんば聞き取れたとしても、それはチェンバーズに理解できないことだ。だからチェンバーズは——それは介護プログラムの挙動なのかもしれないが、今はただ優しく葵を抱きしめることを選んだ。


 寝息が聞こえる。

 呑気に。

 落ち着きを取り戻した乃木無人は静かにシートへ身体を横たえ瞼を閉じている。先程までの産まれ続ける裂傷と激しい流血は嘘のように引いている。跡形もなくだ。

 抱きしめられた葵は抱擁の隙間から窓を眺めた。

 ベランダの手すりへ二羽の緑色をした鳥が羽を休めにやってきた。小さく毛玉のような二羽はノジコなのかアオジなのか。いずれにせよ、都会の外れにやってくるような野鳥は居ないだろう。どこかの鳥籠から逃げ出してきたのだ。


「ねえ……」

「はい、アオイ」

「あなた、記録はできる?」

「肉声のですか?」

「いいえ、オンラインでの会話をローカルに」

「はい、問題ありません。どなたかと話されますか?」

「ええ。ちょっと待ってね」



「ミラ。ちょっとここの馬の糞を片付けておいてくれない?」

「え! それアドルフのお仕事でしょ! なんで? さぼるの? ねぇ、さぼるの?」

 シラク村の大災厄の翌日。

 アッシュ達は数日の間、村の復興に手を貸すと云うと休む間もなく働き始めていた。

 ミラとアドルフはナウファルに云われ厩舎の片付けをするのだが、ミラはどうも馬の糞の片付けが気に食わないのか、文句を露わに身体を動かしていた。が、そのうちに飽きてきたのか村の子供達が気にかけて様子を観にくると、枝の先に糞を突き刺し、それを持って子供達を追い回すといった遊びに興じたりもした。子供達はそれにキャーキャーと黄色い声を張り上げ笑いながら逃げ惑ったのだ。

 そして何度目かの遠征から帰ってきたミラへアドルフは仕事を押し付けると「ちょっと先生と話をしなければならない」と厩舎を後にした。遠くから「裏切り者おおお!」とミラの可愛らしい悲鳴が轟くが、アドルフはそれに片手をあげ笑みを浮かべながら厩舎の角に姿を消していった。


「なにー! あの爽やかさ」ミラは腰に手当て頬を膨らませた。


 アドルフは人けのない場所に佇む木を選び、身軽にそこへ登ると太い枝へ足を投げ出し幹に身体を預けた。

「先生、すみません。お待たせしました」

 頭の後ろへ手を回し野伏は呑気にそう云った。

 頭のなかに帰ってくる声がある。それは葵のものだった。


(ごめんね。ちょっと話しておきたいことがあって)

「ええ、良いですよ。それで? とうとう僕の事が気になり始めました?」

(いいえ、違うの。驚かないで聞いてね……)

「……らしくないですね。そちらで何かありました?」

(ええ。というよりも確証を得た。と云うのが正確かしら)

「と、云いますと?」

(順を追って話すわ)

「はい」

(結論から先に伝えるわ——私とミラは未来からの遡行者じゃない)

「え? どういうことですか?——十数年後に人類はリードランから力を引き出すシステムを造り出して……」

(ええ。現実世界に魔導を再現した。魔術は科学の延長線上に成立した。そしてそれを扱えるのはクロフォードに認められた人間の特権)

「それを……新人類と。ですよね?」

(ええ。そして適性のない人間。つまりリードランからのインストールに耐えられない人間を旧人類として虐殺を始めた。こちらに実現できる魔導や魔術はリードランでの効果の半分。それでも効果は十分。あっというまに世界は新人類に蹂躙をされた)

「先生達は、それを喰い止めに時間遡行をしてきた。ですよね?」

(そう。そのはずだった……)

「はずだった?」

(……)

「先生?」


 一陣の風がアドルフの頬を優しく撫でた。

 生暖かく少しばかり湿っていて青臭さと酸味のある焦げ臭さが混じっていた。それは業火に焼かれ魑魅魍魎から蹂躙を受けたシラク村が漂わせる傷跡の臭いだ。

 アドルフは匂いを鼻腔で追いかけた。

 そうだ。この匂いも肌に感じる感触や音も、その一切は研究室に横たわる身体へ送られる電気信号が引き起こす擬似体験。フェイクだ。だがどうだろう。この匂いも風の優しさも、遠くで聞こえる大木槌の音も脳に刻まれいつだって実感を伴い反芻できる。ではそれは現実。リアルなのではないのか?

 目に見えるもの、鼻に感じる香り、肌に感じる感触。それこそが現実が現実である証拠であると云うのであれば、現実の源泉であるのだとすれば、それではあれば、これはリアルだ。オンラインとオフラインの境界線は曖昧であると云っていい。

 フと眼下に人影を感じた。

 アドルフは、そっとそちらを見下ろすと自分を探しにきたミラの姿が目に入った。


(颯太君。初めて私と会った時のことを覚えている?)

(それは……)

 アドルフは懸命に自分を探すミラに気が付かれないよう声を出すのをやめていた。ミラは直上のアドルフに気が付くことなく「アードールーフー!」と叫んでいる。すると、のそのそとナウファルが姿がミラから少しばかり離れた建物の影から現れたのがわかった。

(私は覚えている。真夜中に研究室の前であなたの姿を初めてみたの。そのはずだった。でも私は、あなたの名前を呼んだ。そこからの記憶が曖昧なのだけれど——)


 アドルフはアオイドス——乃木葵の言葉に心中、相槌を打ちながら耳を傾けた。

 眼下ではナウファルが「なんだ、サボリか黒髪」とふざけた調子でミラを捲し立てた。ミラはそれに「違う! サボってるのはアドルフだよ!」と顔を真っ赤にして抗議をし「アドルフね、爽やかな顔して糞を片付けるのを私に押し付けたんだよ!」と、またぞろ頬を膨らませた。


(——本来のミラが獲得したと思っていた能力は、混沌の操作。

 つまりエントロピーの操作。

 時間遡行というよりも時間を巻き戻すことができる能力ということになるわ。だから私達が戻れるのはミラがリードランで起動をする前後まで。そして、そこまでの記憶はなかったことになる。時間を巻き戻すのだから当たり前のことよね。起きてもいないことを覚えているはずがない。

 だから私達は<楔>——ウェッジ鉱石へ自分達の記憶を封印して、それを取り出す手筈だった。目的も何もかも思い出すために。でもおかしいでしょ? それなら私は颯太君の名前を知らない筈なのよ)

(なんで……そんな大事なことを……)


(確証がなかったの。決定的なね。時間を巻き戻した先で記憶を取り戻せば、大なり小なり歴史の強制力の影響で状況が変わる可能性がある。それは無人も予測をしていた。だからその揺り返しを少なくするため、私はミラを自分に侵食イロージョンして大学の構内で能力を使ったの。あなたに観測してもらって私を私として確定するために……でも、私は私として確定されていた。そしてあなたの名前を呼んで……)

(気を失った)

(ええ)

(ちょっと待ってください。でもそれと先生が時間遡行してきたのではないというのは関係がないのでは?)

(そうね。その裏付け幾つかあるわ。あの時点で無人に伴侶がいたこと。私にそっくりなゼミ生、三好葵が居たこと。そして彼女もリードランにアクセスしていた可能性があるわ)

(あ! もしかしてレジーヌさん?)

(ご名答。可能性は高いわ。レジーヌ・ギルマンは私が使っていたシェル名)

(そんな……でもなんでメリッサは先生のことを?)

(それはわからない。

 結局のところメリッサが何をしようとしているのか……それはわからないの。話を戻すわ。今云ったことはそれでも強制力によるものだと思っていた。だから最終的には無人は私の夫になり、私は無人を殺さなければならないと考えていた。新人類が誕生しないように。でもきっとそうはならない)

(何を……無人さんの意識の中で何を見たのですか?)

(二頭の憤怒の記憶)

(え?)

(そう。でも居たのよ。私達がもっとも恐れていた結果。

 ミラが獲得した能力は、時間の巻き戻しではなくて、隣接した極めて似通った別の宇宙。並行世界と云っても良いかもしれない。そこへの渡航能力だった。それで私が無人の意識の深層のもっと奥深くで出会ったのは、私がいた世界の憤怒と、この世界の憤怒。彼らがネリウス将軍の身体を依代にするときの記憶を観た——似ているようで、全く違った。私の世界の憤怒はネリウスが抱いた暗い怒りの焔を喰らった。でもこちらの世界の憤怒は世界の理不尽さを嘆き怒り、世界の王を望む希望の焔を喰らった)


 ミラの声が再び大きく聞こえてきた。

 ナウファルに厩舎の掃除の報酬について交渉をしているようだった。

 これが終わったら、たらふく肉を食べたい。そう条件を出しているようなのだが、ナウファルは「そんなのは、お前の働き次第だ」と、つっけんどんに云い返している。

 しかし、その顔はどうも緩んでいる。つくづく不器用な男なのだろう。


(それってつまり……)

(ええ、ミラの硝子玉の波長を追って到着をした先——つまりウェッジ鉱石は隣接しあった並行世界をつなぐことができる鉱石——無人の意識の深層の接続されたのだと思う。酷い勘違いをしていたのね。私達夫婦は)

(そんな……だとしたら、今ここにいる無人さんは)

(私の知っている無人ではない。と、いうとこになるわね——だから、この計画は最初から失敗をしていたの。そもそもこの世界は救おうと願った世界ではなかったし、あの無人は私の夫になる無人じゃない。それに、おそらく世界を救おうだなんて思わない。それでね。最後に、私の世界にいた憤怒が何者かの手によって破壊されていた……)

(それって……)


 遠くから聞き覚えのある声がミラの名前を呼んだ。

 アドルフは、それにハッとすると身体を跳ね上げるように起こし、声のする方へ目をやった。果たしてそこには、汗を額に滲ませ大きく手を振ったアッシュ・グラントの姿があった。アッシュは「昼食にしよう」と、アドルフが自分に仕事を押し付け、何処かへ雲隠れをしたのだと喚き散らすミラの頭をわしゃわしゃと撫でつけた。


「アオイドスさんと話をすると云ったんでしょ? きっと大事な用事なんだから良いじゃないか」

「え! じゃあアッシュは私が糞塗れになっても可哀想じゃないって云うの?」

「いや、そんなこと云ってないよ? どれ、じゃあ僕が手伝うから良いでしょ?」

「本当? じゃあーしょうがないなー。アッシュがどうしても手伝いたいって云うなら、それで手を打つよ!」

「な。またそんな汚い言葉を……」

 アッシュはそう云うと、物陰からひょっこり顔を出したナウファルを一瞥すると、呆れ返るように苦笑をした。




(ええ……。向こうの乃木無人——アッシュ・グラントは殺されている。

 ああ……。そう。私達は失敗したのだと思う……)




8_Somewhere I Belong _ Quit




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?