その外典は悠久の刻を経ても尚、世界から隠匿された。
そこに記された言葉が隠匿されたのは、それは、すべからく世界を狂気で呑み込み神は有象無象に埋もれることとなるからだ。もっとも、それが言葉であったかさえも不確かではある。何せそれは聖遺物と呼ばれることも、はたまたは「血」であると云われることもあったのだから仕方がない。更には外典から漏れ出た何かは聖歌隊に拾われ<言葉の音色>へ昇華すると神へ捧げる歌としたのだから、外典とは名ばかりできっとそれは書物ではないのだろう。なるほど、であれば聖遺物であろうとも血であろうとも、神の肉をパンだと云うのと同じ理屈だ。
話を戻そう。そうして、人々はその音色に心を奮わせ、震わせ、振るわせた。そうなのだ、振るわせたのだ。つまりは心の発露。敬虔な信者へ与えられた権能。それが何に対する信心なのかは人にもよるが、とにかく、ヒトはその素質をもっていたと云うわけだ。
言葉は人を生かし、活かし、逝かす。と、いうわけだ。
——log#2341129 Track#932 Yuito Moriyama voice memo.
森山は後ろにした右脚へ体重を適度に乗せ、軽く
己が
手っ取り早くこの状況を作るのに、電源の落ちた電動自転車は最高の選択だった。
森山はその判断に内心ほくそ笑んだが、おそらく高木陽菜がその姿を目の当たりにすれば、大きな溜息が返ってくるだろうと思うと、森山はさらに心中ほくそ笑んだ。
「何が、おかしい……」
「ああ。あんた、刑事コジャックって知ってるか? コロンボじゃないよ? コジャックだ。コジャック。ユーロじゃやってないか?」
「何の話だ……捜査官」
「んだよ。洒落だよ洒落。ノリが悪いと、ほら、連れの女の子達に嫌われちゃうぞ」
森山の動きに合わせ間合いを詰めようと、にじり寄る大柄の男は森山が手刀を突き出すと目深に被ったフードを取り払ったのだ。
大柄の男は潔く頭髪を剃り上げた丸坊主。それに目をやった森山は目を丸くした。どうやらその風貌は森山がここ最近視聴を続けるレトロアーカイブの番組へ主演した俳優に酷似していたのが理由のようだ。
そして大男に倣う他の二人は、フードを払うと美しいブロンドを露わにする。二人とも似たような長さであったが、一人はブロンドをクルンとさせ、一人は綺麗に切り揃えている。
三人ともに目鼻立ちがはっきりとした欧州人の風貌であったから、男の口を突いて出る流暢な日本語に森山は、いっそう番組の吹き替えを連想してしまい苦笑をしてみせた。この緊迫した空気の中でも、それほどの余裕を見せる森山の胆力には目を見張るものがあるが、だがそれは対峙した三人には伝わる筈もなく、中でも大柄の男は苛立ちを色濃くみせた。舐められている。特にその想いは強いようだ。
「そうか。まともに取り合う気はさらさらないと云う事だな。であれば……」
「本当、流暢な日本語を吐くもんだな」
「……」
大柄の男は森山の正面に。二人のブロンドは森山を取り囲む形で左右にゆっくりと展開をした。
森山は目を細めその動きを的確に追いかける。三人の意図を推し量るためだ。森山が受け継ぐ古武術、森山流
森山は高木の到着まで時間を稼ぐ腹づもりもあった。だが恐らく自身の位置情報は高木には届いていないはずだ。ならば——穏便にとはならないことは明白だが、逃げ出すのであれば、その隙を伺う必要があった。
雨はまだ止まない。いや、果たして止むことはないのだろう。
西暦2020年代前半には西銀座を中心とした首都高速道は開通から50年以上が経過をした。当時の交通量は日に百万台。現在ではスマートトラフィック事業により、交通量は軽減されたものの、それでも日々の過酷な使用状況は変わることはない。これに国土交通省はスマートトラフィック事業以前に「百年先の道を」と標榜し首都高修繕事業を2040年完了を目処に開始をした。しかし、工期の延長を余儀なくされ、その矢先で第三次世界大戦の勃発。プロジェクトは無期限延長となった。
そして戦後、三十年近くが経過した2080年に森山達の頭上を走る高樹町入り口から走る首都高三号線から修繕プロジェクトを再開した。
すっかり老朽化した橋桁は長い年月を物語るよう錆びた水に色付けられ酷い箇所では、それが茶色であったかどうかも不確かなほどに黒々と線を下へ伸ばしている。かたや真新しいものは美しい白花色の素材が利用され目を引いた。がしかし、いずれにせよ止まない雨は暗雲を呼んだのだから、その美しさに影を落としているのは云うまでもない。薄暗い高架下が森山の背後に伸びている。
それは森山が得体の知れない三人を相手取った高架下の駐車場も一緒だった。
森山は外からの視線を気にしたのか、出入り口から少しずつ修繕工事用に備え付けられた防塵ネットが厚く垂れ下がる奥へ奥へと立ち位置を変えていく。奥へ誘い込み三人を斃しこの場から逃げ出そうと考えたのだ。よしんば斃せたとしても捕縛するには森山単独では心許ない。
だからわざわざ相手を挑発するよう言葉汚く相手をしたが、やはりというべきか三人は森山の考えを悟り警戒をした。
「捜査官——お前はお前が追う人間の価値を理解しているのか?」
大柄の男はサッと外套の内側から、奇妙に波打った黒々とした短剣を抜き放ち森山を更に睨みつけ、二人のブロンドもそれに倣った。森山はそれに眉をしかめ、フッと短く勢いよく息を放った。
「乃木無人の価値? そんなのは知らないな。知りたくもない。これは仕事だ。お前らが何に価値を見出しているか知らねえが、俺は与えられた仕事をこなす。ただそれだけだ」
「そうか。ならば聞くが、乃木無人はヒトではなく連綿と続く「神」と呼ばれた事象の一つ。人の形で在る間は「英雄」と呼ばれる事象であると云ったらお前はどう思う? それはその意思一つで世界を無に還し、そして気紛れに創造をするのだ」
「ん? それは流行りの小説かなんかか?」
「まあ、聞け捜査官——」
あきらかな森山の表情の変化を見とった大柄の男は警戒をそのままに、少々穏和な声で云った。どれほどまで自分達の言葉が、眼前の捜査官の耳に届くのか。その度合いによっては捜査官の命を奪わなければならない。しかし、大柄の男は一握りの淡い期待に賭けることにした。それが十分な結果を得られなかったのであれば、いつも通りに仕事をこなせば良いのだ。
「——我々、福音派「
大柄の男はそこで一度大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。そして手にした短剣を逆手に構え森山と改めて間合いを取った。
「外典だと? そもそも、お前らは福音派は聖書に記された言葉に間違いはなくて、世界は全てにおいて神の言葉の通りに在るべきだと。そう云うのだろ?」
「嗚呼そうだ。だが、なぜわざわざそう云わなければならなかった? 間違いがなく世界がそれに準ずるのであれば、わざわざ
森山は遂に後退することを止めた。
十秒後の未来では対峙する福音派の三人を斃す姿を想い描いた筈であったが、だいぶ予定を狂わされた。しかし、それでも、収穫はあった。これまで直接的なコンタクトが取ることが叶わなかった、薄ら気味の悪い連中から引き出せた情報は多い。出鼻で整えた集中力はまだ維持ができている。あと数分は大丈夫だろう。だから森山は更に情報を引き出すことに注力をした。
「そんなこた知らねえよ。それよりもお前らの目的はなんだ? 乃木無人を捕まえてどするつもりだ? それとも何か? お前らのオカルトごっこの片棒を俺達にやらせようってのか? 乃木無人は神の敵だからぶっ殺すって? どちらにせよ、あんまり良い趣味じゃねえよな」
「——良いか捜査官。乃木家が受け継ぐ外典の「鍵と槌」。これは我々が監視する外典「空」が記憶する万物の設計図に基づき全てを産み出す力を持つ。だが、その設計図を読むことができるのは外典「帆船」を有する者だけだ。つまり……乃木無人を……」
森山はそこで舌舐めずりをした。
狂信者が口にした外典の存在。それをおいそれと信じる必要はない。あまりにも荒唐無稽な話なのだから相手にする必要はないだろう。
だが、やはりこの三人は乃木無人を殺害する為に森山を尾行したのだ。それであれば、成すことは一つ。対峙した三人の無力化。しかし、先ほどから気を叩きつけているが大柄の男には
「つまり、乃木無人を殺してしまえば、そのなんだ? 世界の終末ってのを回避できる? って話なんだな。だがな、これだけは教えておいてやるよ。そのお前ら云う外典ってのがなんで「人」のことを指しているか知らねえが、とにかくアイツは今の所、世捨て人よろしく仮想世界に入り浸っているんだ。相棒もそれを確認している。俺達は、お前らが難癖つけて乃木無人をどうにかしようって騒ぐものだから、駆り出されているってわけだ。あれでも国の要人らしいからな」
森山はハッタリをかました。実際のところ
それも奇妙な話なのだ。このまま西方教会の不穏な動きを野放しにすれば、途端に乃木無人は棲家を暴かれ神への生贄となってしまう。つまり殺されると云うことだ。それは、乃木無人の存在が必要無くなったのか、いや、乃木無人が邪魔になったのか。それとも、乃木無人がそれを望んだのか。でなければ、少し探せばわかるような所で隠遁する必要もないだろう。
それはそれで森山の嗅覚を尖らせるに十分な理由だった——一体、何が起きているのか。
「そうか。捜査官、それは我々に取って凶報だ。急ぐ必要があるな」
大柄の男は森山の言葉に顔を曇らせ逆手に構えた短剣を前へ突き出した。そして、何やら言葉を紡ぐと、どうだろう短剣が仄かな緑の輝きを纏うようなのだ。
「な! おい、それは……」
「心の音。我々が監視する外典「空」、つまり聖ランベルトゥスが幻視の中で聖母から預かったそれは、原初の海を渡る「帆船」に備えられた羅針盤がなければ読むことは叶わない。しかしだ。それには例外もあった。それがこの<言葉の音色>だ。多少、寿命を消耗するが命を削り己が力とする業は羅針盤を扱うのに必須条件だからな。さあ、捜査官。もう時間切れだ。お前が理解を示せばと思ったが……死んでもらうぞ」
森山はその事象に吐き気をもよおした。
先ほど練り上げた集中力は、それとともに崩れ去り背中に嫌な冷たさを感じる。冷や汗が背中をつたい腰に流れていくのがわかった。
「こりゃ、まずったな……。これじゃまるで魔酔いじゃねえかよ」
大柄の男の両翼へ佇んだブロンドの二人は胸の前で手を合わせていた。そしてやはり何やら言葉を紡ぐと、どうだろう——先ほどまで気にも留めていなかった雨の音が大きく耳に届くようになった。まるで、これから始まる闘いの音を覆い隠すよう雨足が酷くなったのだ。
そうして高架下の薄暗い駐車場は、更にその暗さを増した。
確かに大柄の男が構えた短剣は緑色に輝く靄を纏っていた。
「捜査官。一つだけ教えてくれ。乃木無人はその仮想世界でなんと名乗った」
「アッシュ・グラント」
「そうか——灰はまた蘇り神へ肉体を与えるか。皮肉なものだ……さあ、始めようか捜査官……」
雨足が更に強くなると道路を打ちつける雨音が高架下の空間を世界から遮断したように思えた。先ほどまで少しは耳に届いた外の喧騒はもう聞こえない。
そして——森山はもう一度、舌舐めずりをした。