——王都クルロス地下水路。
王都とは云うものの草原の荒削りな都市の下水処理事情は、世界の中心、文化の主軸たるフリンフロン王国王都とは比べものにならない。それは酷いという意味でだ。
あるいは洞窟然とした地下水路は、所々剥き出しの岩肌へ奇妙な苔を育て、両脇にやっと人が通れるほどの路が敷かれている。汚水はその真ん中を、ちょろちょろと音をたて、異臭を放ちアッシュ・グラントとギャスパル・ランドウォーカーの背後に広がる闇へ消えていく。
「ねえ、導師さま。あの人達?」
アッシュが放った光の玉が見つけ出した、吸血鬼の眷属。
大きな眷属の手を握った小さな人形のようなそれは——ギャスパルは、酷く顔を歪めたのだが——目鼻がなく、あるべきところに髪もなく、ただ青銅の肌に浮かんだ口で云った。女の眷属は「あなたは黙っていなさい」と抑揚のない静かで重苦しい声で答え口を三日月に歪める。
「おい、グラント。あいつら喋るぞ」
「そりゃ、喋るだろ。<屍喰らい>とはわけが違う」
ギャスパルの動揺ぶりを脇目にアッシュは、くるりと黒鋼を回し切先を女魔導師——の、成れの果てへ向けた。「俺が、あいつを相手にする。お前は子供の方を相手にしろ」
ギャスパルは「あいよ」と路から向かい側の路へ渡ると「子供はこっちだとよ」と黒鋼の短剣を物臭に小さく振るった。
狭い通路では、アッシュの大剣は分が悪い。
それに、チビを水路に叩き落としたとしても、やっぱりギャスパルはアッシュの背後で剣風巻き込まれ頭をカチ割られるだろう。視界が良ければ話は別だが、だとしても背後で指を咥えて待っている気はない。なんと云っても先を急ぐ必要がある。
「ギャスパル。先に行っても良いんだぞ。お前、そんな律儀な男じゃなかっただろ」アッシュは見透かすように向こう側の大盗賊に云った。「云ってろ。打算だ打算。俺だけじゃアガサはやりきれねえ」
見透かされたようだったギャスパルが唾を吐き出すと「きゃはは」と、奇声とも笑いとも判らない声を挙げた子供の眷属がギャスパルに立ちはだかった。これで相手は決まった。ギャスパルは黒鋼の短剣を逆手に握り構えた。「趣味の悪い肉人形だな、こりゃ」
「ああ、こいつらは皆んなそんなもんだ」
最初に動いたのはアッシュだった。
大剣を振り上げ、寸分狂えば切先が天井を削りそうな路で四半の弧を描き、轟音を響かせた。
闘いの合図もなく、アッシュはただ無言で女眷属との距離を大股の一歩で詰めると、目にも留まらぬ速さで黒鋼を振り下ろしたのだ。光玉の輝きをうけた切先が描いた軌跡は正確に眷属を捕えたように思えたが、女は姿を漆黒の霞にでも溶けたように姿を消した。アッシュは「姑息な手を使うなよ吸血鬼」と静かに憮然とする。
響いた轟音はそう溢したアッシュが黒鋼を振り抜き、ことさら路へ切先を撃ちつけ、反動を利用しそのまま背後に姿を現した女眷属の、土手っ腹へ黒鋼を突き立てた時のものだった。
女眷属は盛大に血を吐き出し、喚きを撒き散らすと黒鋼の刀身から身体を逃した。「くそ! くそ! なんなの!」女眷属はやっとアッシュの背中へ呪いの言葉を叩きつけた。
そうなのだ。
アッシュは黒鋼の切先を僅かに流水の方へずらし左の脇下から、黒鋼を突き出したのだ。女眷属は黒い霞から再び姿を得る頃合いで、腹に黒鋼を埋め込まれ自尊をコケにされたのだ。地団駄を踏むよう金切り声を挙げた。
吸血鬼とは始祖から眷属に至るまで少なからず傲慢で、僅かばかり獰猛さを覗かせ、強者か神かを気取る。ゆえに狭量だ。強者であったとしても、神ではない。
女眷属は主人である<色欲>のアレクシス・フォンテーンから注意を促されていた。
闘う必要はない<宵闇の鴉>を張り出し陣まで連れてくれば良い、剣を交えれば只では済まないからと。あなたが屠られ、そのまま大盗賊の案内のもと礼拝堂へ行かれてしまっては予定が狂ってしまう。そうとも云った。「それであれば、ご自身で鴉のもとへ出向いた方が早いのでは?」と女眷属は云ったが<色欲>は「私がこの場を離れるわけにはいかないの」と答えたのだ。
女眷属はその答えに反吐を吐きかけてやりたくなった。私はあなたの眷属だけれども使いっ走りの駒ではないと。それに、たかだか人間風情に屠られるような自分ではない。だが、主人の言葉は正しかったようだ。
アッシュは吐きかけられた悪態へ「さあな」と素っ気なく返すと、黒鋼からぱっと手を離し急速に踵を返すと柄を握り直し、ちょうど真正面に捉えた女眷属へ素早い突きを繰り出した。
到底——人間の業とは思えない猛攻へ女眷属は腰から抜き放った細身の剣で対応をするが、どんどんと後退をせざるを得ない状況となった。合間合間に魔導の焔をアッシュへ浴びせるが、それは全て黒鋼の鱗籠手に弾かれ、ともすると隙を縫い合わすように蹴りが飛んで来る始末だ。「そろそろ沈んでもらうぞ」それが、女眷属が耳にした最後の言葉だった。
不用意に突き出してしまった細身の剣。
女眷属は、失敗をしたとすぐに悟った。切先がギャリギャリと音を立て、引っ掛かり感じた。その刹那。左腕が無様に横へ弾かれ大きく胸を開いてしまった。空白の時間が訪れた。引き伸ばされた刹那と云っても良いだろう。
その頃には女の頭巾は、どこかに落としていた。
露わになっていた黒髪は黒鋼の鱗籠手に掴まれると、前に引っ張られ、女眷属は前屈みとなった。苦し紛れに、別所で闘う同胞はどうかと最後の足掻きに視線を向けると、ほくそ笑んだ。「お仲間の心配をしたらどう?」
そして女眷属の視界は暗転した。
アッシュは女眷属の言葉に、無感情で、無反応で、無慈悲に半身をずらし器用に頸を跳ばしたのだ。「お前らの悪趣味に付き合う暇はないんだ——」アッシュは、身体を大きく痙攣させた首無しへ言葉を吐くと少し離れたところで闘うギャスパルの姿を追いかけ「——惑わされやがって」と、少々呆れたように溢した。
※
「お、おい何の冗談だったんだ」
アッシュが黒鋼を女眷属の腹に埋め込んだ頃、ギャスパルはしきりに「ソフィ」やら「アリサ」と女の名前を口にすると、子供の眷属に抱きつかれては太腿や腕、それこそ頸まで、鋭く引っ掻かれていた。
たったいま、無慈悲な<宵闇の鴉>が子供の眷属の頸を跳ねなければ、宙に舞ったかぶりはギャスパルのものだっただろう。
「魅了の術だ」アッシュは子供の頸を下水の流れへ蹴落とすと静かに云った。「奴らの常套手段。ただアイツは子供だったな。お前の頭の中から、やっと引っ張り出せたのは、お前の妹の姿と——」
「アランが殺った娘だ」ギャスパルはバツの悪そうな顔でアッシュへ返した。唾を吐き捨て黒鋼の短剣を腰裏の鞘へ戻すと「なんだよ、その顔は」と、冷ややかな視線を向けたアッシュの胸を小突いた。居心地の悪さに大盗賊は「行くぞ、グラント」とアッシュの先を歩いた。「こっちだ」
しばらく歩くとギャスパルは片手を挙げ、止まれと合図を送る。ゴツゴツとした壁へ指先を走らせると「ここだ」と、指一本が入る程度の窪みへ指を突っ込み、小さな鎖を引っ張り出した。
窪みの奥から、何がが外れる鈍い音がしたかと思えばギャスパルは壁に肩をあてグイッと力を入れた。「おい、ボサっとしてるんじゃあねえよ。お前も押せ」と、仕掛けが歪んでいやがるんだとボヤいた。
「それにしても、お前随分と変わったんだな」オラもっと腰を入れろとアッシュを急かしギャスパルは云った。
「何も変わっちゃいない」
「俺の知っているお前も、フロンで会ったお前も、あんな簡単に子供の頸を跳ばすような奴じゃなかっただろ」
「あれは、幻だ」
「は? ありゃあ吸血鬼だろう」ガコンと溝に仕掛けがハマった音がすると、ギャスパルの云った隠し扉がやっと奥に押され、すぐそこに登り階段が姿を現した。
「そうじゃない。お前の知っているアッシュ・グラントはどれも幻。幻想。誰かがそう望んだ俺の姿だってことだ。俺の現実はもう選んできた」
「それが、今のお前さんってことか? まあ、アガサをなんとかできれば俺はなんでも良いけれどな」大盗賊は怪訝に云うと「お前が先にいけよ」とアッシュの背中を軽く叩いた。
※
——ダフロイト、アスタロト砦。
レジーヌ・ギルマンが発動した大魔術。
それは、彼女が敵と認識したものへ無数の蝶を群がらせると、魔力へ変換し術式に組み込むと最終的には、圧縮された魔力の光柱で敵を討つものだ。そして、光柱はたった今、雪竜王ヴァノックとそこに居座った少女を巻き添えに収束をし大爆発を起こした。
殆どの魔力を使い果たし、げっそりとしたレジーヌはゆっくりと地表へ背を向け降下をした。あの少女は逃げてくれただろうか。レジーヌはそれだけが気がかりだった。
爆風と土煙や白煙を派手に巻き上げた爆心地へ目を凝らしたレジーヌは、直後に彼女が発動をした術式とは別の光柱が、奇怪な金属音のようなものをたてながら大空を目掛け立ち昇ったのを見ると、目を疑った。目を潰さんばかりに輝く光の中へ二人の人影を見たように思ったのだ。
「さてさて変態王子」どうやら光の中の一人は、あの少女のようだった。「生還のご気分は?」
「私は——」光の中のもう一人が云った。どうやらヴァノックの姿はないようだ。「——戻ったのか?」
「はい。リードランの均衡をしっかり取ってもらうために戻って頂きました。幾分かヴァノックの権能が残されています。それだけあれば、あの忌々しい宰相も、あなた達兄弟を討とうと王都を出立した黒竜も黙らせることができるでしょうね。それに——フリンフロンが北を制圧に出ます。それを喰い止めてください。その前に——」
地表へ向け降下をするレジーヌは、その会話をはっきりと耳にできた。が、しかし、それが意味するところは朦朧とした頭では理解ができない。
「——この場を切り抜けるのが先ですけれど。どうするかは、あなたにお任せします。やりすぎないようにお願いしますよ。ご主人様の機嫌を損ねると、宥めるのが大変なんですから」少女はそう云うと、私は別件で忙しいので。と、その場から忽然と姿を消したのだった。
その時だった。白煙の奥から緑と蒼の輝きが大地を揺るがす響きと共に放たれたのは。
それはアオイドスが準備をした<大鉄鎖>の輝きだった。大地から力強く撃ち出された大鎖は、光と白煙に佇む誰かへ幾百もの蛇が飛びかかるようだった。
しかし、白煙の中の誰かは刃走りの甲高い音をたてると、大鎖をことごとく叩き落としたようだ。鋼と鋼が叩き合わさると悲鳴を挙げた。その度に緑の火花が咲き誇り、蒼の閃光が迸り、剣風が白煙を振り払った。
レジーヌは去来する自己矛盾のちょっとした呵責——本人はそうとは認めない——と頭痛に襲われるなか、その光景を目にしたのだが、何度か緩慢に瞬きをする間、振り払われた白煙の中に赤毛の騎士の姿を見つける。
騎士は余裕綽々とアオイドスが必死に放った大鎖を叩き落とし「そんなものか」と、薄らとせせら嗤い「真に白竜の名を戴くとは、そういうことかアイザック・バーグ。聖霊をも利用するか」そう、溢すと掌を顔に乗せ高笑いを挙げた。
※
「アルベリク!」
戦禍に澱んだ空気を凛としたアオイドスの声が斬り裂いた。「ショーン、ライラ、アドルフ! こいつを行かせては駄目!」
砦に響いたアルベリクの下衆な高笑いは、地上に残された四人の狩人が弾かれるよう赤毛の騎士へ跳びかかる間も響き渡った。
アオイドスは片手剣を呼び出し最大速力で突進をした。ショーンもライラも雷撃の速さで騎士との距離を詰め、アドルフは赤毛の騎士の背後をとった。
「アドルフ、頸を!」叫んだのはアオイドスだった。
だが、真正面から突進をした吟遊詩人の腹へ目にも留まらぬ早く強烈な蹴りを見舞ったアルベリクは、左拳でライラの顔面を捉え地面へ叩きつけ、白銀に輝く剣をショーンの左肩へ埋め込んだ。それはほんの一瞬の出来事だった。
「野伏。背後を取るのを、気取られては意味がないだろう。魔導に傾倒したエステルでも、すぐに勘づくぞ」アルベリクは、三人の狩人を圧倒すると、瞬時に身体を捻り込み串刺しになったショーンをアドルフへ叩きつけた。そして、まるで刃にしたった血露を払うようショーンを投げ捨てると、その場から姿を消した。
「あぐぅ!」鶏の頸を絞めたような声が挙がった。それはアオイドスが苦悶の表情で挙げたものだった。
姿を消したと思われたアルベリクは一足飛びで、片膝を着き苦しむ白の吟遊詩人へ距離を詰めると、彼女の太腿へ剣を突き刺した。まるで、牛か豚にでも突き立てるよう無慈悲にそうしたアルベリクは云った「我が軍はどうした。答えろ虫けら」
「自分で確かめたらどう? 愚弟が無様に兵力を削られる様子を確かめることね。あなたの失態のおかげで魔物もわんさかやってきて、さながら地獄の様相よ」
アオイドスはアルベリクの背後に倒れたアドルフを陽炎の向こうに確かめた。一度は手離した黒鋼の短剣を野伏が握り直し、もうすぐ身体を起こすだろう。だから時間を稼ごうと、あからさまに煽りの言葉を向けた。(アドルフ、アルベリクの頸を落として)
「訊かれたことに答えろ」アルベリクは冷ややかに云うと、突き刺した剣を捻り込んだ。
「エステルをアッシュに取られて悔しい?」艶やかな黒髪がべったりと貼りついた顔を酷く歪めたアオイドスは、どうにかアルベリクを釘付けにしようと更に挑発をした。いくら狩人であったとしても、この痛みは失神をしてもおかしくない。
だが、今は時間が必要だ。アオイドスは歯を食いしばった。アルベリクの背後で静かに、立ちあがろうとするアドルフはもう少しで赤毛の騎士にひっそりと跳びかることができる。そこまで自分の意識が持てば、それで良い。むしろ——。
エステルの名を耳にしたアルベリクは嫌悪を顕に赤瞳の双眸を細め「考えたな吟遊詩人」ともう一度、剣を捻り抜き放った。「もう、あれは私のものではない。ヴァノックのように嫉妬に狂うような、意地らしさは持ち合わせていないよ。残念ながらな」
アオイドスの苦痛の絶叫が、炎が爆ぜる音、遠くに鳴り響く戦禍の合奏の合間を縫いながら天へ駆け昇った。
「吟遊詩人!」
「アオイドス!」
「アドルフ!」
ショーンとライラはアオイドスの絶叫を合図としたように、満身創痍の身体へ鞭を打ち、放たれた矢の如くアルベリクへ跳びかかった。アルベリクが引き抜いた軌跡はどう見ても、アオイドスの頸を跳ねる軌道を描いている。ここで彼女を死なせてはならない。
頸を跳ばされる——そうなることを半ば願っていたかのようにアオイドスは両の瞼をきつく閉じるとアドルフの名を叫んでいた。
吟遊詩人の左頬に生暖かい何かが飛び散ったのがわかった。アオイドスはゆっくりと瞼を開くと、視界には見慣れた外套の色が、目一杯に広がった。アオイドスは、おそるおそる視線をあげた。
「そう簡単には殺らせませんよ。狩人はもう不死身じゃないんですからね」
アドルフは人生の師、最愛の女性、彼女の言葉を無視し、アオイドスの頸を跳ねようとした凶刃を身を賭して防いだのだ。
右の肩甲骨を砕き貫いた剣を抱え込むよう身体を落としたアドルフは「ショーンさん! ライラさん!」と、二人の挟撃に賭けると、アルベリクの自由を奪ったように見えた。
「狩人も地に堕ちたものだ」騎士は再び、せせら嗤う。左足で軽く地を踏みつけると、強烈に空気が震え上がった。震えの波は刃のよう鋭く円形に拡がる。もっとも、その様相は飛び込んできた二人の狩人の目には留まらなかった。いや、空気ゆえに見えないのだ。
それは一種の衝撃波のようでもあった。
水面に落とされた波紋のように土煙が姿をあらわし、ショーンを斬り裂き、再び吹き飛ばし、ライラは振り抜いた剣を折った。
無様に、無惨に、無情に弾かれた狩人の確認をしたアルベリクは、次に野伏へ視線を落とした。「虫けらが。私を見上げるな」
今では片膝を着きアオイドスを庇った野伏に吐き捨てたアルベリクはアドルフの胸を足蹴に剣を引き抜いた「では、あの魔術師に訊くとしよう」
赤毛の騎士は、たった今、背に地を着けたレジーヌの元へゆっくりと足を運んだ。
※
——王都クルロス王城地下。
地下水路の仕掛け扉を抜けた奇妙な二人組は地下貯蔵庫前へ辿り着く。しかし、崩落に阻まれ扉を閉ざされると「これが、良い案なのか?」とアッシュはギャスパルへ皮肉を云ったものだが、大盗賊は「そんなわけがあるものか。こっちだ」と別の通路を抜け王城の張り出し陣へ繋がる吹き抜けへ辿り着いた。
陽の光がひっそりと吹き抜けを照らしたが、空気は澱み重たい。二人は首元の布を口元まで引き上げると、硬い足音をたて、微かに届いた陽の中へ踏み込んだ。
ギャスパルの見込みでは地下貯蔵庫から王城内へ侵入する予定だったのだろう。だが、それは崩落により阻まれ結局は真正面から、正々堂々と城門をくぐる必要がある。アッシュはギャスパルの盗賊としての勘——これまでの道程でも助けられた——を疑ってはいない。だとすれば、これは仕組まれ誘導をされている。そんな気がしてならない。
井戸の底よりは随分と広々とした吹き抜けを見上げれば、遠くに陽の光が見てとれる。向こう側の壁面には光へ向かい、古びた鉄梯子が伸びている。あれを昇ればギャスパルの云う張り出し陣に辿り着くのだろう。云ってみれば、そこからさらに歩みを進めなければ王城城門には辿り着けない。
先に屠った眷属の様子も、不可解だった。ともすれば、あれを斃さなければ、ここへ案内をされたのかも知れない。
アッシュはそう想いを馳せるとギャスパルが「おいおい」と落胆の声をあげ「なんだよ。魔導師の次は女家令かよ」と、短剣で鉄梯子を指した。いよいよもってアッシュの推察は形をなしてきたようだ。ギャスパルの切先の線上には、小綺麗な黒を基調にしたドレスを纏った赤目の女が立っていた。
「なんであれが、家令だとわかる」アッシュは、どこか気の締まらない声をしたギャスパルを冷ややかに見た。
「あ? お前、目が腐ってやがるのか? あんな美女が使用人の筈がねえだろう。ありゃそのボスだぜ。俺の目に狂いはねえよ。見てみろ。しゃぶり付きたくなる身体をしてるじゃねえか」
「ギャス。この王城から出るまでは、どんな女だろうと目を見るな」
「なんでだよ。気でも狂ったのか? 美女を見ないで、どうするってんだよ。お前が男色だって話は知らねえぞ」
「狂ってるのはお前だ、ギャス。あれは吸血鬼だ」アッシュは一言二言、何かを囁くとギャスパルの背中を強く叩きつけた。「ことごとく簡単に魅了されるな、お前は」
「そう警戒しないでください宵闇の——」
大盗賊の背中を引っ叩いたアッシュは一歩前へ踏み出すと、黒鋼を肩へ乗せ身体を緑輝に縁取った。つまり、身体強化の<言の音>を口にしたのだ。それに、ギャスパルが云った美女の家令——吸血鬼は、両手で上質な布のスカートを摘み軽く膝を折った。
ギャスパルはかぶりを大袈裟に振るうと「んだよ、あいつもかよ」と愚痴を溢すと短剣を構えた。アッシュが紡いだ<言の音>がギャスパルを正気に戻したようだ。
「——アレクシス様が上でお待ちです」
「色欲が俺になんの用だ」アッシュは、殺意を隠そうともせず、ゆっくりとした歩みを止めようとはしなかった。邪魔をすれば叩き斬る。そう云わんばかりにだ。
「あなたの捜し人の居場所を——」
「何を企んでいるのか知らないが、俺と駆け引きをしようと思うな」アッシュは黒ドレスの言葉を遮り横で足を止めた「女王アガサは何処だ。先にそっちを片付けたい。俺の知りたい情報だけを云え」
ギャスパルはアッシュの言葉に目を丸くすると「随分と殊勝な心掛けじゃねえかグラント」と軽口を叩き、そそくさと走り出し鉄梯子へ手をかけた。
黒ドレスは、そんな大盗賊を目で追いかけたが、突き刺さるような視線を向けるアッシュへ顔を戻した。「英雄グラント。アレクシス様の、お手を取って頂けるのであれば——」
仮にもだ。吸血鬼の眷属といえど、手練れの騎士、凄腕の魔術師、熟練の魔導師を凌駕する力を持つ。それは、技量、魔力量、術式の妙。全てにおいてだ。
だが、アッシュ・グラントは黒ドレスが口を開くと、腰裏の鞘から狩猟短剣を左で素早く抜き、彼女の四肢を斬り跳ばしたのだ。それは瞬きをする間だった。
吸血鬼は、並外れた力を振るうことも許されず、四肢を跳ばされ身体を横たえると、自らの鮮血の海から呪いの言葉を吐き捨てアッシュを睨みつけた。これほどの屈辱はない。<外環の狩人>であろうとも下等な人間風情に、みすぼらしい姿を晒し、あまつさえ見下されている。この男には万死を与えなければならない。「アッシュ・グラント! 呪い殺してやる! 永遠に癒えぬ呪いでお前を——」
「癒えぬ呪い? 続きを云ってみろ」
鉄梯子を数段昇ったギャスパルは、とんでもない金切り声を耳にすると、アッシュの方を見下ろした。「血も、涙もねえな」
大盗賊が目にしたのは、黒鋼を黒ドレスの口へ突き立てたアッシュの姿だった。ギャスパルが覚えているアッシュの姿。それはクルロスで仲間を手にかけ、血の涙を流したのを見たのが最後だった。そのときも戦慄を覚えはしたが、今、感じた戦慄は、あのときとは似ても似つかないものだ。今のそれはどこか狂気じみたものだと云って良いだろう。心臓を鷲掴みにする恐怖。いや、畏怖なのかもしれない。「んなこと云ったら、ぶっ殺されるのは俺の方だな」
ギャスパルはアッシュが英雄だの神だのと云われるのを極端に嫌っていることを、ふと思い出していた。「なるほど『俺の現実』ね」
大盗賊は鉄梯子を昇り始めたアッシュを確かめると、小さく独りごち「きびきび昇れよグラント。時間と良い女は待ってはくれねえぜ」と、「何か云ったか?」と訊ねたアッシュへ吐き捨てた。「いいや。さっさとすませて早いところ娼館にでもしけこもうぜ。美味い飯に酒に女が待ってるぜ」
「俺はアランとは違う」アッシュはどこか寂しげな顔で答えた。ギャスパルは、後を昇ってくるアッシュをもう一度見下ろし、眉間に皺を寄せた。「なんだ、やっぱりお前、覚えてるじゃねえか」
※
——ダフロイト、アスタロト砦。
動いてくれ。動いてくれ。
アドルフの既に感覚の鈍くなった右腕は役にたたない。それは判っていた。<大崩壊>前に感じた幻肢痛とは違い、この痛みは本物だ。このまま放置をすれば、現実世界の肉体は後遺症を残すだろう。
あの時と状況が違う。白の吟遊詩人が優しく治癒の術を施してくれることはないし、自身で満身創痍の身体を治癒する時間もないし、放っておけば、現実世界で右腕は永遠と動かなくなる——下手をすれば切断をしなければならない。それも想定しなければならない最悪の状況だと云っていい。
だが、アドルフはアオイドスが苦痛に歪む顔へ一瞥すると、まだ動く左腕で身体を起こそうとした。アッシュ・グラントのように稲妻の速さで騎士へ身体でもなんでも叩きつけなければ、今度はレジーヌが危ない。
動いてくれ。頼むから動いてくれ。
なんで——僕にはアッシュさんのような力がないんだ。
野伏の胸中に僻みにも似た感情が駆け巡った。
アルベリクの切先が遂にレジーヌの鼻頭に触れるか触れないかという頃合いまで、アドルフは死に物狂いに状況を打破しようと試みた。
考えた。
身体を動かそうとした。
だがピクリとも動かない。むしろ気が遠のきそうだ。
白の吟遊詩人が唄う彼の英雄譚は、どれにも影が付き纏った。華々しくもなく、譚のどの片隅にも彼の幸せは転がってはいなかった。常に彼の存在は誰かの幸せの影の中で澱んでいた。
アドルフは想った。
自分とアッシュの違いが心の在り方だと云うのならば、そんな仄暗い力は要らないと。欲しいのは、手に入れたいものは、そんなものではない。その想いにいたると、野伏の頭の中で、何かが弾けた。「動けって云ってるんだ!」
※
「ちょっと、あなた」レジーヌは眼前に突き出された切先へ目を向けることなく、冷徹に、冷酷に落とされたアルベリクの視線を真っ向からうけとめた。「わきまえた騎士なら、ここは
レジーヌは判っていた。いや予感と云ったほうが正確か。野伏がこの場をなんとかする。そう朧げに想っていたのだ。それは、幾つもある見栄っ張りな根拠ではなく、心底そう想ったから強がりを口にできた。幼い頃からアドルフ・リンディ——白石颯太という男はそうだった。
「そう声を震わさせ云われてもな、魔術師。私が知りたいのは我が軍を、お前がどうにかしたか? という一点だ。でなければ、お前の素っ首を斬り飛ばし、ここに居合す狩人も同じ運命を辿ることになるぞ。それでは、困るのだろ?」アルベリクは途中途中に乾いた笑いを含ませた。
「ふん。あなたに騎士なんて上等な役割は相応しくないみたいね。あなたが、なんなのか知らないけれど——きっと、モテないでしょ? その笑い方。やめた方が良いわよ」こちらも、どちらかと云えば多少強張った乾いた笑いを挟み、やり返した。次第に四肢へ力が伝わるのを確かめたレジーヌは、アルベリクに気付かれないよう、節くれた杖を軽く握り直した。
「そうか。お前ら狩人の雁首は揃いも揃って姑息を練り回すのが得意のようだな。だが、残念だったな。奸計は手に取るように判るぞ。まるで喜劇の台本を読み上げるようにな!——」
自称大魔術師が振り絞った最後の胆力から発露した挑発と、アドルフが何かに行きつき、こともあろうか子供のように「動け!」と叫んだのは同時だった。
そう叫べば世界は変わるとでも云う子供のような願望は、力強い緑輝とも白輝とも判らない光でアドルフの身体を包み込むと瞬時にアルベリクの頭上へ運んだのだ。そして、驚くことに全く動かなかった全身はこれまで以上に力が漲り、野伏は二本の黒鋼の短剣でアルベリクの頸を跳ねようと、今まさに二振りを交叉したのだ。だが、アルベリクは叫ぶと背後へ迫った黒刃に気が付いていたのか、素早く踵を返しアドルフの渾身の払いを、淡々と弾き返した。
「——暗部を這いずり回るお前ら野伏風情が、英雄気取りか? 世界でも救う気にでもなったか? だが勘違いするなよ野伏。私の願いは自分の国を護る。それだけだ」
無様に寝転んだ魔術師に興味はないとでも云うのか。アルベリクは、刃を弾かれ後ろへ跳んだ野伏と対峙をすると、その向こう側、陽炎の先で蠢く二人の剣術士と吟遊詩人の姿へも注意を払った。「さあ、野伏。どうする? このまま英雄を気取り、あくまでも私の頸を求めるか? 寝転がった魔術師。これは役にたたないだろうが……四人でかかればいけると思うか?」
「そんなの——」アドルフは自分の中で弾けた想いがもたらした湧き上がる力を、もう一度腹の底で確かめ息を整え、再び短剣を二振り構える。「——やってみなきゃわからないでしょ」
アドルフはそう云うと少しばかり笑ったように見えた。