ギネス・エイヴァリーは云った。
鬼が出るか蛇が出るかと。
その言葉は、蒼と緑の輝きに両の瞼をきつく閉じたトルステンが、息苦しさを覚え、胸を大きく突き上げ空気を掻き込むと、耳にしたものだった。
冷酷な丸鍔帽子の魔導師は、今しがた矢を射るような所作で北東へ腕を掲げると、小さな丸い玉を浮かべた。
それは蒼と緑が渦巻く球体。
ギネスは右腕をめいっぱい後ろへやると、パッと手を開いたのだ。
渦巻く球は、それを合図に強く細い光を北東へ——アスタロト砦の方角へ、どこまでもどこまでも伸ばした。
ともすれば、砦とギネスを結ぶ突如と現れた線のようにも見えたが、ぐるぐると一定の方向へ回転をしながら伸びた線は二匹の蛇を規則正しく絡ませた趣味の悪い縄のようにも見える。
着弾。とでも云えば良いのだろうか。
強く細い線は、輝きの後に音はなかったが<アスタロト砦>へ大量の白煙を巻き上げた。そうやって、天へ駆け昇る竜のような白煙は、ギネスの放った光線が何かへ届いたことを知らせた。
「ギネス。ショーン・モロウは?」
トルステンは、空気の欠乏に加え耳を襲った閉塞に気持ち悪さを覚え、頭を振りながらギネス・エイヴァリーへ
「残念ながら、外しましたよ」
ギネスは丸鍔に指を引っ掛け振り返ると、悪びれる様子もなくトルステンの肩を叩いた。「安心してください」ギネスはトルステンが危惧するところを察してなのか、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
トルステンが請け負った任務。
リードランにとっては長い年月ではあるが、時間をかけ造り上げられた機能を現実世界へ持ち帰ること。それは、過日の大戦の際に与えられた任務よりも遥かに簡単であったし、自分の生来に即している。
だが、その準備の過程で実の弟は半ば命を落としている。
半ばだ——任務に成功をすれば引き戻す可能性が僅かながらに残っている。だというのに、ここで大罪を犯してしまえば、それもままならなくなるだろう。
任務の発注者——ギネスが忠誠を誓う彼女がどれほどの権力を有し、何をどこまで護ってくれるのかさえ判らない状況で、ギネスの動向がいちいち気になるのも仕方がない。だから、トルステンはギネスが浮かべた、ほんの少しの笑みに不安を覚えた。
「しかし……あの煙は? それに今の——その……」
「リードランでは<超彗星>と呼ばれるマグナス達が隠匿した術式の一つです。魔導と術式を掛け合わせた大規模魔術です。私達の言葉では<陽電子砲>と云うのが一番近いでしょうね——本来、星の自転に影響を受け、狙撃という意味では使い物にならない。
ですが、こちらでは、それを気にする必要はありません。
ただ……あの様子を見るとヴァノックの質量がおかしなことになっていたのでしょうね。付近の歪みが干渉し、上にズレました」
「……じゃあ、あの煙は」
「そうですね。
ヴァノックか、恐らくですがその媒体となったアルベリク元帥、何れかの情報が消し飛んだのでしょう」
「では——」トルステンは再び砦の方角へ目をやると、雪竜王の姿を捉え「ヴァノックはまだ姿を保っているようです。と、云うことは……」と、アルベリクの情報が消し飛んだのだろうと云いたげな様子で云ったがギネスはそれを否定した。
「トルステン、それはまだ判りません。なにせヴァノックは恐らく正規の手順を踏まずに顕現しているはずです。あの竜は、アルベリクの世界因子に流し込まれたもののはず。つまり、聖霊達が再構築するのであれば、何を優先するのか判りませんが……」
だから「鬼が出るか蛇が出るか」なのかと野伏は、フムと心中に云った。蛇の意図は判る。では鬼の可能性とは一体なんなのだろうか。ギネスが言葉を濁したその意図を汲み取れなかったトルステンは思考を巡らせたが、その答えは直ぐに目にできた。
※
大魔術師ことレジーヌ・ギルマンは、地表から彼女の姿を見上げれば、淑女たるもの隠匿せねばらなぬ光景が広がることを厭わず肩幅に足を広げ、節くれだった樫の木の杖を大きく振りかざした。
「ふふん。そうよ、私は大魔術師」
直下には、幾分か小さくも見えた雪竜王の
周囲を見渡せば、いよいよ夜明けを向かえた空を背に、白の煙、燻った炎に猛々しい炎、否応もなく崩れ去った建造物の残骸、その合間を駆け巡る戦士や術者、逃げ遅れた市民、そして魔物の姿、そんなものが一枚の紙に載せられ、まるで紙芝居を見るよう視界へ飛び込んできた。
どれ程前の事だったろうか。
あまりにも緊張をすると、人は無意識に、過剰に、情報を取り込むが処理速度が著しく落ちるのだと聞いた事がある。それであれば、今のこの視界こそは、その状況が産み出したものなのだろう。
大口は叩いてみたものの魔術師は、フとそんなことを想うと、かぶりを大きく振り、しっかりと、きっちりと、みっちりと敵を見定めるため目を大きく見開いた。「見てなさいよ」
※
上空に意気揚々と浮かぶ、あられもない格好の淑女を見上げたアドルフはレジーヌが口にした言葉が、誰に云ったものだったか判らなかったが、そこはかとなく視線が絡んだようにも思えたし、レジーヌの格好もあってか視線をヴァノックへ戻した。
塒を巻いた雪竜王は未だ大きく呼吸はするものの、それ以上のことはない。一体何が起きているのだろうか。
もう一度<大鉄鎖>を放つべく白の吟遊詩人は準備を進めている。
双剣術士は空を見上げ、展開された術式へ目を見張り「また見れるとは、こりゃまた凄いな」と緊張の糸を、ぷっつりと切ったように感嘆の声を挙げている。そして、シラク村では肩を並べた、随分と肌の露出面積の広い女剣術士は——雪竜王を見据えているのか、はたまたは自分かアオイドスを睨めつけているのか、距離があって判別はつかない。が、何にせよ警戒態勢であることは、構えた剣を見れば判る。
「はあ」とアドルフは、俯き小さく溜息をついた。
この
では、アッシュ・グラントであれば英雄譚にあるよう、もう一度、雪竜王の頸を落としたのだろうか? アドルフの記憶が確かであれば、アオイドスが謳った譚では<宵闇の鴉>は、雪竜王が溢した涙が故に頸を斬り落とすと再開の約束を口にし、その幕を閉じる。
アッシュさん。いや、アッシュ・グラント。今のあなたなら、どうするのですか? アドルフはそう心に呟いた。その刹那だった。空がパッと明るくなると、レジーヌの術式が発動したことが判ったアドルフは、胸の奥底に巡ったもやもやした気持ちを掻き消すよう、短剣を握り直した。
そして、この場で構える五人以外の声が飛び込んできたのは、その時だった。
※
アオイドスが想像をした最悪の状況はこうだ。
雪竜王を呼び出したのがアイザック・バーグであったのならば、過去にオルゴロスを狂わせた錫杖を媒介に、今度はヴァノックの機能をコチラの住人へ流し込んでいるに違いない。
過日のヴァノックの意識は聖霊の手で消去されたが、純然たる機能は残されている。余談だがアッシュはそれに酷く怒りを露わにした。オルゴロスのときも、そうだったと聞く。だから彼は「竜殺し」の肩書きを汚名だと云いクルロスの祝賀会には顔を出さなかった。
もっとも、この二つの話しは万人が知る由もない。
故にアオイドスはその理由を口にせず、ヴァノックの顕現を「機能が流し込まれた」と説明をした。そして、最悪の状況とは、まさにその「機能」がリードランに在り、処分をしなければならない部分だ。いわずもがな、制御されない脅威——この場合はヴァノックの「機能」は、世界の均衡を崩すだろう。それは、アッシュも聖霊も望むところではない。
アッシュ・グラントの状況が判らないとはいえ、アドルフが語った直近のアッシュと、エステルが語ったアレクシスと対峙したアッシュの動向は酷似している。が、違和感を感じる。何よりもアッシュ・グラントの瞳が始祖達と同様のものであったと云う部分にだ。
聖霊——いや、ことさら言及をするのであればロアが、現在のご主人様——アッシュの状況をどのように<把握>し、ヴァノックを<どう処理>をするのか。
聖霊達はリードランのバランスを保つように事象を<修復>する。竜族が人の監視機構であれば、聖霊は世界の均衡を保つ調律師。
強い力には、それ相応の力を求め均衡を保つ可能性がある——つまり、どのような形であれ、雪竜王の「機能」に対抗しうるものを持ち込む可能性を孕む。それは、誰かの悪にもなるし、誰かの善にもなるだろう。
アオイドスの勘が正しければ、必ずこの場に聖霊ロアが姿を現す。
そしてたった今、突然に、忽然に、雪竜王が巻いた塒へ立った少女の姿はアオイドスの勘の正しさを証明している。
※
「こうも騒々しいと色々と専念できませんね。それにヴァノックまで漏れ出てしまっては——」いつだって彼女の純白な姿は地獄絵図の渦中に現れ、天使のように振る舞う。
とにかく、聖霊ロアは、アドルフ・リンディ達がダフロイト上空——アスタロト砦へ姿を現し、ヴァノックがギネス・エイヴァリーの魔術で頭を撃ち抜かれる少し前に、従者を従えナルドアルの軍事教会に姿を現したのだ。「——それに、この状況を見る限り、少なからずフリンフロンは北を攻め落とす可能性が」ロアの言葉を拾ったのは、従者の一人であった。ロアは小さく頷くと「教会の主人は?」と、すっかり疲れ果て石柱へ背を預け座り込んだ女魔導師に訊ねた。
周囲を見渡せば、次々に負傷者が担ぎ込まれ阿鼻叫喚の光景が層を重ね、見るに堪えかねる。中には担ぎ込まれたは良いが既に事切れている戦士の姿もあった。もう、息を吹き返すこともない、そういった遺体は最初のうちは丁重に扱われたのだろうが、今は、生者のために場所を譲り教会のあちこちの壁際に追いやられていた。
臭いも酷いように感じた。これでは別の理由で死者が増えるであろうことが、容易に想像ができる。
「導師ナルドアルは外で負傷者の手当に」
ロアが声をかけた女魔導師は、声の主人を見上げ答えた。すっかり憔悴しきった顔に陰りが見え、もとは美しい白色であったと思われる肌が、青銅のようだ。
ロアは金色の瞳を浮かべた双眸を悲しげに細め「外ですね。ありがとうございます。よく頑張りましたね——お名前は?」と女魔導師の肩へ優しく手を添えた。「エルシールと申します」
エルシールはロアの掌から身体の芯まで届くような温もりを感じ、思わず愛おしそうに聖霊の手の甲へ頬をあてた。「アウルクス様……」思わず言葉が溢れ、涙を流した。きっともう限界なのだ。支えを失った人間の心は枝よりも簡単に折れてしまう。
ロアは自分には与えられなかったと思っていた「心」という不確かなものを、理解し始めているのではないかと思う。それが、幾万、幾億と積み重ねられた記録が導きだしたものであったとしてもだ。だが——。
「エルシール。私を、あの天然ボケの胸ばかりが大きな魔導師と一緒にしないでください——」と、最初はムスッとしてみせたが、直ぐに笑みを浮かべ「もう大丈夫です。後は任せて、あなた方はゆっくり休んでください。暖かな食事に、睡眠が必要ですね」ロアは、二つのブロンドの束を揺らし「は、はい」とキョトンとした女魔導師に背を向けた。
「アダフ、ここは任せます。私はあのアホ魔導師が裏還したヴァノックの残骸をどうにかしてきます」とロアは近場に佇んだ白外套の男へそう声をかけ「アイネのことも気になりますし、さっさと済ませましょう」と、忽然と煙も残滓もなく、その場からスッと姿を消した。
※
「アオイドス様。選択肢は二つ」
アドルフの鼓膜を揺らした無機質ではあったが抑揚のある声に、我にかえると未だ眠りこけるような雪竜王の上にその姿を見つけた。後ろで二本に別けられ束ねられたブロンドと金色の瞳が特徴的な少女の姿を。
少女は片手を腰にあて、空いた片手の細枝の人差し指を突き立て「一つは、このまま放っておいて、この馬鹿な竜をもう一度屠る。完全ではありませんが、ご主人様の制御をうけていないので、私の手には負えません」と、まるで親の仇とでも云うように少女は雪竜王を「このッ、このッ!」と踏みつけた。
すっかり夜の明けた空。
そこへ広がった蒼く脈動するレジーヌの術式が逆光となり、少女がどんな顔で、そんなことをしているのかアドルフには判らなかったが、声の揺れからなのか苛立っているように感じられた。
「もう一つは、ヴァノックの力を戻せるだけ戻して、媒体となった変態王子を呼び還すか。今のうちでしたらお勧めは、こちらの案です」
少女は人差し指に並べ中の指をゆっくりと持ち上げると、今度はどうやら可愛らしく笑っているのではないかと、野伏には感じられた。
「ちょっと、そこのあなた! 巻き込まれるわよ!」
不遜にも雪竜王を踏みつけた少女に、それを叱りつけるではなく、最後には
その前に、そこへそのように、そうした少女の姿が忽然と現れたことへの疑問や言葉はないものかと、聞こえ良く云えば大雑把、感じ悪く云えばガサツな魔術師——本人は自身を眉目麗しい淑女だと憚らないが——をパッと見上げたアドルフは、レジーヌがいよいよダフロイトに散らばった魔物を、魔力の蝶で仕留め仕上げの動作に入ったことを確認した。
確かにこのままであれば、何度かの瞬きの後、魔力の光柱が
ならば、降ってきたレジーヌの言葉へ鼻を鳴らした少女だって、光に巻き込まれればブロンドの一本ほどは残したとしても消滅をするだろう。
アドルフはアオイドスの横顔へ急いで視線を投げた。
「そう。では迅速な判断が必要ねロア——」アオイドスはアドルフの視線に気付いてはいたが、それは拾わず、聖霊ロアへ不敵に云うと「その前に、一つ訊ねたいのだけど」と、準備が整った<大鉄鎖>の術式を踏みつけることを厭わず一歩前へ踏み出した。「あなたがお勧めの、変態王子ってどなた?」
「その訊ねようは心外ですね、アオイドス様。それではまるで私が変態をお勧めしているようではありませんか」どうにもこうにも心外である。と云った面持ちのロアであったが、このやりとりはどうやら彼女らの間では通常運転のようで、まるで「さあ、次はどう出るの?」とアオイドスの次の言葉を待つようであった。
「あら、違うの? 私の聞き間違えかしら?」時間がないはずでしょ? とアオイドスは急かすような口振りで答えたが「変態の扱いなら馴れている。そう聞こえたのだけれど」と、もう一歩前に足を伸ばし肩にかかった黒髪を振り払い、あくまでも余裕をみせた。
「……シラク村でのことを根に持っているのでしたら、ええっと……。そうそう、水に流してください」云ってみれば罵り合いにも思えた二人の会話に、何の意味があったのか。最後には雪竜王から吟遊詩人を、しげしげと見おろしたロアは、アオイドスが「それで?」と、鋭く続きを促すと肩を竦めた。いちいち判っていることを口に——音へ変換をしたがる人間の習性は無駄だろうとでも云いたげに。
しかし吟遊詩人の意思——言葉は空気を振るわせロアの中へ条件を突き立てる。少々歪曲されたものであるが、こんな風にだ。
——残された時間がないのであれば正確な答えを口にする。しかし、少しでも時間があるのであれば皮肉を織り混ぜ回答をする。そのいずれでもなく、状況を引き続き監視する必要があれば回答は差し控える。
「アークレイリ王国軍元帥、白竜騎士団団長アルベリク・シュナウトス・フォン・ベーン。シラク村でご主人様とイチャイチャしていたお姫様の兄です」
ロアは、そう答えた。どうやら幾許か猶予はあるようだ。
踏みしめる雪竜王を目掛け光壁の円環が狭まっていくのをロアは目視をしたが、空を見上げ魔術師——レジーヌが懸命に制御をする様子へ、うんうんと、かぶりを振ってみせた。「さあ、どうしますか?」
「お勧めの理由は」吟遊詩人は更に足を進めロアへ迫った。
「このままアルベリクが姿を消しては、リードランの均衡が崩れます」ロアは、この回答に至っては声を低く云った。それが言葉への重み付けだったかどうかは判らない。だが、ロアははっきりとリードランの均衡を口にした。それは彼女の本懐。そこに裏はないのだろう。「あくまでも、世界の均衡? 今のアッシュとは無関係?」
ええ、そうです。
聖霊ロアは瞳へ怪しげな輝きを孕ませ、そんなことを云いたげな顔をすると「時間がないのですよね? いずれにしても、このままヴァノックがそちらへ漏れ出たら問題ですよ? ご主人様もそれは望んでいないはず」と、時折覗かせた悪戯な表情をしまいこんだ。
「珍しく——」それにアオイドスはもう一歩前で踏み出すと、アドルフとショーンへ軽く視線をおくり「——自信なさげね」とロアへ顔を戻した。
※
アドルフは思い当たる節があった。ロアが見せた翳りについてだ。
<大崩壊>が起こる少し前、ルエガー大農園へ立ち寄ったことがあったのだ。
そこでの出来事を思いだしていた。
半ば脅しをかけるよう、とある要求を農園の主人に呑ませる決定打となったアオイドスが口にした「私が知っていることの殆どが半歩横にずれている」という言葉。
それに、大農園の主人、つまりトルステンは「それであれば、もう関係のないアドルフを解放してあげないか」とアオイドスに迫ったのだが、吟遊詩人は「それならば、大木様を放棄しなさい」と、あのトルステンをやりこんだ。
この話の後ろ半分は、アドルフにとっては今でも不思議に思う部分であるが、おそらくアオイドスがアドルフを護るために云ったことだったように思う。そしてロアの翳りの正体は、この話の前半分「半歩横にずれている」という部分だろう。
※
「ワールドレコードには記載されていません」ロアは、十中八九アドルフの思い当たる節が導くよう表情暗く答えた。
アオイドス曰く、聖霊達はいってみれば予め準備をされた台本通りにことが進むかどうかを管理する進行役。
しかし、それは一本道ではない。
可能性と呼ばれる因子によって、運命と呼ばれるものは数多くの枝先へ「結果」という果実を実らせるが故に、「どの結果で成立したか」を、彼女たちは記録をするのだそうだ。そして、いまロアが口にした「記載されていない」というのは「結果」が準備されていなかったことを意味する。
つまり「半歩横にずれている」ということは聖霊にとってはあり得ないことであり、修復をする必要がある。<外環の狩人>がリードランへ降り立つ際に生じる多少の歪み程度の話ではない。と、云うことなのだろう。
「そう」アオイドスは、予想通りの回答を得たと云わんばかりに準備をした<大鉄鎖>の術式を完成させようと、最後の一振りをした。「復活したアルベリクが敵対する可能性は?」
「可能性? いいえ、アオイドス様。それは確定事項です。頑張ってください」
ロアは、どうも晴々とした顔で答えると同時に吟遊詩人が「やってちょうだい」と口にしたのを確認をした。ロアの晴々とした顔は、これで余計な仕事から解放される喜びを滲ませたのか、ともすれば、次の仕事にさっさと取り掛かりたいということだったのかもしれない。
「ちょっと! もう限界! 絞るわよ!」空から、辛抱も限界とばかりにレジーヌの声が降ってきた。
「では、アルベリクの世界因子を復旧します」ロアが放った言葉は、アドルフ、ショーン、ライラの三人には届かなかった。なにせ、レジーヌが光の壁を雪竜王へ集約する動作を見せると、そこらじゅうから魔力の蝶が猛烈な早さで集まり渦を巻き、随分と大きな羽音の塊をつくり雪竜王を埋め尽くしたからだ。
※
「おい! 先生! 何がどうなった? 二又が巻き込まれるぞ! あの娘はなんなんだ?」
混迷を極めた状況へ露骨に慌て、ひどく大きな声を挙げたのはショーン・モロウであった。それも当然だ。彼はクレイトンの惨状のなか、この大魔術がもたらした効果を目の当たりにしている。
「大丈夫よ……それに『二又』ってあなた……もっと他に云いかたがあるでしょ?」と、アオイドスは苦笑をすると語彙の足らない戦士へ答えを続けた。「……あれは聖霊ロア。そう、その聖霊族の女王。アッシュ・グラントがリードランの調和を管理するために創造をした四つの機能のうちの一つ。彼女がリードランで傷付くことはないの。そうね、どちらかと云えば
大量の魔力の蝶は雪竜王の身体へ貼り付くと羽を閉じ、次には蒼い小花の群生のような様子を見せた。もちろん、不遜に雪竜王の上で仁王立ちをした聖霊ロアも群生に呑まれ姿が見えない。
※
「もう駄目!」
再びレジーヌの苦悶の声が空から降ってきた。
アドルフがもう一度彼女を見上げた頃にレジーヌは抵抗を試みるよう杖を振るい、そして振り切ると辺り一面が激しく白く輝く光に呑まれた。最後には雪竜王が居座った場から光柱が天空へ昇り、酷く耳障で甲高い金属音が軌跡を追いかけた。
アドルフにショーン、ライラの三人は思わず耳を塞ぎその場に蹲ってしまう。上空のレージヌは力無くぐったりと、ゆっくりと、できるだけ上品に降下をした。
レジーヌの算段としては、この偉業を成し遂げた自分をアドルフが、両腕に迎え「凄いですね」「お疲れ様です」などと労いの言葉をかけるのだろう。
そう思ったのだ。
そしてハッとした。なぜ自分はそんなことを考えているのだろうかと顔を顰めた。それではまるで自分が、アドルフのため、必死になったようではないか。
思い返してみれば、この事態は随分と軽薄に首を突っ込んだ結果だとは判っている。だが、そもそもだ。レジーヌ自身がなぜリードランへ足を踏み入れるようになったのか? その動機は今となっては、もやもやとした霧の向こうで、アドルフを追いかけるように足を踏み入れたのだろうと、朧げにしか想い出せない。
そして、もう一度その想いへ触れようと思考の触手を胸中へ伸ばした。その時だった。激しい頭痛に襲われ吐き気を覚えた。苦しみ踠くように身体を縮めたレジーヌは助けを求めアドルフの姿を探した。
収束をしてゆく光柱の影の中に雪竜王ヴァノックの姿はなかった。
音もなかった。
遠くから未だ響く戦禍の狂奏曲は壁を一枚隔てた向こうから聴こえるように感じる。これは光柱が挙げた耳障りな金属音の影響だろう。
そう想いたかった。
レジーヌの目に飛び込んだのは、白銀の甲冑に身を包んだ赤毛の騎士がアドルフの右肩へ剣を突き立てた姿だった。レジーヌを襲った頭痛は、苦痛に歪んだ野伏の顔を見つけると今度は全身を駆け巡り、次にはアドルフの背後に沈んだ白の吟遊詩人の姿を捉えると、身体の自由を奪った。
辛うじて視線を巡らせれば、不敵で無敵であった双剣士は瓦礫の中へ身体を放り出し仰向けになりピクリとも動いていない。肌の露出が気になる女剣術士は片膝を落とし、剣を折られていた。そして、忽然と姿を現し雪竜王を踏みつけた娘の姿はなかった。
レジーヌの聴覚をおかしくしたのは不意に訪れた絶望だった。
背中に硬い感触を覚えたレジーヌは、それほど衝撃を受けずに地表へ戻ったことを知った。だが四肢に力が伝わらない。殆どの体力を魔力へ変換をしたし、魔術師を襲った謎の頭痛が身体の自由を奪っているからだ。
※
「女。お前が放った魔術は我が軍を討ったのか? 答えろ」
レジーヌの視界へ白銀の
「ちょっと。あなた一体誰なのよ?」レジーヌは、そう云うと薄らと皮肉に笑いを浮かべ「それに——なんで皆仲良く寝っ転がってるのよ。私、ピンチじゃない」と乾いた笑いを小さく漏らした。