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最終話——やさしく歌って②




 ——クルロス王城・大聖堂。


 魔導大国フォーセットへ従属する前のベルガルキー王国。その建国に纏わる創世記は大草原を焼き払うように駆けた鬼火を巫女が抱くことから始まる。爛れた巫女の皮が焼け野原を覆い尽くすと、それは肥沃な大地となり流された血は川をなし、そして宙に霧散した命は風となった。


 アッシュ・グラントは、大聖堂まで押し寄せてきた黒煙——大聖堂の麓では王城が盛大に燃え盛っている——に、創世記の一部を照らし合わせるとエステルを護るよう外套で包み込み、かぶりを巡らせた。この女はお前たちの巫女ではない。まるで、そう云うようにだ。「クルロスの狂い火。お前たちの巫女はもういないんだ」


 アッシュは、この光景——創世記を彷彿させる——を目にしたことがある。

 正確には目にしたという事実を知っている。

 他人行儀なもの云いだが、そうなのだ。だから溢した言葉もそうだった。そこはかとなく無味乾燥で、事実を延べているだけ。そこに感傷は介在しない。あくまでも、この光景を照らし合わせ、これはそれに類似する事象であると淡々にだ。


 エステルは平坦なアッシュの声音に幾許か顔をしかめ、アッシュに身体を預けた。「これから、どうするの?」


「メリッサを追って——」

「追って?」

 エステルがアッシュに答えを求める間も、慎重に足を進めた二人は、先ほど陽炎の向こうで崩れ落ちた影——アレクシスの姿を発見した。エステルはアッシュが口を開くのを差し置き、外套から出ると、力なく横たわる<色欲>の傍へ跪き彼女の頬を掌で優しく覆った。


 アレクシスが持ちかけた決死の駆け引き。

 それは彼女の欲望を満たすためのものであったし、エステルを助けようなどと云う酔狂な話でもなかった。だがそれでも、その駆け引きが偶々、悪戯に準備された選択肢であったにせよ、それを選択したアレクシスにエステルは感謝の念を抱いている。そして——かつて命を狙われ蔑みの言葉を吐き付けてきた相手にせよ——その駆け引きは対等であるべきだったし、実際に対等だった。だから、この結末は対等とは云えない。これでは一人勝ち。もっともアレクシスが、これを望んでいたのであれば別だが、そうではないだろう。「ありがとう、アレクシス——ねえ、アッシュ——」


「判っている」アッシュは自分を見上げたエステルに視線を落とすと、再び外套でエステルを覆った。<大崩壊>の少し前。ダフロイト警備隊本部で、<憤怒>の放った<魔力の奔流>からエステルを護ったアッシュの姿をエステルは思い出すと、クスりと笑った「あの時は魔術だったけど」


「ん?」アッシュは、それに不思議そうな声を漏らしたが、エステルは悪戯に笑い「なんでもない」と返すだけだった。

 きっとあの時のことは、このアッシュは覚えていない——いや事実はきっと把握しているのだろう。だから、アッシュに答えてしまえば、あの瞬間に抱いたエステルの淡い気持ちも想い出——と云うには残酷なものだが——も、アッシュの言葉と共に乾いた記録になってしまうのだろう。まるで時系列に記された議事録のように。エステルはそう思うと、自分が漏らした笑みの意味をアッシュには伝えなかった。「彼女——アレクシスを助けることはできるの?」


「大丈夫。アレクシスはメリッサの全てを観たくて、その可能性に賭けた。全てを観るには——些か許容量が足りなく、このザマだけれどな」アッシュはそう云うと、ソフィ——ギャスパルの妹にそうしたようアレクシスの胸部へ掌をあて、ぶつくさと何やら口にすると掌を赤く輝かせた。


 正直なところエステルはアッシュの答えを理解することはできなかった。きっとアッシュの答えは<外環>の理であって、エステルたちのそれではない。だから到底想像すらできない。

 エステルは、そう想うと寂しそうな顔をしたが、聞き覚えのある艶かしい吐息が聞こえると、アレクシスへ視線を落とした。「アレクシス?」



「そう——やはり、これは準備されていた。と、云うことね。アッシュ・グラント。いつから? ガライエから? あの警備隊長があなたを連れて行ったとき? それとも、この質問も意味を成さないのかしら?」瞼を開けたアレクシスはエステルへ小さく頷き、頬へ差し伸べられた手を取りアッシュを一瞥した。これに驚きの顔を見せたエステルは爛々と輝く赤瞳をアレクシスに寄せ彼女の目を覗き込んだ。


 紺碧の瞳がそこにはあった。


 <七つの獣>は例外を除き、総じて赤黒の蛇目を双眸に浮かべている。先程までのアレクシスもそうだった。だがしかし、エステルが覗き込んだ顔に浮かんだのは紺碧の瞳だったのだ。<七つの獣>の一人だと云われたミラも赤黒の蛇目は持っていなかった。そう——ミラは例外の一人だった。「アレクシス、瞳が」

 アレクシスは片目を手で覆い消え入るよう「そう……」と云うと、気怠そうに身体をもたげた。そして、気怠さを振り払うようかぶりを巡らせたアレクシスは、何も答えるのことのないアッシュの顔を一瞥したのを最後に、険しい顔を見せた。「時間がないのではなくて?」



 白亜の大聖堂は先のアッシュとメリッサの闘いの爪痕を露わにしていた。それは爪痕というには、あまりにも大きく、闘いの激しさを物語っている。そして、それが常軌を逸した闘いであったことも。


 <外環の狩人>同士の闘いだと片付けるには、あまりにも不自然に鋭利な刃物で切り取ったような壁面の抉れ。木っ端微塵となった調度品に大柱。足元を揺蕩う灰色の煙。どれにも魔力の余韻も魔術の硝煙の臭いも感じない。まるで、アッシュとメリッサが放った力と力の衝突は、この世のどこでもない、だけれどその場で引き起こされた幻影の残滓とでもいうようだ。ただ一つ現実的なのは迫り来る黒煙が漂わせた炭を喉に押し込むような重々しい空気だった。そして、黒煙は直ぐそこまでやってきている。今や荘厳な大聖堂は禍々しい黒煙に満たされる寸前だ。





 ※





 アッシュは、とうとうアレクシスの問いに答えることはなかった。

 そして、甚だ横暴に「エステルを護れ。それがお前を生かす条件だ」と云ったのだ。アレクシスはそれに「判っている」と短く答え「メリッサを追うのでしょ?」と、まだ原型を留めた主祭壇裏へ歩みを進めた。先程まで、ボロを纏ったようであったアレクシスは、すっかりとガライエ砦で目にした妖艶で艶かしい黒の出立ちを取り戻し、エステルとアッシュの先を行く後ろ姿はどことなく気品高くさえ見えた。それに、エステルは、最初は小さく笑っているようだったが、直ぐに眉間へ皺を寄せアッシュを睨みつけた。「どういうことか話してね」



 主祭壇の裏側は、もう何年も手入れをされていないのだろうか煤が溜まり、その上には灰黒色の埃が堆積していた。その先に続く通路も同じだったが、そこには小さな足跡が点々と奥へ続いていた。アレクシスは、それを見ると小さく誰かの名前を口にした。きっとメリッサの名だろう。


 エステルはアッシュの後ろを恐る恐る歩いていた。

 足元が覚束ず祭壇に手をかけると、堆積した埃がボロボロと落ち始め、それが呼水となったのか身体三つ分はある祭壇の背中から埃の塊が音をたて崩れ落ちた。アッシュは咄嗟にエステルを庇い、埃の塊を振り払うと「気を付けろ」とだけ短く云ったが、声音には暖かさがあったし特に怒っている様子もなかった。エステルは、それに「ごめん」と短く返しアッシュにしがみついた。


「お腹に子が居るのだから気をつけなさい——」それを肩越しに眺めたアレクシスは紺碧の瞳をエステルと祭壇の裏に姿を現した何かを見比べた。「——アウルクスの前では特にね」

 埃の塊が崩れると煤も一緒に剥ぎ落としたようで、祭壇の裏に彫られた大魔導師アウルクスが姿を現したのだ。それは、幾つかあるアウルクスの萬話の一つで、草原の鬼火を抱いた巫女の願いを聞き届け肥沃な大地へ種子を蒔く姿だった。

 何度か行き来したアレクシスの視線にエステルは申し訳なさそうに「ありがとう」と困惑の色を浮かべながら返した。

 アッシュが施した何かで、アレクシスは様変わりしたのだろうか。それともこれが本来の彼女なのか。いずれにしても、皮肉混じりにエステルを気遣う吸血鬼の始祖に違和感しか湧かないのだ。今、アレクシスが口にした皮肉。それはアウルクスが婚姻と出産も司る魔導師であること含ませてのものだろう。これまでのアレクシスであれば、もっと辛辣な皮肉——心を抉るように矛先を向けた筈なのだ。だから、エステルは礼を口にはしたが、アッシュに目を向け無言で説明を求めた。


「これが——そうね本来の私よ。赤毛のお姫様」アッシュへの無言の問に返したのはアレクシスだった。「私はアッシュ・グラントを追い詰めるため、メリッサに産み出された吸血鬼の始祖。でも、私にも過去はあった。アッシュの元型が根本にあったけれど、私は私という個を持っていた。それを引き戻したのは他ならない、そこの鴉。そうするには私がメリッサへの妄執を捨てる必要があったのよ。私は、彼女の一部を垣間見て——そう、彼女のか細い首へ牙を立てて絶望した。彼女と——」


「アレクシス——」魔力の光源を幾つか浮かべ、先を歩くアレクシスの言葉をアッシュが遮った。「——そろそろじゃないのか?」

 エステルは、それに怪訝な表情を浮かべたが、ハッと何かを想い出したか表情を忙しく変えると「アッシュ。これからどうするのか、ちゃんと説明をして」と足を止めた。アッシュは、ぎゅっと内から掴まれた外套に引っ張られ「おい」と苦情めいた言葉を云ったが素直に赤毛の姫に調子を合わせた。つまり、足を止めたのだ。アレクシスは、それに両眉を下げると肩を竦め、同じように足を止め二人を眺めた。


 通路は登ったり下ったりを繰り返すうちに手入れされた壁から、いつの間にか、ゴツゴツとした岩肌の壁へと様変わりをしていた。湿気を含んだ空気が奥から小さく噴いてきている。それに合わせ魔力の光源が宙でゆらゆらとした。その度にゴツゴツとした岩肌が、どれほど荒々しい姿なのかも露わにしながら三人の影を奇妙に踊らせた。


 アッシュは、まじまじとエステルの赤瞳へ視線を落とすと、赤黒の蛇目を輝かせ、そしてゆっくりと瞼を下ろした。





 ※





 アッシュが瞼を下ろし想い返したのは、サタナキアの地下大空洞で迷い込んだ異空間でのことだった——。

 アッシュ・グラント、いや、乃木無人なきとの父、乃木希次まれつぐが残した父の情報体——<希次の残滓>が実行した最後の命令。つまり、希次が無人なきとへ残したメッセージを伝えると云う使命。<希次の残滓>はそれを終えれば、アッシュの選択に合わせメリッサが流し込んだ<憤怒>を縛る封印となると云った。それが<希次の残滓>の最後の仕事だった。



 希次からのメッセージはこうだった。



『——無人。このメッセージを耳にすることが出来たなら、それは世界の流転に綻びが生じた証。それは我々の世界からか、もしくは対をなす世界から穿たれた穴——つまり時間と光の向こう側から情報体が漏れ出た結果、お前は鏡像世界の狭間へ訪れている。

 そこは時間の始まりと終わりが収束した領域であり、あらゆる事象——アトラクターが閉じていない状態だ。素粒子の揺らぎが振る舞いを持たない領域。つまり、事象の結論が観測されていない状態。バタフライエフェクトが引き起こす可能性の坩堝。これから観測されるべき過去であり未来が澱み溜まった掃き溜めだ。<贋作>へお前が型を与える前の状態に近い。


 本当であれば、俺がその領域へ到達をしたかった。

 このくだらない呪われた円環からお前を解放するためだ。


 そのためのチェンバーズと仮想世界構築計画だったが、寿子は西方教会の源流が有史以前よりドルイドたちから簒奪し、十二の聖人へ刻んだ万物の設計図<世界図録>の存在に魅入られてしまった。これは、フラクタルも一緒だ。寿子は科学者としての探究のため、フラクタルは超常の兵器となりうる<聖遺物>——核とは別の進化を遂げる筈であった魔力が溢れた時代の兵器を現代へ顕現するため、お前の身体の奪取と、現実世界と座標関係を同じくした仮想世界の構築に乗り出した。お前の身体を通じ仮想世界から現実世界へ<聖遺物>、いや、生命そのものを引っ張りだすためだ。

 話を戻そう。

 無人なきと

 そこへ踏み込めたお前なら綻びが何であるかも知っているはずだ。

 お前がやるべきことは、俺たち乃木の呪いの踏襲じゃあない。掃き溜めから可能性を拾いあげ忌々しい呪いを断ち切り、綻びにそれを観測させること。新しい理を築くこと。

 だが、お前がここへ踏み込むまで、どんなに苦い経験をしたのか、それとも幸せを掴んだのかは俺には判らない。だからお前には選ぶ権利がある。俺と寿子が良き親である世界でも、お前が苦難の末に掴んだものを選ぶ世界でも。世界を壊したっていい。それが俺たちの本分だからな。つまり、なんでもだ。そう。なんでもだ。

 しかしだ。導ける結果は一つ。

 そうでなければ、この呪いは再び円環を描き、お前と<帆船>は苦難を繰り返し……遂に<帆船>は狂ってしまうだろう。そうなってしまえば鏡像世界は、消失し、残された世界は非常に不安定な状況へ陥ってしまい、同じく消失するだろう』



 <希次の残滓>が語った父のメッセージ。

 それを受け取ったアッシュ・グラント——乃木無人なきとは、幾つかの事象を組み替え、残された未来と呼ばれるべき事象の全てを破棄した。これに<希次の残滓>は酷く狼狽し「本当にこれで良いのか?」と、真意を問いただした。



「葵さんとミラには悪いけれども——父さんが云っていた鏡像世界の消失はもう起きている。例え元に戻したとしてもきっと向こうの僕は彼女たちにまた同じことをさせることになる。そうなってしまえば、やっぱり同じことだし、世界が消失しかねない。そうだよね?」狼狽の色を隠すことのない眼鏡の男——<希次の残滓>は、無人なきとの答えに「確かにな」と相槌を打った。「あくまでも、ここで触れるのは、こちらの世界の事象だからな」<希次の残滓>はそう云うとクイっと眼鏡を小さく押し上げて見せた。


「それに——」

「それに?」

「メリッサも、このままでは不憫すぎるよ」

「お前、この期に及んで何を——」

「ねえ、父さん」

「ん?」

「僕たちの世界と対を成した世界なんだけど」

「ああ」

「こちらが正常化すれば元通りに?」

「メリッサが力を放棄しなければ——帆船は海を渡って種を蒔くだろうさ」

「そっか——じゃあさ……」


 <希次の残滓>が思い至った無人なきとの真意。

 それは、残滓であったとしても父であった頃の感情を揺さぶり、息子に背負わせてしまった運命の過酷さを悔いさせるものだった。遂には<希次の残滓>は両膝を折ると涙を溢し、声にならぬ声で嗚咽を漏らした。

 かたや乃木無人なきとは、自ら決心をすることで、ぽっかりと開いてしまった虚な胸の内に、本当にこれで良いのかと疑念を抱いた。胸中を騒がせるのは、言葉にすることの難しい虚な気持ちだった。そして、遂に始まった事象改変の様相を目にした無人なきとは、虚な気持ちに押し潰される寸前で彼女の声を耳にしたのだ。


 それは、エステルの声だった。


「帰ったらあなたの好きな料理を教えなさい! 私はそれを作ってみたいわ!」





 ※





 アッシュは赤黒く輝く蛇目を開いた。

 そして、純粋で情熱を体現した——赤黒とは正反対な——エステルの赤瞳と視線を絡めた。だが、エステルの赤瞳には一抹の不安が色を浮き立たせているのも確かだった。アッシュの赤黒は更に澱みを増したように見えたからだ。


「俺が造った仮初めを現実のものにする。安心してくれエステル。みんな一緒だ。あの穏やかな日常は戻ってくる。エステルの料理も、全部だ——そうだ、望むもの全部」アッシュは静かにそう云うと、優しくエステルを包み込み最後に少しばかり強く抱きしめた。


 エステルはアッシュに身体を預けた。

 アッシュの身体が気が付かないほどに震えているのが判った。あの時と同じだった。王都フロンの宿屋で身体を重ねたあの日。過去が追いかけてくるとアッシュが震え怯えたあの日。エステルが大丈夫だとアッシュの唇を塞いだ日。あの日と同じだった。

 アッシュは未だ何かに怯えているのではないだろうか。

 それとも、口にした傲慢に嫌悪を抱いているのか。

 自ら決した意に慄き、その一歩を踏み出すことが正しいのかさえ判らない。それでも——初めて小さな牙を剥き、我を通そうと我を忘れた子供のように小さく震えている。

 押し通る理由はいつだってその子にとっては正当な理由なのだ。だからきっと、アッシュは既にのだ。

 エステルは預けた身体に、そんな感情を察すると、静かにか細い手をスルりとアッシュの首元へ沿わせ、そして頬を包んだ。「——判ったよ。でも、約束して。その結末に、あなたは私の横に立っているって。食卓を皆んなで囲うの。いい?」



「二人とも、もう良くて?」

 どうだろう。アレクシスはエステルの問いにアッシュが答えを出す前に水を差した。

 それが意図的だったのかどうかは、判らない。だがそう云う間に歩みを進めた三人は、ほどなく見慣れない石扉の前にまでやってきた。そして今まさにアレクシスの手はゴツゴツとした岩肌に埋め込まれた両開きの石扉へあてられ押し開かれようとしていた。





 ※





 ゴゴゴゴゴ——。

 どこか引っ掛かりの音を盛大に響かせながら石の両扉が開かれた。サタナキアの地下大空洞前の大扉ほどの大きさはないものの、それでも人の背を越える高さの石扉が押し開かれる様子は、どこか厳かしく神秘的にも感じる。開かれた先に広がる光景が更にその感を強く印象付けた。

 ゴツゴツとした岩肌がどこまでも闇に続いている。

 足元には細やかな筋が走り、蒼や緑の輝きが脈を打ちながら、とある場所を目掛け収束をしている。その、とある場所とはサタナキアの地下大空洞でも目にした大祭壇と同じものであった。白亜の大祭壇の背は見上げても終わりが見えない闇に呑まれてはいるが、足元の細やかな筋と同じ筋に朱の輝きを見せている。そして朱の輝きは頭上の闇から脈打ちながら流れ落ち大祭壇へと収束していく——まるで体内を縦横無尽に駆け巡る血流のように。


「これは」アレクシスは蒼や緑の輝きに煽られ、遠くに朱の輝きを目にすると絶句するように言葉を漏らした。


「サタナキアの<世界の焔>と同じものだ——」アッシュは、それまで大切に外套の内へ連れたエステルを優しく外へ出すとアレクシスへ預けるよう背中を軽く押した。「——アレクシスの傍から離れないで待っていてくれ」




「裏切り者の始祖に私の男を寝とったネイティブ。どちらも、人間ですらない。わたし惨めよね、無人。そうは思わない?」

 蒼と緑、朱が収束した大祭壇から、静かで透き通る声が聞こえた。

 声の主は大祭壇へ腰を掛け両足をぶらぶらとさせていたが、姿を現した三人を目にすると、そう云って猫のようにヒョイと祭壇から足を下ろした。

 少し蒼みがかった白銀の髪がフワリと膨らんだ。

 美しい白銀の髪は綺麗な弧を描きなながら声の主人の背へ戻っていくと、最後に毛先を柔らかく上に揺し、あるべきところへ戻った。そして、主人はゆっくりと両瞼を開き、猫のような愛くるしい双眸へ神秘的で冷たい碧眼を浮かべ、三人を出迎えた。

 まるで、その様子は祭壇へ訪れた信者を迎えた穢れを知らない巫女。

 だが、それは違う。

 そこに居るのは、これまで狡賢くあらゆる命運の糸を弄んだ無邪気な少女。メリッサ・アーカムだ。



「どうだろうな、メリッサ。とにかく、子供の火遊びはここまでだ」足を進めるアッシュに付き従おうとしたアレクシスとエステルを片腕で制したアッシュは、いつの間にかに呼び出した黒鋼の両手剣を肩へ担いでいた。


 メリッサはアッシュの答えを愉しむよう小さく笑みを溢し大祭壇をゆっくりと降り始めていた。先の大聖堂での闘いが嘘だったかように、清廉純白なチュニックの裾を揺らしている——造り物のような白くか細い指で太腿あたりの布地をつまんで裾を踏んでしまわないように。そして、階段を降り切る頃には——その表情は、冷ややかで三人を見る瞳は冷めていた。

 とてもではないが、敬意を微塵も感じることのない——侮蔑の表情。

 それが、メリッサの顔に浮かんでいた。


「大人は何時いつだって、そう云うの。そして結局わたしを助けてはくれない——こうやって裏切る。それで私は惨めな思いをする。だから自分で手に入れようとしたのよ。どんな手を使ってでもね。それのどこが悪いと云うの? ことが済んでしまえば皆んな、それを覚えていないのだから良いじゃない。私が覚えていれば——知ることができれば、それで。無人なきとも同じことを考えているのでしょ? でも、それは間違ったやり方。最後にこのことを覚えていられるのは私だけ。無人なきとは馬鹿みたいに忘れるから、エステルのことは忘れちゃう。だから結局、私の元へ帰ってくるの。そうじゃないの?」メリッサは、言葉の最後でアッシュを小馬鹿にするよう口を三日月に歪め、くるりと踵を返すと降りてきた階段を数段だけ戻り、そこへ腰かけた。


 アッシュは黒鋼を構えるだけで、メリッサの言葉に耳を貸している様子はない。


 エステルは、このやりとりをアッシュの背後から見守ったわけだが、話の全貌は勿論、理解が及ばない。隣に視線をやればアレクシスもそんな様子を見せているが、かの吸血鬼の始祖は幾分か悟っているものはあるようだ。結局のところ、無人なきとと聞こえる言葉はアッシュを示す記号なのだろうか。<宵闇の鴉>と意味を同じくするのだろうか。

 本来、エステルたちリードラン人は<外環の狩人>が発する固有の言葉を耳にし理解することはできない。耳にしたとしても、それは小さな雷鳴なのか麻の布袋に入った豆たちが鳴らす音なのか、何かもっと形容し難い音となって飛び込んでくる。だが、大聖堂で目を醒ましてからは、狩人の言葉の輪郭は判るようになっていた。つまり、音としては正確に耳にできたのだ。だから、こうやって言葉の意味は判らなくとも推察はできる。

 だとすれば、今メリッサが口にしたことは聞き捨てならないものだった。これからアッシュが取る行動は間違っていて、そしてエステルを忘れてしまう。


 アレクシスはエステルの視線を感じると、赤毛の姫が想像したことを察したのか、軽く肩へ手を置き「大丈夫」と、一言だけ声をかけた。



「沈黙は肯定の証。お父様はよく、そう云っていたわ。あの男はそうやって私の身体を弄んだの。自分の手で殺めたお母様の姿を私に重ねて——欲望の限りにね」膝に頬杖をついたメリッサは、目を細めた。


「それは、お前がそう仕向けた。そうだろ?」アッシュは冷ややかに、それへ返した。


「酷いことを云うね無人なきと


「クロフォードはお前の病を取り除くことに心血を注いだ。禁忌も犯した。お前の母も、それに手を貸した。だが、事故は起きてしまった。そして、全てを知るお前はクロフォードが心を折る寸前で手を差し伸べた。歪んだ方法でな。そうだ、お前の身体を蝕むものは病ではなく全てを知る力の代償。俺とお前が忌むべき力の象徴。お前は、それを隠し、心身ともに消失しかけたクロフォードを懐柔した。あの男は、歳は取っていたが、あまりにも子供だった。いや、子供のまま英雄だと祀り上げられ薄汚い思惑に気付くことのできない、力を振るうだけの子供のままだった。よっぽど、お前の方が大人だ」


 白亜の大祭壇から伸びる階段は、途中から無骨な岩肌へと奇妙に姿を変えている。メリッサはその無骨な岩肌の段へ腰をかけていたが、アッシュの言葉に目を見開くと「それを判っていて、ここまで私を追い詰めたの? 私は純潔すら差し出したと云うのに」と、悪戯に笑ってみせた。


「お前が差し出したものは、お前が望む物の代償としては——どうだろうな、全てを塗り変えると云うならば、どうでも良いものだった。俺がリードランで世界を上書きしてしまえば、このイカれた呪いからも解放される。すっかり全部忘れて最初からやり直せる。そう思ったのだろ? ——」アッシュは、黒鋼の切先をメリッサへ向けた。「——だが、俺たちの呪いは俺たちが存在する限り終わらない。リードランで世界を書き換えたとしても、お前は再び記憶を呼び醒まし、俺は阿呆にも全てを忘れて世界へ戻って来る。辛い想いをするのは、お前だけだ。だから……」アッシュは最後に何かを口にした。それは、後ろの二人——エステルとアレクシス——には聞き取れない程か細く尻切れになった。だが、冷ややかな碧眼で黒鋼の切先の奥へ焦点を合わせたメリッサだけは愕然としたのか、それとも嬉々としたのか、複雑な面持ちを浮かべていた。きっと唇を読んだのだろう。



「アオイドスがやってきてから世界を見通せなくなった。いいえ、見通す未来に過去、みんなマーブル模様のように重なって、何が本当のことなのか判らなくなった。どの聖人の記憶、宇宙線、ネットワークの海も全部あやふや。でも、それはアオイドスのせいではなく——」

 メリッサは、そこまで口にし足を階段へ投げ出した。

 そしてゆらりと立ち上がり、いつの間にか手にした錫杖を突き出すと、アッシュの黒鋼へ軽く合わせた。「ははは……そう、そう云うことなんだね。だから私がいくら<世界図録>を覗いても何もできなかった。だって、この世界は無人なきとが欲しいと望んだものを手にする世界。そうなのでしょ? そのためには、無人なきとの身体は無人なきとも必要だと云うことなんだね。だからあなたのお母様に奪取させようとした」



「そうだ。アオイドスたちが穿った世界の穴が、一度だけ世界の可能性を組み替える機会を作った。そこで俺は俺の未来を決め、アオイドスとミラに観測者の役割を与え、未来を選ぶ準備をした。俺が絶望の淵で世界を壊さなくても良い世界。乃木の一族がこの呪いを背負わされる前はインカのなんとかってのが、同じことをしたそうだ——」アッシュは黒外套をひるがえし合わされた錫杖に黒鋼を沿わせ一歩前へ踏み出した。「——メリッサ。もう良いだろう。これで俺たちの呪われた円環は断ち切れる。もう苦しまなくて良いんだ。後は俺に任せろ。お前の願いはかなえてやる」



「え? アッシュ、何を云っているの?」エステルはアッシュの言葉に目を大きく見開いた。今、アッシュは何を云ったのか? 聞き間違いではないのか? エステルはアレクシスの横で膝を震わせ、堪らずアレクシスの腕を取った。

「アッシュ……グラント?」アレクシスも同じだった。メリッサの首筋へ牙を立て、流れ込んだ<白銀の魔女>の記憶が脳裏を駆け巡り、そしてメリッサの望んだ全てがアレクシスの頭の中を激しく撃ちつけたのだ。アッシュの言葉が額面通りなのであれば、エステルを守るという誓約はどこまでのことなのか。



「インカ? マチュピチュのことを云っているの? まさか、ウェッジ鉱石って——」メリッサは黒鋼を強く叩きつけ一歩後ろへ飛び退いた。階段を一歩昇りそして、白銀の頭を掻きむしり俯いた。「——そっか。それも無人なきとが……。そっか。でも、それでも無人なきとの身体を苗床に世界の質量へ変化を与えるには私の設計図が必要。<帆船>の私だけが組み上げられる設計図。無人なきとに依存した私だけが創れる設計図。それが必要だったから、私に望みを与えた。そうなのね?」

 メリッサは、そこまでを一息に鋭く云い放つと顔を振り上げ顔を酷く歪め、髪を振り乱すと一気にアッシュへと跳びかかった。「——答えてよ無人なきと。ねえ無人なきと!」





 ※




 白亜の大祭壇を背にした清廉然とした<白銀の魔女>は鈍く黄金の輝きを放つ錫杖で、眼下へ迫った黒の悪魔を打ち据えるようだった。

 それを受ける<宵闇の鴉>は朱の魔力を撒き散らし、黒外套の裾を大きく揺らし、黒鋼の両手剣で<白銀の魔女>の猛攻をいなし、そして祭壇への階段を一歩、一歩、一歩と昇っていく。

 白銀と黄金の軌跡が激しく流れるよう、幾重にも筋を描いた。

 その度に赤黒の閃光があちこちで爆ぜる。

 <白銀の魔女>は、何度も祈りの言葉を口にし迫り来る悪魔を打ち据えるが、祈りの言葉は赤黒が爆ぜる音に掻き消され、誰に届くわけでもなく地に堕とされた。


「この悪魔!」遂に大祭壇を背にしたメリッサは、声を荒げると素早く錫杖を横薙ぎに振るった。錫杖はそれに合わせ、大聖堂で見せた禍々しい十二の黒縄に姿を変えると、縦横無尽にアッシュへ襲いかかった。


「そうだな。俺は悪魔なのかも知れない。でもどうだろうな。俺は誰にとっての悪魔で、誰にとっての英雄で、誰にとっての王なんだ? 誰かの望みをかなえない俺は悪魔で、誰かの都合に合わせ振る舞う俺は英雄で、誰かが手にすることのできない希望を与えるのが王ということなのか? それは詭弁だ。お前もそれを判っているのだろ? いや、お前こそ、その歴史を知っている。だからもう、これ以上そんなものを知る必要はない」

 大聖堂での闘い。あれは、アッシュは己が目的のために手を抜いていた。メリッサは、それをアッシュの言葉の中に感じていた。

 アッシュが放つ一句一句ごとに斬り跳ばされる黒縄。

 それはまさにメリッサの心が打ち崩された破片に見えた。

 そして、もう駄目だ——敵わない。そう心を折った。最後にアッシュへ襲いかかった黒縄が、アッシュの言葉と共に斬り跳ばされたのだ。メリッサは、その様を目にすると猫目の双眸へ絶望の色を浮かべ大祭壇へ、へなへなと寄りかかり、その場へ座り込んだ。

 まるで、その姿は、悪さをした子供が父親に叱られ、最後には自分の過ちに気が付き膝を折ったようにも見えた。そして——メリッサは顔をあげアッシュの顔を弱々しく見た——過ちは、目の前のこの男が全て赦してくれる。そうメリッサは思った。しかし、すぐさま弱々しい表情は険しく変わり、アッシュを睨め付けた。なぜならば、こうなることをアッシュは望んだのだ。いったい<宵闇の鴉>は何を求めている。メリッサは、まるで弄ばれているように感じた。だが、いずれにしても——もう対抗をする手段はなかった。






 ※





「メリッサ。これで最後だ。<世界の卵>の術式を渡してくれ——」アッシュは黒鋼の両手剣を放り投げ、祭壇への階段を静かに登った。そして、指笛を鳴らし、あの鴉を呼びつけ腕へ迎え入れ、鴉の背へ手をそっと添えた。その時だった。けたたましく階段を駆け登る足音がしたかと思うと、アッシュとメリッサの間へ黒い影が飛び込んで来たのだ。それは、アレクシスだった。アレクシスの今では蒼の瞳を浮かべた双眸は、たった今、アッシュが鴉の背から取り出した朱く輝く狩猟短剣を捉えていた。「——なんのつもりだアレクシス」


「あなたとの約束は果たした。エステルもお腹の子も無事」アレクシスは両腕を大きく広げ、背にした<白銀の魔女>と<宵闇の鴉>との間を断絶する障壁となった。

 アレクシスの影に蹲ったメリッサは白銀の髪を時折、祭壇を駆け降りてくる朱の輝きを映し出しながら、下へ流している。それに対し、アッシュは赤黒の蛇目を大きく見開き瞳孔を一気に狭めた。「情でも移ったか?」


「最初から情の塊なのは判っているでしょ?」

 アレクシスの唇は震えていた。

 だから言葉もそうだ。

 争うことさえ無駄である。どうしようもない圧倒的な力を前にアレクシスはそれを知っていた。それでも彼女は彼女の望むものを護るため、声を震わせ、身体を震わせ、心を奮わせたのだ。

 そうか——アッシュは思った。

 <七つの獣>のうち五体は、その殆どを乃木無人の生態情報を骨子にしている。<傲慢>に<強欲>、<嫉妬>と<暴食>そして<色欲>。それは、少なからず、どこかの時点での自分を映した鏡のようなもの。それであれば、今や反転をしたアレクシスが、自分と同じ気持ちを抱いたとしても納得がいく。


「……だとすれば、お前はまだ、俺との約束は果たしていない」アッシュはそう云うと、激らせた赤黒の蛇目をおさめ踵を返した。


「アッシュ・グラント……それは、どういう」アレクシスは、背を向けたアッシュに声を投げたが、答えが返ってくることはないことを判っていた。だから、今は崩れ落ちたメリッサの肩へ手をかけ、ゆっくりと<白銀の魔女>の顔を抱き寄せた。「メリッサ。もう、やめましょう。後はアッシュ・グラントに任せるべきよ」





 ※




 アッシュがメリッサを手にかけるのではないかと思ったアレクシスが駆け出した後、エステルはことの成り行きを階段の麓で見守ることしかできなかった。何が起きているのか? これからどうなるのか? 何をアッシュへ訊ねても明確な回答は成されなかった。だから——と、云う理由は勿論あったが、とにかく自分がここでは無力であるのだと、全身から力が抜けてしまっていたのだ。


 見上げた階段の先から、蒼や緑の輝きに煽られたアッシュがゆっくりとやってくる姿が見えた。蒼や緑の輝きはエステルを等しく下から煽り脈動した。赤毛の姫は、ゆっくりと降りてくるアッシュから目を離せなず、なぜだろうか身体を小刻みに震わせ——そして、膨らんだ腹を優しく両手で包み込んだ。

 蒼や緑の脈動は、今やエステルの不安を言い表すように濁って感じた。この輝きが、大切な何かを奪っていってしまうのではないか。どこか心の隅でエステルはそう思った。


 そして遂に<宵闇の鴉>はエステルの目前で立ち止まり、ゆっくりと跪いた。

「エステル……」アッシュは、できうる限り静かに赤毛の姫の名を呼ぶと、不安に表情を濁らせたエステルの顔へ手を差し伸べた。だが、アッシュが差し伸べた手は、すっかり汚れてしまったエステルの華奢な手に払われた。「なに?」


 エステルは咄嗟に振るってしまった自分の手を怯えるように見ると、すぐにアッシュへ目を返した。そして唇をぎゅっと絞り赤瞳を少しばかり濡らした。

「判ってくれとは云わない」アッシュは払われた手をそのまま、下へ降ろすと、かぶりを何度か小さく横へ振った。そしてアッシュは、それ以上エステルへの距離を縮めようとはしなかった。


「私たちの幸せのためにアオイドスさんとミラを犠牲にすると云うなら——納得はできないよ! それにメリッサだって……あなたが……」ぎゅっと縛った口を思い切り開いたエステルは、赤髪を振り乱しアッシュへ叫んでいた。結ばれたあの日の夜。震えていたアッシュは演技でもしていたのか? いいや、そんなはずはない——そう思いたい。


 そして、エステルは、ハッと表情を変えた。


 違う。そうではない。自分がガライエ砦で必死にアッシュの足を取り——ダフロイトでアッシュへ想いを寄せたからだ。アッシュは頸を落とされる寸前で差し伸べたエステルの手を取ろうとした。アッシュは、それを受け入れたのだ。だから、それを——。エステルは、そう思うとボロボロと涙を溢し嗚咽を漏らした。


「こうしなければ、あの二人は同じ苦痛を重ねることになる。メリッサも同じだ」


「それだって——私には判らない。だって、それは<外環の狩人>の話なのでしょ? でも、この子は護りたい——」エステルは、嗚咽を堪えながら声を絞り出した。口を突いて出た言葉は本心だったが、心の隅に痛みを覚えていた。

 ダフロイトで記憶を無くし生還をしたアッシュは眼前の<宵闇の鴉>とは似ても似つかないほどに純粋で、まるで子供のようだった。そんなアッシュをエステルは愛おしく思い寄り添った。想いを重ね、積み上げた。一緒に歩いて行こうとも思った。

 だが、それは間違っていたのではないか?

 自分でも感じていたことだった。あの純粋なアッシュこそが、本来の姿だと。本来の姿——つまり<外環>での姿。そしてエステル自身はリードランの住人だ。本来であれば、結ばれるべきではない。だが、エステルはその事実を心の奥底に押し隠していた。いつまでも、この時間は壊れないのだと。そして招いた結果は——<宵闇の鴉>の再来。いや、アドルフたちが口にした<魔神>の誕生を招き、今やその<魔神>はエステルの願いをかなえるため——何もかもを犠牲にしようとしているのではないか。


「アッシュ——もっと他に方法はないの!?——」エステルは溢れる涙を気にすることなく、今度はアッシュの胸へ飛び込み顔を見上げた。「——アッシュは——その……」

 エステルは、続けようとした言葉を詰まらせてしまった。だが、アッシュはエステルを優しく抱き寄せると、何もかもを理解しているというように静かに、エステルの言葉を引き取った。


「<世界の王>いや<魔神>か。それは名ばかりの、世界の残滓だ。万能じゃない。ただの道具で俺の意思は介在しないと云っていい。メリッサは、俺という道具を動かすための手。そして、ここには居ないが聖人から世界の設計図を呼び出し、世界の始まりに俺が望んだものを俺の血肉から造り出す。この連鎖は俺たちが居る限り永遠と続く……」アッシュはそう云うと、ほんの少しだけエステルを抱く力を強くした。それは、もう何も云わないでくれ。そう云っているようにエステルは思えた。だが、エステルは確かめなければならないと思った。この連鎖が終わらないとはどう云う意味なのかを。


「ちょっと待ってアッシュ。ってどういう意味?」





 ※





 エステルが階段の麓でアッシュの抱擁を振り解き、わなわなと訊ねたその時だった。

 白亜の大祭壇に轟音が鳴り響き、そして階段をゴロゴロとアレクシスが転げ落ちてきたのだ。軽やかに受け身をとりアッシュたちの前に立った様子を見れば、アレクシスが致命傷を受けた様子は見受けられなかった。だが、アレクシスは、それでも両肩で息をすると「不味いわね」と、いつになく余裕のない顔をして見せた。

 すると、大祭壇の踊り場に満ちた白煙を切りながらメリッサが姿を現した。

 すっかりと表情を失い、青褪めていると云っても過言でなかったが、しかしその表情の奥底には、底知れない憎しみを孕んでいるように見えた。


「この売女。私に劣情を覚えるなら最初から裏切らないで。そうすれば、それだって受け入れてあげたのに。あの馬鹿で醜いアイザックだってそう。仮初めの存在のくせに、全てを欲しがる。みんな自分の欲しいものを欲しがる! 私は、それが出来ないと云うのに。みんな私を利用して欲しいものを手に入れようとする! そうしてこう云うの『判ってくれ』とか『ご理解ください』とかって。もういい——」メリッサは、そう叫ぶと、フワリと身体を浮かせながら大祭壇の背の方へと移動をすると、そこへ手をあてると金切り声を挙げた。


「——もおおおおおおいいいい! こんな世界リードランなんて! もう要らない! 私に何もくれない世界なんてもう知らないよ! 壊れてしまえば良いの!」



 メリッサの絶叫に世界リードランが呼応したのか。

 メリッサの姿を見上げた三人の足元が大きく揺れ始めたかと思うと、とうとうアレクシスは立っていることが、ままならなくなり片膝をついてしまった。そして、三人は絶叫と共に頭上高くに広がる暗闇へ姿を滲ませていくメリッサの横へ、見覚えのある誰かが姿を現したのが判った。

 その身体には大きすぎる白のフードは後ろに退けて、後で二つに結ったブロンドを露にしたそれは、大きく開いた双眸の瞳も金色だったのだが、右目の瞳孔は何かが常に蠢いているのが判った。そしてそれは、メリッサへ何かを口にした。

 その声は、足元を揺らす地鳴りに掻き消され、メリッサを見上げる三人には聞こえなかったが、メリッサが静かに頷くと、それは姿を消してしまった。



 すると足元の揺れは絶頂に達した。



 エステルは、その瞬間に身体がフワリと浮く感覚を覚えた。

 大聖堂でアッシュがそうしてくれたよう、自分はアッシュの手でこの大地鳴りの窮地から救われたのだろう。目をキツく縛っていたから、周囲の様子は判らなかったが、地下の大祭壇が崩れるような轟音が鳴り響き、どこかでは爆発音も聞こえてくる。だが、もう安心だ。話の続きは農園に帰ってからでもできる。エステルはそう思っていた。いや、云い聞かせたのだろう。そして、それは正しかった。


「しっかり捕まってなさい、エステル」

「アレクシス……アッシュは? アッシュはどこに?」

「消えたわ」

「え?」

「おそらく<外環の狩人>は全員、この世界から排除されたのだと思う。ルエガー大農園へ行くわよ」

「そんな! 嘘でしょ!? 降ろしてアレクシス!」

「落ち着きなさいエステル! あの気丈な姫はどこへ行ってしまったの? とにかく今はアッシュ・グラントを信じなさい」






 ※





 大地鳴りが止み、地下空洞に静けさが戻ってきた。

 あたりで、パラパラと小石が落ち地に弾ける音はするものの、それ以上のことはもう起きはしなかった。大祭壇は崩れ去り、その荘厳な姿はもう見る影もない。まるで祭壇へ力を捧げるように脈動した輝きも、もう今はなりを顰めている。

 故に辺りは闇に包まれていた。

 ねっりとした闇だ。

 湿気に砂埃が混じり空気を澱ませている。

 そんな気味の悪い闇の中に、一点の白銀の輝きが現れた。

 それは、闇に四肢をつけ頸を垂れたメリッサ・アーカムが放った僅かな輝きだった。

 メリッサは必死に、口へ指を突っ込み意図して嘔吐を繰り返していた。「もうやめて」そう繰り返し云いながら、喉の奥から何かを引っ張り出すような仕草をしても見せた。そして再び口を開いた。


「もう、お父様は必要ないの。だから……これ以上、私を穢さないで」ねっとりとした暗闇にメリッサの嘔吐の音と、心底の嫌悪を孕ませた声音が響いた。





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