——西暦2081年8月。大田区蒲田の雑居ビル。
乃木葵が<リードラン>から戻ってきたのは、隣の部屋でやはりシンクロをしていた森山が戻って来たのと同時であった。
長時間のシンクロからの影響なのだろう。現実世界の十二倍で進むリードラン時間との差に酔いを感じると、葵は傍に鎮座した乃木
落とした視線の先で、別の冷めた視線——いや、視線らしきものを感じると、葵はそこへ焦点を合わせた。はたして、そこにあったのは乃木無人を管理したチェンバーズの頭部の残骸が転がっていたのだ。
葵は慌てて周囲を見回した。
「それは西蒼人が、監視用に用意をしたチェンバーズだ。危うくお前と森山を——どうだろうな、殺そうとしていたんだろうな」
ふんわりとした時間のなか、乃木葵の耳にその声が届く頃には、すっかりと葵の意識ははっきりとしていた。どちらかと云えば強制されたと云ってもよいほどだ。何せ、周囲には乃木葵と瓜二つであったチェンバーズの残骸が転がっており、そして届いた声の主人は寝ているはずの乃木無人の後ろ姿だったのだ。
「
葵は知っている。その後ろ姿は自分の知る後ろ姿ではないことを。そして、向こうから持ち込んだ想いは、そう、もうリードランへ置いてきたのだ。すると、何かを思い出したのか、ハッと血相を変え「ミラは、ミラはどうなったの?」と、黒張りのソファーや色々な家財道具に爪先や脛をぶつけながら、乃木無人の背中へ辿り着いた。
「ミラのことは心配しなくていい。俺の身体が奪取されるまでリードランが消されることはないはずだ。その前にケリはつけてくる。安心してくれ」
乃木無人は背中へ葵の手の感触を感じると、それを手に取り葵へ顔を向けた。年齢不詳の顔立ち。変哲もない顔。若くもなく年老いてもいない。だが、一つだけ変わっている部分があった。それは双眸に浮かぶ瞳。本来の乃木無人が有した瞳は黒。純粋な日本人の黒瞳のはずだ。しかし、葵が目の当たりにしたのは違ったのだ。
それは赤黒の蛇目。
それはアドルフたちが口にしていたアッシュ・グラントの瞳そのものだったのだ。
「その瞳は……」葵は思わず絶句をしたが、思わず口を突いていた。
「俺の中にある<憤怒>の情報が反映されている。珍しくもないだろう——この身体はチェンバーズだ。もっとも——脳を侵食する一歩手前で踏み留まっている状態だけれどな」乃木無人は、さらっとそれを口にした。
葵は、それに「そんなはずは」と再び絶句し、口を手で押さえた。それもそうだろう。世界条約でチェンバーズへの脳の移植は倫理規定違反と定められ、重罪だ。だが、絶句した理由はそれだけではなかった。乃木無人がリードランで<憤怒>へ侵食された際、確かにバイタルデータは人体であると表示をし、自分に瓜二つのチェンバーズも懸命に治療をしていたはずだ。
その疑念を察したのか、乃木無人は白シャツの乱れを整え、少々ゆったりとした黒のパンツを軽く叩くと「この機体は、一般に公開されていないモデルだ。そうだな——お前のいた世界で、俺の母親そっくりのチェンバーズに会っただろう? あれと同じ機体だ。自立成長型バイオニック骨格——
「なるほどな——おっと、動かないでくれよ先生たち。
「さあな。西が何も小細工をしていなければ、あと二ヶ月といったところだろうな」乃木無人は、そう云うと葵の肩を引き寄せ一歩前へ踏み出した。「だから、俺は俺の身体を取り戻さなければならない」
「本当に、それだけ?」森山は無人が抜き身で放つ殺気にも似た感覚を肌に覚えると、軽く構えをとった。きっと無人がぶっきらぼうに云った答えは、森山が掴んでいる情報とは合致していないのだろう。その様子が、森山の表情へありありと浮かんでいる。
「森山捜査官。いいか? フラクタルがこれ以上、俺に関与するなら——その二ヶ月で人類を抹殺してやる」無人はそう凄んで見せると、片手を振るって見せた。すると、どうだろう森山の爪先の数センチ先へ赤黒い線が一瞬に描かれ——そして、床を焦がした。
「西さんが云っていたよ。リードランの力をこっちで使うには人の脳が必要だって。これが、その証拠ってことでいいのかな?」森山は、二歩後ろへ下がると、ちょうど玄関への廊下を塞ぐ位置へ陣取った。
「そうか、西と会ったんだな。良かったよ森山捜査官。なら、話は早い。そこをどいてくれ。できればお前を殺したくはない——」そこで
森山はそれに眉間へ皺を寄せた。「どういう意味だ?」
「あれは——頼んでもいないが、西方教会から俺という存在を守る——と、云っても生死は問わずだけれどな——そんな組織だ。云ってみれば、フラクタルの敵でもある——どうだ? あいつらと手を組んで西方教会の足止めをしてくれるなら、悪いようにはしない」乃木無人は、そう云うと森山に構わず廊下へ向かい始めた。
「
思いもよらない展開に硬直をしていた葵であったが、ミラのことは心配するなとだけ残した無人に、不安を感じていた。そこへ、寿命があと二ヶ月という事実に混乱をしていたが、このまま無人を行かせては駄目だと直感したのだ。だが、その叫びは乃木無人の足を止めることはなかった。
無人の提案に、身構えた森山も横を通り過ぎる乃木無人の足を止めることができなかった。正確には、触れてしまえば命を落とす危険すら感じていたと云ってもいい。それに加え、乃木無人が発する言葉の一つ一つは、いちいち森山の心を掻き乱し、まるで弄ばれているようにさえ感じていた。だから、これ以上、乃木無人に関わってはならない。そう直感したのだ。
乃木無人が相変わらず無機質な廊下を歩く姿を呆然と見た二人は、無人が玄関から出ていくのを、ただただ黙って見過ごすことしかできなった。
「ありゃ、とんでもないものが出てきちゃったな。人類皆殺しって云ってたよ——」森山は誰に云うわけでもなく、そう溢すと振り返り「——向こうの世界でも、あんなに怖い人だったの?」と、葵へ惚けるように訊ねた。きっと、この場を空気を変えたかったのだろう。
「いいえ。全く違うわね」葵は森山の心情を察してか、勤めて軽口を吐くようにしたが、どうにもぎこちなかった。それに森山は「きっとそうだよね」と、こちらも同じく、ぎこちなく笑って見せた。
※
「ああ——陽菜ちゃん? 蒲田に集合できる? 緊急事態発生だわ。ああ、うん。白石君たちも連れてきて貰えるかな? 承認は取っているんでしょ? だったら、ちょっと危ないからこっちで保護かな。そうそう。よろしくね」
ぎこちない、気遣いのあと二人は思い思いのことを、その場で始めていた。葵は散乱したチェンバーズの残骸を集め、それまで無人が横たわっていたソファーへ部位ごとに並べ何やらデータを探っているようだった。かたや、森山は方々へ連絡をしているようだったが、最後には、つくばで覚醒をしているはずの高木陽菜へ連絡をとり、蒲田へ颯太たちを連れてくるように指示をした。
「先生、なんか判った?」森山は、未だ手首に気味悪く巻きつけられたスマートデバイスの脇を掻きながら、葵の顔を覗き込んだ。
「——いいえ、これと云っては特に」葵は険しい表情とは裏腹のことを答えた。森山は、それに気が付いてはいたが、ここでは特に追及することを避けた。真意を掴むため、白石颯太もここへ呼んだのだ。何かあれば、きっと自発的に動いてくれるはず。そう、踏んだのだ。
「はぁ。一体何が起きているんでしょうねえ、先生」
「それは——いいえ、なんでもないわ」
乃木葵は森山の惚けた言葉へ、棘を刺すように返すとベランダへ目を向けた。
視線を感じたのだ。
その視線の主は、ベランダの手摺で羽を休めた——一羽の鴉だった。
葵はそれに気が付くと、ハッと立ち上がりベランダへ駆け寄った。だがどうだろう、次の瞬間には、綺麗さっぱりと鴉の姿は消えて無くなっていた。
※
——西暦2081年8月。アーカムメトリクス本社。
乃木葵が蒲田で目を覚ました日の夕方。
アーカムメトリクス本社ビルの一部が奇妙な半円形の黒々とした<何か>に包まれるという事態が発生。その直後、現存する各種チェンバーズの約六割が稼働不能に陥るという不測の事態が起こった。これによりインフラ整備をチェンバーズに頼った各国は混乱を極めると同時に、世界的な株価の下落、エネルギー供給施設を対外的に封鎖。有事の際のエネルギー共有源とする動きなどが各国で見られ、大恐慌を引き起こした。
日本政府はこれに対し、アーカムメトリクス社への全面的なバックアップを表明。
それと同時に、ここ数日で世界中を騒がせた、人体自然発火事件の首謀者を、これまで行方不明であるとされてきた乃木
同日。
ワールドオーダーも緊急招集されると、非加盟国が宗教団体を隠れ蓑に乃木無人のテロ行為へ加担したと決定づけた。これに各国は当該の非加盟国への武力行使の準備を進めるのと同時に、乃木無人の即時死刑を決定。DCIAはワールドオーダーの内部組織、フラクタルの指揮のもと、乃木無人の行方を追うため東京へ主力捜査官を集結させた。
それから数日——DCIAは乃木無人の足取りを掴むことはできなかった。
そのうちに、あらゆるネットワーク上では、乃木無人のテロ行為事態が虚偽で政府が何かを隠しているのではないか? はたまたは、乃木無人は既に死んでいるのではないか? などといった根も葉もない情報が飛びかった。
そして、そんな情勢のなか東京は乃木無人捜索とは別の問題を抱え込んだ。
港区赤坂を中心に、猟奇殺人や原因不明の行方不明者が頻発したのだ。
目撃情報によれば「怪物が人を喰い殺した」だとか、「鬼の姿をした小人が女性をさらい、一緒にいた男性は惨殺された」と云った類の奇天烈なものばかりであった。
後の記録によれば、この日を境に世界は——変革の刻を迎えたと記された。
/* Killing Me Softly With His Song
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