今から少し遡ったある日の夜――――
夜の街明かりを見下ろしながら、彼女は下着姿にナイトガウン一枚羽織っただけの姿でグラスを傾けた。
身に纏うものも彼女だけの部屋も、全てが全て、ザールムガンドにおいて最高級のものだ。
彼女自身、四人も子供を産んでいるとは思えぬほどに体には張りがあり、その姿は何よりも優雅で美しい。
赤みの強いブロンドの髪を緩やかに編んで肩に流し、薄く色づいた唇が妖艶に弧を描けば、彼女はまるで歌うような声色で彼の名を呼んだ。
「――やぁ、エド。おかえり」
「ただいま、ニケ。またそんな格好して……風邪ひくよ?」
「ふふふ、それは大変だな。まだ下の子が乳離れしていないんだ、私が風邪なんか引いたらごねられてしまう」
彼女は街明かりから視線をそらさずに後ろに控えている来訪者に向かって笑う。
軍服のままのエドヴァルトはソファーに投げ置かれたショールを手にして彼女の肩にそっと掛けてやった。
「あぁなんて勿体ない男だよ、エドヴァルト。君は顔も体も良いし、気遣いも出来るのにどうして10年以上も恋人ができないんだろうね?」
「……そんなの、俺が聞きたいんだけど」
不満げなエドヴァルトの声にくつくつと愉快そうに彼女の喉が鳴って、飲み干されたグラスはサイドテーブルに預けられた。
「まぁ女という生き物は実に敏感だからね。本能的に君の闇に気付いているのかもしれないよ?」
「ほんと酷い話だね。女の子はちょっと影がある男が好きっていつも言うくせに」
「ふふふ、冗談だろう? 君は自分が"ちょっと"影のある男だとでもいうのかい?」
肩越しに振り返れば、彼女の瞳とエドヴァルトの瞳がぶつかって、ゆるりと彼女の手が真後ろにいるエドヴァルトに伸ばされた。
白い腕が無遠慮に彼のサングラスを奪い、エドヴァルトの青藍色の瞳が一瞬だけ琥珀色に変わったような気さえする。
「さて、エド。異界人の子を拾ったそうだね」
「うん。――ごめんね、ニケの名前を借りた」
「ふふ、構わないさ。君に名を貸すことを決めたのは他ならぬ私自身だ」
振り向くようにザールムガンド帝国皇帝・アティナニーケ・ザールムガンドは彼のサングラス片手に士官学校時代と何ひとつ変わらない表情で悠然と微笑んだ。
分かっているよ、とでも言うようにエドヴァルトのサングラスを指先で
「どこで彼女を?」
「教会。ゴルゼの村はずれの」
「何故そこに……と言いたいが、それも君らの仕業かい?」
「正確にはカイリかな」
「そうか。少々内部がきな臭いことになっている。私は何もしてやれないが、せいぜい守っておやり」
「うん」
「ミーアには?」
「巻き込みたくない」
「ふふふ、それは今更な気がするよ。いずれ彼女は答えに辿りつく」
短い言葉に膨大な量の情報を隠して。
ソファから立ち上がったアティナニーケはエドヴァルトの頬をそっと包んだ。
複雑そうな表情をしたエドヴァルトに母の慈愛を込めてアティナニーケは微笑む。
「エド……エドヴァルト。私の数少ない大切な友よ。君が誰よりも尊く、強いことはこの私が知っている。だから間違えてはいけないよ。君の名は"エドヴァルト・リュトス"で彼女の名は"
自身の子供に諭すようにアティナニーケはエドヴァルトに言う。
彼女の細い手に自身の手をそっと添えて、エドヴァルトは一度だけ過去を思い出すようにぐっと眉を寄せた。
13年前も、25年前も。
あの頃の自分は、世界に対して何もできなかったのだ。
唯舞によく似た後ろ姿を思い出して、エドヴァルトは一瞬息を詰める。
「……うん、大丈夫。分かってるよ、ニケ。…………俺は大丈夫」
そう言って苦しげに笑ったエドヴァルトにそうかと微笑んだアティナニーケは親愛のキスをエドヴァルトの額に贈った。これ以上は踏み込めない。アティナニーケにはこれ以上、エドヴァルトを救うことは出来ないのだ。
出来るとしたら、ただ見守り、願うことだけ。
――どうかこの不器用な男の心が、癒される時が来るようにと。
「よし、ならばさぁ私の
そうアティナニーケが言えば、エドヴァルトは彼女の手の甲に忠誠を誓うように口づけを落とした。
公の場ではできない密談は、彼女の部屋で行うのがいつものこと。
アルプトラオムのトップであるエドヴァルトと皇帝アティナニーケが士官学校時代からの古い友人ということは知るものぞ知る事実である。
だがしかし、彼らが知っている真実の闇が明らかになるのは、まだしばらくは先のことだろう――