目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第32話 ヴァシリアス名物


 ガルマン塔の空中展望台から見る夕焼けの景色があまりにも見事で、時が経つのを忘れかけていた唯舞いぶを現実に戻したのは12月の海風だ。

 思わず首を縮めるように一度身震いすると、寒さに身体の芯が侵されてしまいそうになる。



 「……戻るぞ」



 ふわりと横の空気が揺れて、アヤセが動く気配に唯舞は小さく返事をした。

 エレベーターのあるホールに戻る前にもう一度だけ海のほうを振り返る。

 先ほどより宵闇に近付いた紫青色の空はまだ薄っすらと太陽の色を残していたが、完全に闇に染まるまでそう時間はかからないはずだ。

 名残惜しむようにその美しい色合いを目に焼き付けた唯舞はアヤセを追うように身を返した。



 「…………少しここで待っていろ」



 地上に戻ったアヤセは風よけの壁がある塔の出入り口付近に唯舞を残し、一人フードスタンドに向かっていく。

 お店の人に二、三言葉だけ伝え支払いを済ませると、両手に小さめのクレープ状の食べ物を受け取って唯舞の元に戻ってきた。



 「これがミトラだ。さっき、運転手に言われただろう」

 「あ、すみませ……じゃなくて、ありがとうございます」



 差し出されたミトラと呼ばれたものを受け取れば冷えた両手がじんわりと温まる。

 唯舞の手のひらサイズほどの大きさのミトラは、薄いクレープ状に焼いた生地の中にサラダと味付けされた薄切り肉が入っている、現世でいうところのケバブやシャワルマに近い食べ物のようだ。

 はむっと口にすれば、あっさりした生地に反して濃いめの味付けの肉が絶妙な甘辛具合で、男子高校生の弟ならば無限ループに入りかねないお味である。

 自身もミトラを口に運びながらアヤセが唯舞の隣に並んだ。



 「ここは学術都市だからな。研究の合間に片手間に摂れる食事のほうが好まれるからこういったスタイルが多い」

 「あ、なるほど。そんな感じならうちの国にもありましたよ。伝統工芸とかの職人さんの片手間ご飯が同じ理由でした」



 片時も目を離せないほど忙しい職人の間では、手軽に食べられるサンドイッチのようなワンハンドご飯が好まれるという特集をテレビで見たことがある。

 職人も研究者も、落ち着いてご飯を食べるより研究や作業に没頭したいというのは世界が変わっても共通認識のようだ。


 甘辛の味だからか、それともお昼以降何も食べてなかったからか、小さめのミトラはあっという間に胃袋に収まってしまった。

 フードスタンドの料理はどれも食べ歩きを前提としているからか全体的に小ぶりに作られているようで、そうなると色々とお味を確かめたくなるのが人のさがというもの。


 若干浮足立ったようにきらきらとした目でフードスタンドを見る唯舞に、アヤセは小さく息をつきながらも行くぞ、と他のフードコートに足を運んでくれる。


 ミトラを皮切りに肉や海鮮の串焼き、トロトロに煮込んだ肉を挟んだ蒸しパンに10種類以上も並んだスティックピザ。

 フライドポテトを皮切りにキャロットポテト、オニオンポテト、さらに名産だというベリーがふんだんに使われた細長いベリーパイにアップルパイやチェリーパイ。

 野菜をふんだんに使って濃しあげたポタージュはびっくりするほど濃厚で甘く、どれもがワンハンドで食べられるこの国らしいラインナップだ。


 食べ歩きにいそしむ唯舞の後ろをついて歩くアヤセは、グリューワイン片手に会計担当になっている。

 最初こそは遠慮していた唯舞だが、その様子を見た行く先々のお店の人が「そこは彼氏に甘えちゃいな!」と満面の笑みで言ってくるので三店舗目でついに折れた。


 タクシーの時に頑張ったし、ここは開き直って奢ってもらおう! と気持ちを切り替えて偽彼氏アヤセに次これがいいです、と見上げれば呆れ気味に見下ろされる。


 「……まだ食べるのか?」

 「だって、私、来るときのタクシーで頑張りましたよ?」

 「それは……はぁ、あの時の貸しが高くついたな」

 「ふふふ、そうです。私って結構高い女なんです」

 「おぉ、こりゃあんちゃんの負けだなー! ついでにこっちも買ってやって彼女の機嫌取らなきゃ捨てられちまうぞー? いくらあんちゃんがイケメンでも彼女の方が100倍可愛いからな!」

 「………………そうだな」



 店主とのやり取りに、中佐のほうが綺麗だからそれはどうだろう? と突っ込む唯舞に、アヤセが唯舞を可愛いと同意した事実は見事にスルーされていた。

 というか最初からアヤセとどうこうなりたいと一ミリも考えていない唯舞にとっては社交辞令としか思っていないのだ。


 結局、店主の言われるまま上手く買わされたアヤセは、大きくため息をつきながらも唯舞に商品を手渡し、満足か? と尋ねる。

 持ち帰り用の袋から漂う美味しそうなパイはバターと濃厚な果実の香りに包まれて至福以外の何物でもない。

 珍しくとろりと表情が蕩けた唯舞がありがとうございます、と微笑めば、少々戸惑ったようにアヤセに目を逸らされてしまった。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?