──潮騒の記憶、古宇利島
海が見たい──その衝動に背を押されるようにして、隼人は南の島へと向かった。
選んだのは、沖縄・古宇利島。橋を渡れば辿り着く小さな島。どこまでも透き通る海と、静かな風の流れる場所だ。
那覇空港からバスとレンタカーを乗り継ぎ、ようやく古宇利大橋のたもとに立ったのは、午後を少し過ぎた頃だった。
目の前に広がるのは、嘘のように澄んだ海だった。コバルトブルーからエメラルドグリーンへのグラデーション。
太陽が照り返すその海面は、きらきらとまばゆく、見ているだけで心の底が洗われていく気がした。
風が吹いた。潮の匂いが、ふわりと鼻をかすめる。
橋の上には誰もいなかった。観光客の気配もまばらで、まるでこの世界に自分しかいないような静けさだった。
隼人は、ゆっくりと歩き出した。
橋の真ん中で足を止め、海を見下ろす。
波が、遠くから寄せては返し、白い筋を描いていた。
そのときだった。
彼は、不意に目を閉じた。
耳をすませば、波音の合間に──あの笑い声が、聞こえたような気がした。
「ねえ、ほら! 海、めちゃくちゃきれい! 写真撮って!」
──美月の声。
彼女が言いそうな言葉が、風に乗って届いたような錯覚。
隼人はハッとして、首を振った。だが心の奥では、それを否定することができなかった。
海の美しさが、彼女を呼ぶ。
まるで、この景色は最初からふたりのためにあったのだと、そう語りかけてくるように。
橋を渡り切ると、島の空気はさらにやわらいだ。
集落を抜け、小さなビーチに降りる。誰もいない浜辺。
サンダルを脱いで、裸足で波打ち際を歩く。砂の感触が、心地よく足裏に広がった。
空と海と風しかない世界。
ここには、何もない。だからこそ、何かが浮かび上がる。
隼人は、その場に腰を下ろし、持参したノートを開いた。
今日は何を書くべきか。何が書けるのか。
彼は、静かにペンを走らせた。
> 君とここに来たことはない。
けれど、僕の記憶の中で、君は今、ここにいる。
砂の上を駆け、笑って、僕に振り返る。
何もない海辺が、君で満ちていく。
書きながら、隼人は思った。
この旅は、やはり「忘れるため」ではなく、「想いを確かめるため」のものなのだと。
忘れようとするほどに、彼女の輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。
まるで、どこかで「ちゃんと思い出して」と言われているように。
彼は目を閉じた。
風が頬をなでる。波の音が、静かに耳を包む。
そして──
「美月……」
彼はその名を、口にしていた。
消そうとしても、何度も立ち上がる想いがある。
ならば、逃げるのではなく、見つめなければならないのかもしれない。
夜。
島の民宿のベランダから、星空を見上げる。
手には、旅のノート。
> 僕はまだ、君の記憶に囚われている。
でも、それを苦しいとは思わない。
美しい景色が、君と僕をつないでくれているのなら、
僕はこの旅を続けよう。
そしていつか──この想いに、答えを見つけるために。
そう書いたあと、彼はそっとノートを閉じた。
心が少しだけ、軽くなっていた。
潮騒が、その背中をそっと押してくれている気がした。