──再会、東京・美術館の午後
東京に戻った隼人は、数日ぶりに自宅の鍵を開けた。
部屋には、旅に出る前と変わらぬ静けさが広がっていた。けれど、彼の心はどこか、少しだけ変わっていた。
ノートの最後のページには、美月の名前とともに、旅の終わりを告げる一文が記されている。
> 「会いたい」
その気持ちは、まだ胸の奥に息づいている。
その日、彼は一通のメールを送った。
宛先は、大学時代の友人であり、いまは現代美術館でキュレーターとして働く女性──
「久しぶり。突然だけど、今度、企画展の案内してもらえないかな。できれば、人の少ない時間帯に。」
送信ボタンを押してから数分後、思いがけない速さで返信が届いた。
> 「びっくりした(笑)もちろんいいよ。じゃあ、今週土曜の午後は? 特別展、隼人なら好きかも。」
彼は、すこし笑った。
自分が「人に会いたい」と思えたことに、ほっとしていた。
土曜日。
梅雨の合間の晴れ間。
東京・上野の森は、夏を先取りしたような湿気と青葉の匂いに包まれていた。
現代美術館のロビーに入ると、ひんやりとした空気が肌をなでる。
彩音は、展示室入口で彼を待っていた。
「……変わってないね、隼人は。」
「そっちは変わったな。ずいぶん、大人びた。」
「そりゃあ、五年も経ってるんだもの。」
そう言って微笑む彩音は、学生時代よりもずっと落ち着いて見えた。
髪は肩にかかるほどのボブに切りそろえられ、ナチュラルな服に小さなブローチをつけていた。
ふたりは、静かに展示室を歩いた。
今回の特別展は、「記憶と再生」をテーマにした現代アート展。
空間に吊るされた無数の写真。破れた手紙。音のないビデオ。
失われたものと、それでも残されたものたちが、そっと訴えかけてくる。
ある作品の前で、隼人は足を止めた。
それは、海辺に立つ女性の写真だった。背を向けて、波のほうを見ている。
髪が風に舞っている。顔は見えないが、どこか美月に似ている気がした。
「……この作品、好き?」
彩音がそっと訊ねた。
「わからない。好きかどうかは。でも……惹かれる。」
「……そう。」
ふたりの間に、しばしの沈黙が流れる。
「ねえ、隼人。ずっと気になってたことがあるの。」
「うん?」
「美月のこと……いまも、忘れられてないんでしょ?」
その問いに、彼はすぐには答えなかった。
けれど、視線を写真から外さずに、ゆっくりと口を開いた。
「……うん。たぶん、一生忘れられないと思う。」
「そうだよね。でも、それでいいんだと思う。」
彩音の声はやさしかった。
ふたりは、そのまま並んで展示室を歩きつづけた。
別れ際、出口で彼女が小さな封筒を差し出した。
「これ、美月が亡くなる前に、私に預けたもの。……渡すタイミング、ずっとわからなかった。でも、今なら……」
隼人は、その封筒を受け取った。
中には、一枚の手紙と、海辺で撮った一枚のポラロイド写真が入っていた。
写真には、美月が笑っていた。
潮風に髪をなびかせ、こちらに手を振る姿。
その奥に広がるのは、古宇利島の海──彼がたった今、旅してきたばかりの景色だった。
手紙を開く。
> 隼人へ
もしこの手紙を受け取っているなら、私はもうこの世界にはいないのかもしれないね。
でも、最後まで伝えたかった。
あなたと見た景色、あなたと交わした言葉、全部が宝物だった。
どうか、自分を責めないで。
私は、あなたと出会えて本当に幸せだった。
そして、もう一度、海を見てください。
あなたの書く言葉が、また誰かの心を照らしますように。
美月より
涙が頬を伝った。
彩音は、黙って隣に立っていた。
隼人は、小さくうなずいた。
「ありがとう。……本当に、ありがとう。」