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第5話 転回│再会、東京・美術館の午後

──再会、東京・美術館の午後


東京に戻った隼人は、数日ぶりに自宅の鍵を開けた。

部屋には、旅に出る前と変わらぬ静けさが広がっていた。けれど、彼の心はどこか、少しだけ変わっていた。


ノートの最後のページには、美月の名前とともに、旅の終わりを告げる一文が記されている。


> 「会いたい」

その気持ちは、まだ胸の奥に息づいている。




その日、彼は一通のメールを送った。

宛先は、大学時代の友人であり、いまは現代美術館でキュレーターとして働く女性──宮下彩音みやしたあやね


「久しぶり。突然だけど、今度、企画展の案内してもらえないかな。できれば、人の少ない時間帯に。」


送信ボタンを押してから数分後、思いがけない速さで返信が届いた。


> 「びっくりした(笑)もちろんいいよ。じゃあ、今週土曜の午後は? 特別展、隼人なら好きかも。」




彼は、すこし笑った。

自分が「人に会いたい」と思えたことに、ほっとしていた。


土曜日。

梅雨の合間の晴れ間。

東京・上野の森は、夏を先取りしたような湿気と青葉の匂いに包まれていた。


現代美術館のロビーに入ると、ひんやりとした空気が肌をなでる。

彩音は、展示室入口で彼を待っていた。


「……変わってないね、隼人は。」


「そっちは変わったな。ずいぶん、大人びた。」


「そりゃあ、五年も経ってるんだもの。」


そう言って微笑む彩音は、学生時代よりもずっと落ち着いて見えた。

髪は肩にかかるほどのボブに切りそろえられ、ナチュラルな服に小さなブローチをつけていた。


ふたりは、静かに展示室を歩いた。


今回の特別展は、「記憶と再生」をテーマにした現代アート展。

空間に吊るされた無数の写真。破れた手紙。音のないビデオ。

失われたものと、それでも残されたものたちが、そっと訴えかけてくる。


ある作品の前で、隼人は足を止めた。

それは、海辺に立つ女性の写真だった。背を向けて、波のほうを見ている。

髪が風に舞っている。顔は見えないが、どこか美月に似ている気がした。


「……この作品、好き?」


彩音がそっと訊ねた。


「わからない。好きかどうかは。でも……惹かれる。」


「……そう。」


ふたりの間に、しばしの沈黙が流れる。


「ねえ、隼人。ずっと気になってたことがあるの。」


「うん?」


「美月のこと……いまも、忘れられてないんでしょ?」


その問いに、彼はすぐには答えなかった。

けれど、視線を写真から外さずに、ゆっくりと口を開いた。


「……うん。たぶん、一生忘れられないと思う。」


「そうだよね。でも、それでいいんだと思う。」


彩音の声はやさしかった。

ふたりは、そのまま並んで展示室を歩きつづけた。


別れ際、出口で彼女が小さな封筒を差し出した。


「これ、美月が亡くなる前に、私に預けたもの。……渡すタイミング、ずっとわからなかった。でも、今なら……」


隼人は、その封筒を受け取った。

中には、一枚の手紙と、海辺で撮った一枚のポラロイド写真が入っていた。


写真には、美月が笑っていた。

潮風に髪をなびかせ、こちらに手を振る姿。

その奥に広がるのは、古宇利島の海──彼がたった今、旅してきたばかりの景色だった。


手紙を開く。


> 隼人へ


もしこの手紙を受け取っているなら、私はもうこの世界にはいないのかもしれないね。

でも、最後まで伝えたかった。


あなたと見た景色、あなたと交わした言葉、全部が宝物だった。


どうか、自分を責めないで。

私は、あなたと出会えて本当に幸せだった。


そして、もう一度、海を見てください。

あなたの書く言葉が、また誰かの心を照らしますように。


美月より




涙が頬を伝った。


彩音は、黙って隣に立っていた。


隼人は、小さくうなずいた。


「ありがとう。……本当に、ありがとう。」


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