目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第6話 新生│言葉の海へ、そして

それから、数日が経った。


隼人は、静かな海の見える部屋で、ひとり原稿用紙と向き合っていた。

かつて「もう書けない」と思い込んでいた指先は、いままた、ペンを握りしめている。


窓の外には、青い水平線と、白く立ちのぼる夏の雲。

そのすべてが、美月と過ごした記憶を呼び起こしてくる。


──「あなたは、書いていい人だよ」


その言葉が、何度も胸の中に蘇る。

彼女は自分の旅の終わりを、この島に重ねていたのではない。

きっと、彼の新しい旅の出発点にしたかったのだ。


「……ただいま、美月。」


小さく呟き、隼人は机の上にそっと写真立てを置いた。

そこには、古宇利島の海辺で笑う美月の姿があった。

風に揺れる帽子のリボン、光をはね返す瞳──そのすべてが、まるで今もそこにいるようで。


カーソルが、パソコンの画面にまたたく。

隼人は深く息を吸い、ゆっくりとキーを叩き始めた。


> ひとは、なにかを忘れるために旅に出る。

だけど、忘れようとしたものほど、風景の中に深く残っていく。

──そしてある日、気づくんだ。

それは「忘れる」ためじゃなく、「思い出す」ための旅だったのだと。




一文一文を紡ぐたびに、胸の奥があたたかく満たされていく。

言葉が、記憶と心をつなぎなおしてくれるようだった。




その秋。

小さな文芸誌に、風見隼という名前で掲載された短編小説があった。

タイトルは──「何もかも忘れるための旅なのに、君に見せたいものばかりだ」。


控えめな作品だったが、読者の間で静かに話題となった。

「喪失と再生を、こんなにも優しく描けるのか」と。


ある日、見知らぬ読者から手紙が届いた。


> 母を亡くして何も書けなくなっていた私が、

あなたの物語を読んで、はじめてペンを握りました。

忘れたくて、でも忘れたくなかった大切な人を、ようやく思い出せました。




読み終えたあと、隼人は静かに目を閉じた。

遠く、波の音が聞こえた気がした。


──美月。

きみが見せてくれた景色を、ちゃんと伝えられたよ。


彼はまた、新しい原稿用紙を広げた。

書きたいものが、まだたくさんある。

見せたい風景も、まだどこかに残っている。


空は晴れ渡り、海はどこまでも青い。


これは、忘却の旅ではない。

これは、君と見た光を言葉にする、再生の旅だ。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?