それから、数日が経った。
隼人は、静かな海の見える部屋で、ひとり原稿用紙と向き合っていた。
かつて「もう書けない」と思い込んでいた指先は、いままた、ペンを握りしめている。
窓の外には、青い水平線と、白く立ちのぼる夏の雲。
そのすべてが、美月と過ごした記憶を呼び起こしてくる。
──「あなたは、書いていい人だよ」
その言葉が、何度も胸の中に蘇る。
彼女は自分の旅の終わりを、この島に重ねていたのではない。
きっと、彼の新しい旅の出発点にしたかったのだ。
「……ただいま、美月。」
小さく呟き、隼人は机の上にそっと写真立てを置いた。
そこには、古宇利島の海辺で笑う美月の姿があった。
風に揺れる帽子のリボン、光をはね返す瞳──そのすべてが、まるで今もそこにいるようで。
カーソルが、パソコンの画面にまたたく。
隼人は深く息を吸い、ゆっくりとキーを叩き始めた。
> ひとは、なにかを忘れるために旅に出る。
だけど、忘れようとしたものほど、風景の中に深く残っていく。
──そしてある日、気づくんだ。
それは「忘れる」ためじゃなく、「思い出す」ための旅だったのだと。
一文一文を紡ぐたびに、胸の奥があたたかく満たされていく。
言葉が、記憶と心をつなぎなおしてくれるようだった。
その秋。
小さな文芸誌に、風見隼という名前で掲載された短編小説があった。
タイトルは──「何もかも忘れるための旅なのに、君に見せたいものばかりだ」。
控えめな作品だったが、読者の間で静かに話題となった。
「喪失と再生を、こんなにも優しく描けるのか」と。
ある日、見知らぬ読者から手紙が届いた。
> 母を亡くして何も書けなくなっていた私が、
あなたの物語を読んで、はじめてペンを握りました。
忘れたくて、でも忘れたくなかった大切な人を、ようやく思い出せました。
読み終えたあと、隼人は静かに目を閉じた。
遠く、波の音が聞こえた気がした。
──美月。
きみが見せてくれた景色を、ちゃんと伝えられたよ。
彼はまた、新しい原稿用紙を広げた。
書きたいものが、まだたくさんある。
見せたい風景も、まだどこかに残っている。
空は晴れ渡り、海はどこまでも青い。
これは、忘却の旅ではない。
これは、君と見た光を言葉にする、再生の旅だ。