桜ヶ丘の住宅街を抜けるアスファルトの道を歩きながら、星野美友紀は思わず自嘲気味に口元を歪めた。
名門校に通い、一戸建てに住んでいるのに、住宅街の入り口まで歩いて配車アプリを呼ばなきゃいけないなんて、誰が想像しただろう。
結局、昨夜もあのことは母親に話せなかった。
別にお金に困っているわけではない。毎月、継父からきっちり十万円の生活費が振り込まれている。
ただ、年齢のせいでまだ免許が取れないから、今は仕方なくこうするしかない。
道の途中で、美友紀の心にふと疑問がよぎった。
昨日、どうして渡辺雅彦はあんなに正確に家の前まで送り届けてくれたのだろう?
どの棟に住んでいるかは伝えていなかったはずだし、ここの住宅街はセキュリティも厳しい。どうやって彼は迷いなく家の前まで車を付けられたのか。
学校の正門にたどり着いたときには、すでに遅刻ギリギリだった。
急いで校舎へ向かって走り出したところで、ふと視界に渡辺雅彦の姿が映った。
思わず立ち止まり、彼の方へ歩み寄って声をかけようとした瞬間、先に話しかけられた。
「美友紀。」雅彦は穏やかに微笑み、澄んだ声で言う。「ちょうど君を探してたんだ。」
その言葉に美友紀はさっきまでの疑問をすっかり忘れてしまい、首をかしげた。「私に?何か用?」
「急な話なんだけど。」雅彦は一枚の紙を差し出した。「前に言ってた物理コンテストの特訓合宿、来週の月曜に決まったから。この数日、しっかり準備しておいて。」
通知書を握る指先がわずかに震え、現実味のない感覚が波のように押し寄せる。期待と不安が入り混じり、まるで水面に浮かんでいるような気持ちだった。
合宿まであと五日もない。なのに、まだ本格的な復習は手つかずで、過去の知識だけが頼りの状態だ。
美友紀は深呼吸し、無理やり平静を装って雅彦に微笑んだ。「分かった、ありがとう、雅彦くん。」
「じゃ、私、授業行くね。」
雅彦は美友紀より一つ上の学年で、今は大学入試共通テストに向けて追い込みの時期。美友紀は彼の時間を取らないよう、慌ただしく別れを告げた。
彼女は気がつかなかったが、雅彦が背を向けたとき、その顔にほっとしたような表情が一瞬浮かんだ。
校舎に入って階段を上ろうとしたところで、今一番会いたくなかった人に出くわしてしまった。
美友紀はとっさに視線を落とし、素知らぬふりで通り過ぎようとしたが、前をふさがれてしまう。
加瀬敦司が壁に寄りかかり、皮肉げな笑みを浮かべながら美友紀を見て、指を鳴らした。
「美友紀、今話してた男って誰だよ?新しいターゲットか?」
少し高い階段に腰掛け、彼女の肩越しに後ろを覗き込んで舌打ちし、首を振る。
「お前、最近どうしちゃったんだよ、目の付け所がどんどん後退してるぞ。その新しい奴、中島には到底かなわないだろ、なぁ?」
そう言いながら、隣の中島陽介の肩に手をかけようとしたが、陽介はそっと身をかわした。
陽介は背筋を伸ばし、白いシャツのボタンをきっちり首元まで留めている。長い指で袖口のボタンをいじりながら、冷ややかな視線で美友紀を一瞥した。
まるで赤の他人を見るような目だった。
彼のその冷淡な態度に一瞬戸惑ったが、すぐに駆け寄ってきた小林茉里の声で我に返る。
「変なこと言わないで!」と茉里が加瀬を押しのけ、呆れたように目をむいた。「誰でもお前と同じだと思うなよ!」
「は?何だよその言い方!」加瀬はすぐに食ってかかる。「俺が何したって言うんだ、はっきり言えよ!」
茉里は無視して美友紀の手を取り、教室の方へ引っ張っていく。
陽介は顔を上げ、加瀬が彼女たちの後を追っていくのをじっと見つめていた。二人の姿が階段の角に消えるまで、美友紀は一度も振り返らなかった。
彼の背筋はほんのわずかに緩み、無意識にポケットを探るが、何も見つからない。
そうだ、今の自分はまだタバコなんて吸わないんだった、とふと思い出す。
席に戻るまで、美友紀は背後から熱い視線を感じているような気がしていた。
振り返っても、加瀬が茉里につきまとってしつこく質問している以外、廊下には誰もいなかった。
美友紀はうつむき、通知書の文字に意識を集中させ、余計な雑念を振り払おうとした。
だが、その紙を加瀬が目ざとく見つけ、すぐに大きな声が響く。「お前、物理コンテスト出るのかよ!」
特に隠すつもりもなかったので、美友紀はあっさりとうなずいた。
「なんだよそれ!お前、中島と一緒にディベート部に入ってたんじゃなかったのか?なのに今度は物理研究会に首突っ込むのか?」
「もう辞めたよ。」美友紀は淡々と答える。
「マジだったのか?」加瀬は目を見開き、信じられないといった表情。「どんな心境の変化だよ?ディベート部では中島のセカンドリバッターやってたって聞いたけど……」
「私には向いてなかっただけ。」美友紀は通知書から目を離さず、ページをめくる。
「中島は知ってるのか?」加瀬が声を潜め、珍しく真剣な顔になる。
美友紀は少し考えてから、小さくうなずいた。「知ってるよ。」
「それで、あいつ何も言わなかったのか?」加瀬の声が大きくなり、周囲の注目を集めてしまう。
そのことに気づいて、慌ててごまかすように続ける。「もうすぐディベート大会なのに、ずっと準備してきたのを簡単にやめていいのかよ?それに、突然抜けたら代わりのセカンドリバッターなんて……」
加瀬はまだぶつぶつ言い続けていた。
美友紀は通知書の最後のページを見終え、ふいに顔を上げて加瀬を見つめる。
「もともとセカンドリバッターの本命は私じゃなかった。特別な枠で入れてもらっただけだから、私が抜ければ、もっとふさわしい人が入るだけ。」
加瀬は言葉を失った。
まさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかった。
「陽介くん……中島も知ってて何も言わなかったのに、なんであんたがそんなに慌ててんの?」美友紀はさらりと問い返す。
「そうだよ、ご主人様より下僕の方が焦ってどうするの!」と茉里がすかさず加瀬を茶化す。「美友紀は私の一番の親友なんだから、彼女のことは私が一番分かってる!」
「おい、何でお前が出てくんだよ!」
「このお騒がせ男!」
「……」
茉里と加瀬が言い合いを始め、チャイムが鳴るまで小さな騒ぎは続いた。
授業で先生の最後の課題を終えた後、美友紀は通知書の添付資料を開き、申込書を書き始めた。
最後の文字を書き終え、紙をしまった瞬間、机の上に影が落ちた。
誰かが指先で彼女の机を軽く叩き、冷たい声で問いかける。
「少し話せる?」