渡辺は軽く唇を引き結び、素早くスマートフォンの画面を整理すると、それを星野美友紀の前に差し出した。
「後はマイナンバーだけだよ。自分で入力して。」
手を洗ったばかりの美友紀は、少し気恥ずかしそうに言った。
「渡辺くん、ごめん、まだ手が濡れてて……代わりに入力してもらえる?」
「いいよ。」
渡辺は美友紀よりも二十センチ近く背が高いので、スマホを持ち上げると彼女からは画面が全く見えなかった。
ただの番号入力だし、美友紀も背伸びして覗こうとはせず、静かに番号を口にした。
気づかないうちに、彼女が数桁を言い終える前に、渡辺はもう入力を終えていた。
「できたよ。間違いがないか確認して。」
美友紀はスマホを受け取り、ざっと内容を確認してから一番下までスクロールした。
「このまま送信していいの?」
「うん。」
申し込みフォームを送信し終え、美友紀はようやく肩の荷が下りた気がした。
「明日の朝八時に迎えに行くから、今夜のうちに荷物をまとめておいて。今度は一ヶ月以上だから、着替えを何着か持ってくれば十分だよ。物理の資料はもう印刷してあるから、明日渡す。」
渡辺の気遣いに、美友紀の心がじんわりと温かくなった。母親の玲子が再婚してから、こんなふうに気にかけてくれる人は初めてだった。
「ありがとう、渡辺くん。色々お世話かけちゃって。」
「早く帰って休んでね。」
渡辺の後ろ姿を見送りながら、美友紀は大きく伸びをした。スマホをポケットにしまい、活動室を軽く片付けると家路についた。
帰り道、小林茉里と安西陽太に「今日は帰るね」とメッセージを送ると、二人は「泊まりに行きたい!」と騒いでいた。でも明日出発だし、今回は断るしかなかった。
家に着くと、美友紀はラーメンを作りながら物理の公式を口の中で繰り返し、荷造りを進めた。
夜が深まり、星が空を飾る。
中島陽介は屋上の入口に立ち、加瀬敦司がせっせとバラを両脇に並べ、中央にはキャンドルでハートを作っているのを見ていた。
「何やってんだよ?」と陽介が眉をひそめる。
敦司は汗を拭いながら、どこか調子のいい笑顔を浮かべた。
「どう?ロマンチックだろ?」
「ロマンチックの意味、間違ってない?」
「何言ってんだよ!ネットで告白のコツ調べまくったんだぜ?こういうのが一番効果あるって!」
「別に告白するつもりなんてない。」
相変わらずぶっきらぼうな口調だったが、耳の先がほんのり赤くなっていた。だが、夜の暗さとろうそくの光で誰にも気づかれない。
「じゃあ、中島くん、時間だから俺は引き上げるわ!」
陽介は返事もせず、地面のキャンドルをじっと見つめていた。
「中島くん!中島くん!」敦司がこっそり戻ってきて、ドアの隙間から小声で、「明日彼女に会ったらさ、『お義姉さん』って呼ぶべき?それとも……」
「帰れ。」
「はいよ!」
……
広い屋上には陽介だけが残った。
学校には寮もあるが、受験が近いせいで教室で勉強している生徒も多い。
ふと、昔のことを思い出す。
美友紀もよく、こんなふうに質問攻めにしてきた。
まさか、全部演技だったとはな。
でも、まあいいさ。
どうせみんな、何かしら演じてるんだろ。
校舎の灯りが一つずつ消え、建物全体が暗闇に包まれるまで、陽介はじっと動かなかった。
振り返ると、キャンドルはすでに消えていた。
もう十時か。
彼女は二時間も遅れている。
鮮やかなバラも萎れて、まるで自分の負けを嘲笑っているみたいだ。
近づいてみると、固まった蝋が脂のようにべっとりと残っている。
思わず足で蹴飛ばし、跡形もなく壊してしまった。
家の資産は桜ヶ丘の住宅地にもある。
運転手が車を美友紀の家の前まで静かに停めると、ちょうど部屋の明かりが消えるのが見えた。
彼女が自分に気づいたかどうかは分からない。
だが、LINEのメッセージに赤いビックリマークがつき、何度送っても失敗するだけで、もう試すのをやめた。
電話もメールも、もうかける気はしなかった。
後ろからクラクションが鳴り、陽介ははっとして車に戻った。運転手に頼んで、美友紀の家が見えるけど邪魔にならない場所へ移動してもらう。
車のドアにもたれながら、無意識にポケットを探る。
やがて苛立ったように窓を叩き、「タバコ一本ちょうだい」と声をかけた。
……
朝日がカーテン越しに差し込んだとき、美友紀は目を覚ました。
昨夜は荷造りが終わるとすぐに眠気に襲われ、勉強もしないで寝てしまった。
身支度を整え、朝食を作っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
時計を見ると、もう八時だ。
急いでドアを開けると、渡辺が立っていた。
「準備できた?」
相変わらず穏やかな声だった。
「ちょうど朝ごはんできたとこなんだけど、一緒にどう?」
「今食べると、時間がちょっとギリギリかも。」渡辺は少し眉をひそめた。「車の中で食べてもいいかな?」
美友紀は思わず吹き出しそうになった。
「普通は車内で食べるの嫌がるのに、逆に私に聞くなんて……」
「僕は気にしないよ。」渡辺は微笑みながらも、真剣なまなざしで見つめてきた。「美友紀は?」
「もちろん、平気だよ。」
……
渡辺の車が桜ヶ丘の住宅地に入ると、陽介はすぐにそれに気づいた。
問い詰めたい気持ちになったが、自分にはそんな資格がないと分かっていた。
美友紀が朝食を手に、笑顔で渡辺の車に乗り込むのを見て、車が走り去っていく。
陽介は視線を落とし、両手を強く握りしめた。