渡辺雅彦の車が角を曲がって見えなくなるのを、中島陽介は黙って見送った。拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むほどだった。
「車を追って。」
運転手は主の険しい表情を見て、余計なことは聞かず、すぐにアクセルを踏み込んだ。
幸い、桜ヶ丘のゲートで少し足止めを食ったおかげで、なんとか見失わずに済んだ。
陽介はシートにもたれながら、前方の車をじっと見据えている。長い指で肘掛けをトントンと叩き、冷房が効いていても、その目の奥に渦巻く感情は収まらない。
「車間を取れ。気付かれるな。」彼の声は低く、押し殺したようだった。
中島家の運転手は慣れたもので、絶妙な距離を保ちながら車を進める。
「今日は僕たち二人だけ?」
渡辺は助手席のドアを開けてくれた。星野美友紀はてっきり後部座席に誰かいると思っていたが、車内は二人きりだった。
彼女の知る限り、今回の研修に参加するのは二人だけではないはずだ。
桜ヶ丘のゲートを通過すると、渡辺はそのまま高速の入口へと車を走らせた。
「他の人たちは自分で運転してくるんだ。一緒じゃないよ。」
その答えは予想通りだった。物理オリンピックに出るのはたいてい三年生で、彼女のように二年生で参加するのは珍しかった。
「これ、前に言ってた資料。」渡辺は彼女の疑問を遮るように資料を手渡した。「朝ごはん、まだ食べてないんだろ?食べながら見てみて。分からないことがあったら何でも聞いて。」
調子を外され、美友紀もそれ以上は聞けなかった。
自分の知識には自信があるが、何度復習しても損はない。
左手で朝食をつまみつつ、右手で渡辺がくれた資料をめくっていく。
そのとき、前の車が急ブレーキを踏んだ。
渡辺もあわててブレーキを踏み、シートベルトが美友紀の肩に食い込んだ。驚いている間に、彼に肩を掴まれて全身を見回された。
「大丈夫?」
彼の真剣な眼差しに、美友紀は少し居心地悪そうに顔をそらした。「うん、大丈夫。前で何かあったの?」
気になるふりをして前を覗いてみたが、すでに前の車は動き出していた。
渡辺はすぐに車を発進させ、さっきの動揺を隠すように、あるいは美友紀の気持ちを気遣ってか、急いで説明した。「何事もなくてよかった。もし何かあったら、木下先生にどう説明すればいいか……」
その一言で、美友紀の緊張した肩の力が抜けた。
渡辺が自分に特別な感情を抱いているとは、彼女は一度も思ったことがない―
研究室に長くいると、何事も論理的に考える癖がつく。先輩が後輩の面倒を見るのは、当たり前のことだ。
彼女は資料を握りしめ、無意識に紙の端を指でなぞった。
ふと、前世のあの夏を思い出す。
陽介が「喉が渇いた」と何気なく言った一言で、授業前に急いで冷たい炭酸を買いに走った。先生に見つからないよう、日よけのパーカーに隠して戻ったら、彼はもう別の飲み物を飲んでいた。
気がつけば、缶の水滴で服が濡れていた。
でも、今は違う。
最後の一口を飲み込んで、再び資料に集中する。
大会での優勝、名門大学の合格通知、夜遅くまで続く研究―
それが今の彼女の目標だ。
渡辺の瞳に時折浮かぶ、あの熱い想いのようなものも―
炭酸の瓶についた水滴のように、いずれは消えてしまうだろう。
……
一方、後を追う中島陽介の車も急ブレーキをかけた。
追跡しつつも気付かれないようにと、数台はさんで追うしかなかった。
渡辺の車に集中しすぎて、突然の急ブレーキには間に合わず、前の車と軽く接触してしまう。
前の車の運転手が下りてくると、陽介の周囲は張り詰めた空気に包まれた。
この機会に処理を済ませてしまおうと顔を上げたとき、渡辺の車はすでに走り出していた。
「早く追え!」
その時、窓がノックされ、前の車の運転手が賠償を求めてきた。
遠ざかっていく車影を見つめながら、陽介は思わず苛立ちを隠せない。
彼は窓を下げ、低い声で言った。「百万円、一分以内に車をどけろ。」
運転手はせいぜい一万円程度の請求を考えていただけに、いきなり百万円と言われて舞い上がり、すぐに銀行振込を求めた。
「あと三十秒だ。」陽介の冷たい声に、相手は慌てて車を移動させた。
振込が終わると、ちょうど道が開き、運転手はすぐにアクセルを踏んで車を発進させた。
……
車内、美友紀は重苦しい沈黙に息が詰まりそうだった。
なんとか話題を探し、前から気になっていたことを思い出す。
「ねえ、渡辺くん。今日……どうやってこのマンションに入ったの?うち、セキュリティ厳しいんだよ。」
渡辺は予想していたのか、落ち着いた様子で答えた。「僕もあそこに部屋を持ってるんだ。」
美友紀は目を丸くした。その口調は、まるで天気の話でもしているかのように自然だった。
やっぱり、環境が人を作るんだな。彼女の周囲には、驚かされる人ばかりだ。
「そうなんだ……」と頷き、「今まで見かけなかったけど」と続けた。
少し安心したものの、また疑問が浮かぶ。
「でも……どうやって私の部屋を知ったの?」