車内の空気が一瞬で張り詰めた。
美友紀は小首をかしげ、好奇心いっぱいの子どものように雅彦の横顔をじっと見つめた。
「そんな顔で見るなよ」と雅彦が喉の奥で小さく笑う。「このカーブを曲がってからな。」
彼女がナビを見上げると、ちょうど前方にカーブが現れた。
美友紀は素直に体を起こし、窓の外を流れる街路樹を見つめた。
「そんなに知りたいのか?」
不意に雅彦が言い、どこか誘惑めいた響きに美友紀は我に返った。
彼女は慌ててうなずく。「教えてくれるの?」
「もちろんさ。」雅彦は前方を見たまま、気の抜けたような口調で続ける。「美友紀、忘れたのか?俺たち、ずっと一緒に育ってきたんだろ。あの言い方で言えば……」
「幼なじみ、だよね。」
雅彦の口から「幼なじみ」と聞くと、どうにも違和感がある。
どこかねっとりとした親密さを含んだ言葉に感じてしまう。
でも、実際はただの幼なじみで、しかも同じ師匠に学ぶ先輩後輩だ。
「お前が東京で一人暮らし始めたとき、俺……お母さんに会いに行ったんだよ。お前のこと頼むって言われてな。」
「でもその頃、お前は中島のことしか見てなかったし、邪魔したくなくてさ。」
美友紀は口を開きかけたが、言葉が出なかった。
なぜか自分が悪者みたいな気分になる。でも、何もしていないのに。
「母は……」美友紀は窓の外を見ながら、何気なく尋ねた。「元気にしてる?」
「元気だよ。」
その答えに、美友紀は黙り込む。
まあ、そうだよね。母の再婚相手が自分を受け入れてくれたなら、母を大事にしてくれているはずだ。
母が幸せなら、それでいい。他はどうだって構わない。
彼女は握りしめた資料の端が白くなるほど力を入れながら、ふと幼い頃を思い出した。
あの頃、父は小さな会社を経営していた。家族で贅沢できるくらいには裕福だった。欲しいものは何でも手に入った。
家族で遊園地に行き、メリーゴーランドに乗る彼女を見て、写真を撮りながら「世界で一番かわいいお姫様だ」と言ってくれた。
あの頃は家族の絆がとても強かった。
みんなで笑い合えた。
でも今は、自分が余計な存在になった気がする。誰にも必要とされないお荷物のような気がしてしまう。
まばたきした瞬間、不意に涙がこぼれた。
咄嗟に唇を噛み、嗚咽を飲み込む。雅彦に気づかれたくなくて、横を向いたまま、いつの間にか眠りに落ちた。
雅彦はしばらく返事がないのに気づき、ふと彼女を横目で見た。その瞬間、息が止まりそうになった。
大切に思うその人が助手席で小さく丸まり、長いまつげに涙の粒を残したまま、陽射しを浴びて眠っている。
あまりにも美しい光景だった。
思わず車をサービスエリアに停め、そっとスマホでその瞬間を撮った。
涙を拭いてあげたい、これからずっと守りたい、もう二度と傷つけたくない――そう思いながらも、粗い指先が彼女の肌を傷つけてしまいそうで手が出せない。彼女の夢を邪魔したくなくて、何より、彼女に避けられる目を見たくなくて。
結局、シャッターを切るだけで満足した。
目的地はそこまで遠くなかった。高速を降りて十数分で到着した。
本当は高速を使ったせいで遠回りしたけれど、それもこの時間を少しでも長く味わいたかったからだ。
まだ終わらせたくなかった。
ホテルに着くと、スタッフが案内に来た。騒がしい気配の中、美友紀がゆっくり目を覚ました。
「もう着いた?」
寝起きの声は少しかすれていた。
「ああ。」雅彦はシートベルトを外しながら、彼女の額に手のひらをそっとあてた。
まだ意識がぼんやりしている間に、そのぬくもりを感じたくて。
彼女が眉をひそめて避けようとした瞬間、雅彦は自分の額に手を移した。
「熱はない。」
短くそう言われ、美友紀はほっとしたように眉を緩める。「熱なんてあるわけないでしょ!」
「まだ眠いなら、ホテルで少し休んでいくか?」
「いいよ、みんなを待たせるのも悪いし。」
美友紀はシートベルトを外し、大きく伸びをした。
「ちょっと待て。」
ちょうどドアを開けようとした瞬間、雅彦が声をかけた。
「なに……?」
言葉が終わらないうちに、温かい手が頬に触れた。
美友紀は驚いて彼を見つめ、思わず身を引いた。
「まだ寝ぼけてる?涙の跡があるぞ。」
せっかく生まれた微妙な空気も、その一言であっさり消えた。
気まずさもどこかへ消えてしまう。
「本当に寝ぼけてたのかも。」
顔をこすり、目を何度も瞬かせてから、彼女は車を降りた。
二人が並んでホテルに入ったちょうどその時、中島陽介の車がゆっくりと路肩に停まった。
中島は車窓越しに二人の姿を見つめ、胸の奥が凍りつくような感覚に襲われた。
「お客様、こちらは駐車できません。」
スタッフが声をかけたが、中島の目を見た瞬間、緊張した様子で言葉を詰まらせた。
「坊ちゃま……」
中島グループの社員で彼を知らない者はいない。中島家の一人息子、将来の後継者。父親と共にビジネス界で名を馳せ、よくグループのホテルにも視察に訪れる。
「上の階、まだ部屋は空いてるか?」
「お客様のスイートルームはずっとご用意しております。」
中島はうなずいて車を降りた。
回転ドアをじっと見つめ、喉を鳴らしながら、わずかに手が震える。
二人に何をしに来たのか問いただしたい。
けれど、見てはいけないものを見てしまいそうで怖かった。
美友紀が雅彦に抱きしめられている姿、二人が同じ部屋に泊まる様子――想像するだけで嫉妬がこみ上げ、ホテルごと壊してしまいたくなる。
迷っているうちに、ロビーに入った時にはもう二人の姿はなかった。
不安が胸を締めつける。中島は急いでフロントに向かい、冷たい声で尋ねた。
「さっき入った二人……何部屋取りましたか?」