フロント係は来客の顔を確認すると、とっさに立ち上がってお辞儀をしそうになったが、相手が手で制した。
「さっきの二人は、部屋をいくつ取った?」
繰り返される質問に、フロント係の額には冷や汗が浮かぶ。
「中島社長、プライバシー規定により……」
「答えろ。」
中島陽介は公式の返答などまるで聞く気がなく、冷たい声で遮った。
「に、二部屋です。」
その答えを聞いた瞬間、彼の張り詰めていた表情がわずかに緩む。カウンターに置いた指先には、汗の跡が残っていた。
「部屋は隣同士か?」
フロント係がほっとしたのも束の間、すぐさま新たな問いが飛んできた。
「い、いえ、隣ではありません……」
中島陽介は踵を返そうとしたが、フロント係が小さな声で付け加えた。
「ただ……“便利だから”と言われて、向かい合わせになる部屋をご用意しました……」
「便利?」中島陽介は冷笑した。「四部屋取れ。二人の隣にもそれぞれ二部屋ずつ、三十分以内にそのフロアを空にしろ。」
「中島様、プレジデンシャルスイートは……」
「聞こえなかったのか?」
中島陽介が冷たく睨むと、フロント係は震えながらすぐに四枚のルームキーを差し出した。
「三階、左手です。」彼女は歯を鳴らしながら答える。「すでに“Do Not Disturb”に設定済みで、警備も五分以内に配備いたします……」
中島陽介は指先でカードの縁を弄ぶ。エレベーターの鏡には、青白く陰鬱な自分の顔が映っていた。
エレベーターが三階に着き、扉が静かに開くと、彼の鼓動も高まった。
もし今、彼女に会ってしまったら……
だが、廊下には誰もいなかった。彼一人きりの影が伸びているだけだった。
渡辺の308号室と星野の309号室には、どちらも「起こさないでください」の札がかかっている。308の前まで来ると、中は静まり返っていた。
迷っていると、309から明るい笑い声が聞こえてきた。
「ねえ渡辺くん、なんでエアコン暖房にしちゃったの、ははは……」
「このエアコン、つけるとすぐ暖かくなるんだよ……」
「絶対、調整の仕方知らないでしょ!」
「まあ、君の言う通りかも……」
……
星野の楽しげな声と、渡辺の優しい返事がはっきりと耳に届く。
中島陽介はしばらくその場でじっと耳を澄ませ、やがて苦笑した。
これが“便利”ってやつか……
やがて二人は本題に入り、笑い声も遠のいていった。
エレベーターが「チン」と三階で止まる音がして、中島は素早く表情を消し、306号室のカードをかざして中に入った。
「お坊ちゃま。」
運転手の声に、中島は素っ気なく返事をした。
「社長が、いつお戻りになるかと……」
「視察中だと伝えてくれ。終わり次第戻る。」
「かしこまりました……」
運転手が静かにドアを閉めたその音が、なぜか彼の胸に重く響いた。
無意識にポケットを探ったが、手元には何もなかった。
ふと思い出したのは、以前タバコを吸っていた時、星野が眉をひそめた顔だった。
ため息をつき、壁にもたれながら、隣室から断続的に聞こえる会話に耳を澄ませる。
一言一言が耳に突き刺さる。渡辺の穏やかな指導、星野が笑う高い声──どれも彼の心を切り裂いた。
中島陽介はふと、天井のシャンデリアを見上げた。
カーテンの開いた窓から差し込む光がクリスタルに反射して、手のひらにまだらな光の粒を落とす。それが目に染みた。
……
星野と渡辺は、外の様子などまったく知らず、目の前の資料に集中していた。
「ねえ渡辺くん、データまとめたから、見てくれる?」
渡辺は資料を受け取り、開けたペットボトルを自然に彼女へ差し出す。
「お疲れさま、よくできてるよ。」
星野が水を飲み上を向いた時、彼の手がふわりと彼女の頭にのった。ご褒美のように、優しく撫でる。
そんなふうに触れられるのは、どうにも慣れない。
逃げようとした瞬間、渡辺はもう手を引っ込めて、資料を指差し顔を寄せた。
「ここの計算、ちょっと違ってるかも。結果が合わない……」
星野はすぐに気がそれ、慌てて紙を取り直して計算し直す。
「ほんとだ……」
渡辺は机に向かう彼女の後ろ姿を見て、思わず口元がほころぶ。
学問の話をしている時だけ、彼女はそばに寄るのを許してくれる。
「ねえ渡辺くん、これで合ってる?」
渡辺はざっと目を通し、時計を横目で見てから、名残惜しそうに資料を置いた。
「もう大丈夫。でも、そろそろ出発しないと。」
本当は、星野はホテルに着いた時点で、すぐに会場へ行きたかった。
だが渡辺が、時間が変わったからと資料整理の時間を取ってくれたのだった。
「じゃあ……行こっか?」
渡辺を見上げると、彼はじっと見つめたまま動かない。星野は思わず促す。
「荷物、片付けなくていいの?」
渡辺は立ち上がりながら、扉の方へ歩いていく。
「着替えたりしなくていいの?」
星野は自分の服を見下ろした。
白いシャツにジーンズ、スニーカー。シンプルで動きやすい格好だった。
不思議そうに瞬きをする。
「なんで着替えるの?これじゃダメ?」
渡辺は首を横に振る。
「女の子って、外出するときは化粧するものだと思ってた。」
「大会に来てるだけだよ?別におしゃれは必要ないでしょ。」
「……たしかにね。」
渡辺はドアを開けて彼女を先に通し、自分もカードキーを抜いて後に続いた。
研修会場までは車で数分ほど。
ロビーに入ると、他の参加者はほぼ集まっていた。
二人が立ち止まると、スタッフが近づいてきた。
「皆さん、こんにちは。今回の大会の担当です。寮の部屋はすでに割り当ててありますので、好きな部屋を選んでください。何かあればいつでも声をかけてください。」
そう言って、QRコードを提示した。
星野は眉をひそめて渡辺に小声で尋ねる。
「主催者が寮を用意してくれてるのに、どうして私たちはホテルに泊まってるの?」