「ほし、ちょっと聞いてもいい?」
かなり離れた場所まで歩いていた星野美友紀は、その声を耳にして幻聴かと思った。
振り返ると、渡辺雅彦が足早に追いつき、真剣なまなざしで彼女を見つめている。本当に話しかけてきたのだとようやく実感した。
前世で、中島陽介が夏川明佳に連れられて帰ってきたとき、酔った彼の寝言が耳元でまたよみがえる。
でも、ついさっき見た、白いシャツを着て凛とした立ち姿、端正な顔立ちの少年――その姿が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
美友紀は何かを言おうと口を開くが、肯定も否定も言葉にならず、喉でつかえてしまう。
そんな彼女の表情を見て、渡辺はすべてを察した。
「彼は、君にふさわしい人じゃないよ」と渡辺はそっと肩に手をかけ、半ば支えるように歩き出す。
「よく考えてほしい、ほし。本当に君を大切に思っているなら、こんなに長く追いかけさせたり、君が傷つけられているのを黙って見ていたりはしないはずだ。」
「そうじゃないなら、その人の心に君はいないってことだよ。」
その言葉を聞きながら、美友紀はゆっくりとうつむき、無意識に指先でシャツの裾をいじる。
渡辺の言葉は、彼女も痛いほど分かっている。
それでも、分かっているはずなのに、結末も、相手の気持ちも分かっているのに、あの人が少しでも近づいてくれるだけで、どうしても心が揺れてしまう。
前世での結婚生活にも、確かに安らぎの瞬間はあった。
「分かってる……」
……
午前二時半を回った頃、ようやく中島陽介が試験会場から戻ってきた。
静かな月明かりが廊下の窓から差し込み、彼の上に柔らかな銀色を落とす。
美友紀の部屋の前に立ち、赤インクのついた指先がわずかに震えている。
さっき答案用紙を採点していたとき、彼はわざわざ美友紀のものを探し出した。
今世に生まれ変わって、初めて彼女の「本物」に触れた瞬間だった。
彼女の文字はいつも美しく、彼女が課題を質問してきた時のノートや、自分でもこっそり真似して書いてみたことがあるくらい、よく知っている。
でも今回は、文字以上に彼女の解き方そのものに引き込まれた。
こんなに聡明な一面があったとは、今まで知らなかった。
あのとき何度も同じ問題を聞きに来たのは、一体どういうつもりだったのだろう。
部屋の前の壁にもたれ、陽介は静かに目を閉じる。
どうして、自分は本当の彼女を知らなかったのだろう。
……
美友紀は悪夢を見た。
前世で必死に陽介を追いかけた自分。それに返ってきたのは、彼からの冷たい一言だった。
「君が嫌いだ」と陽介は言った。
「もしもう一度やり直せるなら、君とは二度と会いたくない」と。
ネットには罵声が溢れ、自分が夏川明佳と陽介を別れさせた張本人だと責められる。
目が覚めて、すべては夢だったと気づく。
まだ、やり直せる。
ベッド脇に手を伸ばすが、水のボトルはとっくに空っぽになっていた。
部屋には飲み物があるものの、どれも名前も分からないワインやエナジードリンクばかり。
ふと思い出す。下の階に自販機があったはずだ。スリッパをつっかけて、ぼんやりしたまま部屋を出る。
その瞬間、まさかと思う人物が目の前に立っていた。
「……中島くん?」
夢で見た人が、現実にそこにいる。
月明かりが陽介を照らし、その光景はまるで夢の続きのようだった。
「うん」と陽介は背筋を伸ばし、静かに答える。「僕だよ。」
けれど、影になった耳は真っ赤に染まり、手もかすかに震えていた。
だが美友紀はそれに気づく余裕もなく、悪夢の余韻で胸が苦しく、笑顔を作ることもできない。
「こんな時間に、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だよ」と陽介は返す。「こんな夜中に、どうして出てきたの?」
「水を買いに行こうと思って……」
「僕も一緒に行くよ」美友紀が言い終わる前に、陽介は慌てて口を挟む。
言い過ぎたと気づいたのか、「ちょうど僕も眠れなくて、少し歩きたかったんだ」と付け加える。
本当は断りたかった。でもこの時間ではやっぱり不安もある。
それに、陽介がここにいる理由も気になった。
だから、無理に断らなかった。
廊下を並んで歩くと、なぜか少し緊張する。
特にエレベーターに乗り込むと、狭い空間に二人きり。
金属の壁にぼんやり映る二人の姿を見て、なぜかこの光景を写真に収めたくなった。
けれど、そんな勇気は出なかった。
三階から一階まではあっという間。
何も話さないうちに、エレベーターの扉が静かに開く。
「何が飲みたい?」と陽介が自販機の前でスマートフォンをかざす。
でも美友紀が答えるよりも早く、自販機が音を立てて飲み物を落とす。
出てきたのは、カルピス。
ちょっと子どもっぽい。
でも、彼女の大好物だった。
まさか陽介もこんな甘い飲み物が好きなのか?と驚いていると、
次の瞬間、そのボトルが差し出された。
「これが好きなんだろ?」
一瞬迷ったが、結局受け取った。
手元のボトルを見つめながら、思わず口にする。「どうして知ってるの?」
一瞬、空気が止まる。
「簡単だよ」と陽介は微笑む。「いつも君が一番よく買ってるの、これだから。」
「私のこと、見てたの?」
つい口をついて出た言葉に、自分でも驚き、少し後悔する。
陽介が自分なんて気にするはずがないのに。
「うん」と彼は真剣な顔でうなずく。「ずっと、君のことを見てた。」
あまりに率直な言葉に、美友紀は言葉を失った。
広いロビーに、二人きり。
薄暗い照明の中、自販機の光が彼女の耳をほんのり赤く染める。
「……戻ろうか。」
どう返せばいいか分からず、美友紀はまた逃げてしまう。
追いかけられるかと思ったが、陽介は何も言わず、静かに後ろをついてくる。
まるで別人のように静かだった。
再び二人きりのエレベーター、気まずい沈黙を破る勇気をようやく振り絞る。
「……どうして、まだ起きてたの?」
「眠れなくて」と陽介は珍しく弱い表情を見せ、うつむく。
「なんで眠れないの?」
その問いが嬉しかったのか、エレベーターの鏡越しに、彼の口元がふっと緩むのが見えた。
「ほし、ちょっと聞いてもいい?」
突然の親しげな呼び方に、美友紀は思わず息をのむ。「な、なに……?」