「今の彼と、昔の彼、どちらが好きなの?」
「僕のこと、嫌い?」
星野美友紀は、中島陽介からどんな質問をされても動じないつもりだった。
けれど、まさかこんな突拍子もないことを聞かれるとは思ってもみなかった。
前世のあの頃、自分の想いも、彼を追いかけたことも、あれほどまでにあからさまだったのに――
どうして、彼はこんな質問をしてくるのだろう?
「どうしてそんなこと聞くの?」
星野美友紀は、胸の内の疑問をそのまま言葉にした。
「だって、最近君がずっと僕を避けてるから」
まるで彼は、美友紀がエレベーターの金属の壁越しにちらりと彼を見ていたことまで見抜いているかのようだった。二人の視線が、金属の反射に映って交わる。その瞬間、美友紀の指先は思わずきゅっと縮こまった。
「僕、何かしたかな? どうして君がそんなに僕を拒むようになったのか、分からなくて」
中島陽介の声は、かすかで柔らかい。
細い針のように、そっと美友紀の心の奥底まで刺さってくる。
美友紀は喉が詰まるようで、どう答えていいのか分からなかった。
まさか、前世のことが理由だなんて言えるだろうか。
自分がどんな最期を迎えたのか、彼に伝えることなんてできない。
かつてどんな手段で彼を縛りつけ、そして自分自身を追い詰めて手放したのか――
でも、今の彼はそんなことを何も知らない。
しばしの沈黙。
中島陽介は何も言わず、彼女が答えを探す時間を与えてくれていた。
やがて、エレベーターの扉がゆっくりと開く。
「ごめんなさい」
「ピン――」という開扉音と同時に、美友紀の謝罪が静かに響いた。
「昔、あなたをただ闇雲に追いかけて、しつこくしてしまったこと……本当にごめんなさい……」
「でも、僕は君に迷惑だと思ったことなんて一度もないよ」
誰もエレベーターを降りようとしない。
しばらくして、何も操作されないまま扉は再び閉まり、空間はふたたび二人だけのものになった。
静かに見つめ合う美友紀と陽介。
やがて、陽介がそっと彼女の手首を取った。
「……あの夜、どうして来なかったの?」
二人の手が重なるのを見つめながら、美友紀の頭は真っ白になる。
「ど、どの夜のこと?」
本当に何も知らない様子に、陽介は少し眉をしかめる。
「君の携帯のメッセージ、見せてもらってもいい?」
手首が離れる。その瞬間、美友紀はほんの少し寂しさを覚えつつも、素直にスマートフォンを差し出した。
パスワードを伝えようとしたが、彼は慣れた手つきでロックを解除してしまう。
思わず目を丸くする美友紀。
どうして彼がパスワードを知っているのだろう?
自分の誕生日でも入れたのかしら――
そんな考えがよぎる間にも、陽介はすばやくメッセージ画面を開き、熱心にチェックし始めた。
「おかしいな……加瀬敦司が確かに送ったはずなのに……」
「何のこと?」
彼の声が小さくて、美友紀にはよく聞こえない。思わず一歩近づいた、その時――
エレベーターが突然動き出した。
バランスを崩した美友紀は、前につんのめる。
転びそうになった瞬間、彼女は陽介の胸の中にすっぽりと収まっていた。
すぐそばで感じる、彼のすっとした香り。
「気をつけて」
その後、彼が何か言った気がしたが、美友紀にはもう自分の心臓の音しか聞こえなかった。
たった数秒の間、彼の腕が自分の腰をしっかりと抱きとめている感触だけが、全身を支配していた。
どうして……
こんなにも心が乱れるのだろう。
エレベーターが止まった時、美友紀は自分の激しい鼓動と、彼の満足そうなため息が耳に残っているのに気づいた。
慌てて彼の腕から抜け出し、服を整える。
手のひらにはまだ、彼の体温が残っていた。
廊下を見上げると、誰もいない。
美友紀は、先ほど彼から離れてしまったことを少し後悔した。
「少し話さない?」
陽介の声がまた響く。
美友紀の心は揺れていた。
本当は、彼とちゃんと話してみたい。
聞きたいこと、知りたいことがたくさんある。
けれど、さっきの出来事でまだ動揺が残っている。しかも明日から研修も始まる――
「今日はもう遅いから……」
不安そうに服の裾を握りしめる美友紀。
「じゃあ、また今度? しばらくはここにいるし、何かあったらいつでも声をかけて」
「……うん」
美友紀は小さく頷き、じっと彼を見つめた。
目の前の陽介は、記憶の中の彼とはまるで違う。
現実なのか夢なのか――彼女にはもう、分からなかった。
「連絡を取りたかったら、連絡先が必要だよね」
陽介は再び三階のボタンを押し、扉が閉まる直前、振り返って美友紀と目を合わせた。
その優しいまなざしに、彼女は現実感を失い、ただ小さく頷くしかできなかった。
「でも、全部ブロックしたままじゃ連絡できないよ。もう解除してくれない?」
彼に見透かされた恥ずかしさで、顔が一気に熱くなる美友紀。
うつむき、靴先をじっと見つめたまま、「……うん」と小さく返事をした。
エレベーターの扉がまた開く。
美友紀は逃げるように部屋の前まで駆け寄り、慌ててドアを開ける。
その背中に、陽介の少し寂しげな声が響いた。
「本当に嫌いじゃないの? そんなに僕を避けてばかりで、それでも嫌いじゃないなんて――」
美友紀の足が、その場で止まった。
「……本当に中島陽介なの?」
唐突な問いに、彼は一瞬きょとんとした顔を見せる。
そして、真剣な声で、冗談めいた言葉を返す。
「じゃあ……確かめてみる?」
美友紀は慌てて顔を背け、「嘘っぽい」とつぶやいた。
「何が?」
「あなた、嘘っぽい」
月明かりが、わずかなドアの隙間から彼女の横顔を照らし出す。
「本当のあなたを知らないだけなのか、それとも……全部が夢だったのか――」
不安げなその声に、陽介は胸が締めつけられる思いだった。
それでも、彼は微笑んで、できる限りやさしく語りかける。
「今の彼と、昔の彼、どちらが好きなの?」