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第21話 夜のささやき

「おやすみ。」


ドアノブを握った指がわずかに震え、無意識に振り返ると、遠くにいる中島陽介の姿が目に入った。


月光が銀色のヴェールのように彼の端正な顔立ちを照らし、普段は冷ややかなそのまなざしにも、どこか儚い優しさが滲んでいた。


とりわけ、今の彼の問いかけは——


どうしてこの言葉が彼の口から出てきたのか、想像もつかない。


「今の彼はどんな姿? 昔の彼はどんな人だった?」


静まり返った廊下には、針が落ちても聞こえそうなほどの静けさが満ちている。


二人は距離を隔てたまま、じっと見つめ合っていた。


影が二人の間に線を引き、星野美友紀はふと、時間と空間が歪むような感覚に囚われた。


見つめ合っているのに、まるで前世と今世、遠く隔てられているようだった。


「僕にチャンスをくれない? 少しずつでも話していきたいんだ。」


星野は最初、その言葉の意味を深く考えなかった。


遅い時間だし、また今度ゆっくり話そうという意味だろうと思い、軽くうなずいて「うん」と小さく返事をした。


ドアを開けて部屋に戻ろうとした瞬間、服の裾がそっと引かれた。


「ほし。」


彼の息遣いがすぐそばで感じられ、雪松と月光のような澄んだ香りが漂う。


振り向いた途端、彼の温もりを感じる影に思わず飛び込んでしまった。


その距離の近さ、そして曖昧な空気に、今さらながら驚く。


後ろから見れば、まるで彼に抱きしめられているかのようだった。


「あなた……」


反射的に後ろへ下がろうとしたが、彼の腕が背中を支えていた。


「気をつけて。」


しかし、倒れそうな様子はない。


星野は自分の動揺に密かに腹立たしさを覚えた。


耳元には、自分の心臓の鼓動が雷のように響いている。


これは自分の心臓の音なのか?


前世であれほど色々あったのに、どうして今でも彼にこれほど心を乱されるのだろう。


「大丈夫……」


彼の腕から抜け出し、少し距離を取ると、思わず熱くなった頬を手で仰いだ。


「暑い?」


彼の声にはどこか甘い響きがあり、身をかがめてさらに近づいてくる。


雪松の香りが一層強くなり、温かな息が耳元をかすめ、全身に細かな震えが走る。


このまま消えてしまいたい——そんな気持ちになる。


けれど「うん」とは言えなかった。もしそう答えたら、きっと彼は部屋に入り込んでくる気がして。


彼がそんな人ではないと分かっていても、目の前の中島陽介は、記憶の中の彼とはまるで違う。


確信が持てなかった。


だから、はっきりと首を横に振った。


ただ、彼の手がそっと額に触れた時、諦めにも似た感情が胸に広がった—


——期待も驚きもなく、ただ力が抜けたような思い。


「中島陽介、あなた……」彼の瞳に浮かぶ複雑な色を見つめながら、ふいに「何かあったの?」と尋ねた。


なぜ彼がこんなに変わったのか、星野には理解できなかった。


最悪の可能性さえよぎる——自分が生まれ変わったのなら、彼だってあり得るのではと。


けれど、それなら彼はもっと遠くに行ってしまうはずだ。こんなふうに近づいてくるはずがない。


中島も、どうやら違う意味に受け取ったようだった。


低く、男らしい声が少しだけ寂しげに、耳元に響いた。


「ほし……」


初めてそう呼ばれた時は驚いたが、今ではすっかり慣れてしまった。


「なに?」


中島のしょんぼりした表情を見て、ふと二人で一緒に世話をした小犬のことを思い出した。


残念ながら、病気であっという間にいなくなってしまったけれど。


なぜか急に、彼の頭を撫でてやりたくなった。


少しかがんだ彼の頭の上には、ふわふわの髪が広がっている。


見ているだけで、その感触が伝わってくるようだった。


手を伸ばしかけて、思わずためらい引っ込めようとした瞬間、彼がその手首をそっと掴んだ。


「撫でてみる?」


今日の中島陽介は、あまりにも積極的だった。


反応する暇もなく、彼は星野の手を自分の髪の上に導き、さらに身をかがめて合わせてくれる。


「中島陽介……」


「いるよ。」


呼びかけると、すぐに返事が返ってくる。


星野は小さくため息をつき、どこか投げやりな声で言った。


「結局、何がしたいの?」


廊下の空気が一気に張りつめる。


珍しく星野は沈黙し、ただ静かに彼を見下ろしていた。


彼の表情が、最初は甘えるようだったのに、だんだんと淡々と、そしてどこか距離を感じさせるものに変わる。


最後には、不思議なくらい、哀しげな色を帯びていた。


「ほし、まだおやすみを言ってくれてないよ。」


なんて馬鹿げたことを、と星野は思う。


「でも、私……」


言いかけて、言葉を飲み込んだ。


本当に、言わなくなったのだろうか?


かつて、耳をふさいででも愛を求め続けた自分は、毎日必ず「おはよう」と「おやすみ」を彼に伝えていた。


一番早くなくてもいい、でも誰よりも長く続けると約束した。


いつから言わなくなったのだろう。


たぶん、大学を卒業して、無理やり彼と結びつき、その後慌てて逃げ出したあの日々からだ。


まさか、それで子どもを授かるとは思わなかった。


ただ怖くて、どうしていいか分からなかった。


妊娠を知って慌てて彼に伝えた時のこと、今でも彼の目の色が忘れられない。


それでも、彼は責任を果たそうと、結婚を選んでくれた。


式もなく、誰にも祝福されず、ただ役所で書類を交わしただけ。


それで一時、法的には彼と一緒になった。


その後、中島陽介はますます忙しくなり、会社か出張先にいるのが当たり前。


家に帰ってくるのは出張がない時だけで、いつも夜遅く。


客間で寝たり、時には服のまま自分の隣で横になることもあった。


彼が自分を愛していないと分かっていても、そんな距離感が辛かった。


そしてあの日、中島雅子が二人の結婚を知り、離婚届を持ってやってきた。


冷たい言葉と、軽蔑するような眼差し。


その一言一言が、星野に別れを促していた。


諦めるまでには、夏川明佳が彼を家まで送ったあの一晩しかかからなかった。


中島陽介は、そんなことを何も知らない。


目の前のあどけない少年を見つめながら、星野はようやく微笑んだ。


「もしあなたが聞きたいなら、話すよ。」


「でも、中島陽介、以前の約束はもう取り消す。……もう毎日言うことはないかもしれない。」


「おやすみ。」

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