最後の一言を口にした瞬間、星野美友紀は中島陽介の表情を振り返ることさえできなかった。
ほとんど逃げるようにして部屋へ戻り、勢いよくドアを閉めた。
扉にもたれかかりながら、星野美友紀はしばらく呆然としていた。
もしも前世で、こんなふうに中島陽介が感情を見せてくれていたら、どれほど嬉しかっただろう。
想像するだけで胸が高鳴る。
だが、もうそんなことを望む自分ではない。
今の彼女は、恋愛に縛られるつもりはなかった。
家に閉じ込められ、彼の帰りを待ち続ける日々にはもう戻りたくない。
誰かの見下すような視線や、冷たい態度にも耐えたくない。
かつて憧れていたように、もっと大きな舞台に立ち、研究の道で自分を輝かせたい。
そのために、これからもひたむきに進み続けるつもりだった。
今、彼女にできることは、この大会で勝つことだけだ。
手にしていたカルピスは、いつの間にか体温でぬるくなっていた。
自販機で買った時の冷たさは、もうすっかり消えている。
キャップを開け、何口か飲んで喉を潤すと、洗面所に入り、冷たい水で顔を洗った。
頭をすっきりさせなければ。
ひとしきり気持ちを落ち着かせてベッドに横になったが、もう眠気は戻ってこなかった。
何度も寝返りを打ちながら、夜が明けかけた頃、ようやく浅い眠りについた。
しかし、まるで目を閉じたばかりのような感覚のまま、激しいノックの音で目を覚ました。
「なんだか元気がないみたいだね?」
渡辺雅彦の車で助手席に座り、彼が用意してくれた小籠包をつまみながら、星野美友紀はぼんやりしていた。
不意にそう尋ねられ、少し気まずい思いがした。
まさか昨夜の中島陽介とのことで眠れなかったとは言えない。
彼女が黙っていると、渡辺雅彦は自分で理由を察した。
「もしかして、昨日の試験結果が気になってるの?」
その言葉で、昨夜の出来事にかき消されていた不安が、ふいに蘇ってきた。
「ちょっとだけ……」
信号待ちの間、渡辺雅彦はちらりとこちらを見て、くすっと笑った。
「君の実力なら、心配いらないだろう?」
星野美友紀はどう返していいかわからなかった。
彼女が失ったのは、たかだか半年間ではない。二つの人生分の時だ。
「……そうだといいんだけど」
二人で学校のホールに入った瞬間、星野美友紀は最も会いたくなかった人物と鉢合わせになった。
だが、昨夜と違い、中島陽介はいつもの冷静で距離を置いた態度に戻っていた。
まるで昨夜のことが、すべて幻だったかのようだ。
どんな顔で声をかければいいのか分からず、昨夜のやりとりもあって、そのまま通り過ぎようとしたとき、背後から声がした。
「美友紀……」
彼女が振り返る前に、渡辺雅彦が先に応じた。
「君がその名前で呼ぶ資格があるのか?」
突然の問いかけに、星野美友紀も思わず眉をひそめた。
「何か用ですか?」
中島陽介を見ると、彼は僅かに眉を寄せていた。気のせいか、少し怒っているようにも見える。
だが彼女には、何も心当たりがなかった。
「頑張って。君ならできると信じてる」
その一言に、星野美友紀はどう返せばいいか分からなかった。
ただ、ぎこちなく微笑み、「ありがとう」とだけ告げた。
階段の踊り場まで来たとき、渡辺雅彦が急に彼女の袖を引っ張った。
「美友紀、僕に何か言いたいことはないの?」
「渡辺くん、それはどういう意味?」
困惑しながら問い返すと、渡辺雅彦の顔には珍しく不機嫌さが浮かんでいた。
「君はまだ、彼とやりとりしているの?」
その問いに、星野美友紀はさらに眉間にしわを寄せた。
「どうしてそんなこと聞くの?」
彼女の不快感に気づいたのか、渡辺雅彦はふっとため息をついた。
「美友紀、君のためを思って言ってるんだ」
星野美友紀は黙って彼を見つめた。
「大会直前に、彼が現れるのは君にとって良くない影響だと思うんだ……。
名家の中島家の跡取りが、わざわざスタッフなんてするはずがない。もし本当に裏方だけなら問題ないけど、君の調子を崩すようなことがあれば……」
渡辺雅彦の目には、冷たい色が宿った。
「僕は木下先生に、どう説明すればいいんだろうね」
その言葉に、星野美友紀の警戒心は一気に崩れた。
「渡辺先輩、約束します」彼女は袖を引き戻し、指を立てて見せた。「今は大会のことしか考えていません。他のことに気を取られるつもりはありません」
「その言葉が聞けて安心したよ」
これ以上は追及しても無駄だと悟ったのか、渡辺雅彦はそれ以上何も言わなかった。
教室の前まで来ると、渡辺雅彦はトイレに行くと言い、星野美友紀はひとりで教室へ入った。
昨日と同じ試験会場、同じ席。
みな黙って自分の席に座り、案内を待っている。
学校ごとに席が分かれているため、星野美友紀の周りは同じ学校の生徒ばかり。
彼女はほとんど彼らを知らなかった。みな一つ上の先輩ばかりだ。
高2で転校してきてからは、最初に渡辺雅彦と何度か大会に出たきり、その後は中島陽介を追いかける日々だった。
他の生徒と親しくなる余裕などなかった。
そのせいで、席に着いても声をかけられる知り合いは一人もいない。
それが、前世を思い出させた。
大学時代も中島陽介を追いかけてばかりで、ほとんど孤立していた。
卒業後は彼と結婚し、専業主婦になった。
最初は小林茉里とたまに連絡を取っていたが、中島陽介の家柄もあって、ほとんどが携帯メールだけだった。
小林茉里も家の都合で遠くに嫁ぎ、次第に疎遠になった。
自分の立場もあって、中島家にいながら周囲からはよそよそしく扱われた。
親しくしすぎると、何か裏があると思われることも多かった。
だからこそ、桜ヶ丘の広い邸宅で、夜遅くまでひとりきり過ごすことが多かったのだ。
だが、自分が他人を知らなくても、相手は自分を知っているかもしれない。
ぼんやりと爪をいじっていると、背後から声をかけられた。
「星野……星野美友紀さん?」
突然名前を呼ばれ、星野美友紀は驚いて振り返った。そこには数人の男子生徒が立っていた。
「君、星野美友紀っていうんだよね?」