携帯の着信音が突然鳴り響いた途端、個室の外の物音がぴたりと止んだ。
ここまできて、もう隠れる意味はない。
発信者は深沢知之だった。
なぜこのタイミングで電話をかけてきたのかは分からない。ただ、まるで運命に背中を押されているような、そんな絶妙なタイミングだった。私は最悪の状況で、彼らと向き合うことを余儀なくされた。
私は平然とドアを押し開け、歩きながら電話に出る。
「どこにいる?」
深沢の声が聞こえる。
「聖和病院よ。」
私は短く答え、そのまま電話を切った。
私は視線を二人に向け、できるだけ冷静な態度を装った。
哲也と高瀬雅美の顔には、驚きと動揺が浮かんでいる。まるで幽霊でも見たかのように、数秒間固まったままだったが、やっとのことで慌てて体を離した。哲也は必死でズボンを引き上げている。
高瀬雅美は顔を真っ赤にしている。どれだけ図太い神経をしていても、こんな場面を目撃されてはさすがに動揺するだろう。しかも、目の前にいるのは哲也の正真正銘の妻である私だ。
彼女は悔しさを隠せない様子で、ゆっくりと洗面台から降りて服を整え始めた。
「明里さん、どうせ見られたんだから、もう隠す必要もないわ。私、哲也と付き合ってる。そして、妊娠したの。」
高瀬雅美は挑発的に私を見つめる。
「分かってるなら、とっとと荷物まとめて出ていって。」
私は一瞬絶句し、思わず彼女の平らなお腹に視線を落とした。
だから昨日、あんなに私の子どもを無理やり始末しようとしたのか。彼女も妊娠していたから――。
なんという皮肉だろう。
私は鋭い眼差しで哲也を睨みつけた。
「妊娠してるのに、こんなことして恥ずかしくないの?」
高瀬雅美は鼻で笑い、哲也の腕に絡みつき、高慢な表情を見せる。
「彼は私と一緒にいるのが好きなのよ。文句ある?自分の男を繋ぎ止められないのは、あなたの実力不足ってだけでしょ。」
恥知らずな人間は見てきたけれど、これほど開き直った態度には、さすがに呆れるしかなかった。
私は怒りに震えながらも皮肉で返す。
「高瀬、あなたみたいに汚いものでも喜んで受け入れられる器量は私にはないわ。」
高瀬雅美は逆上し、私に平手打ちをしようと手を振り上げる。しかし、哲也がとっさに彼女の手首をつかみ、私に向かって低い声で言う。
「オフィスで話そう。」
昨日までは、彼と二人きりになるのを恐れていた。あんな人間だと分かった今は、もう怖いものはない。絶望の先に、妙な度胸が湧いてきた。
オフィスの前には、すでに診察を待つ患者の列ができていた。哲也はドアを開ける。私は彼の背中を見つめ、大きな声で言った。
「哲也、隠すことなんてないでしょ?何でもここで言いなさい!」
わざと彼に恥をかかせてやりたかった。
哲也は眉をひそめて私を睨み、一気に私を中に引き入れてドアをバタンと閉めた。
彼はデスクの後ろに座り、まだ動揺が顔に残っている。水を半分飲んでから、やっと私を見る。
「君の体調だと、外に出ない方がいい。」
私は思わず苦笑が漏れ、胸の内に冷たい悲しみが広がった。
「哲也、今のが気遣い?追い出そうとしてる妻にそんなこと言う?高瀬さんが聞いたらどう思うかしら?」
こんなに皮肉な言い方をしたのは、生まれて初めてだった。
かつて、彼を一生大切にしようと決めていた自分が憎らしい。今となっては、その優しさも全部無駄だったとしか思えない。
哲也は眉間に皺を寄せ、両手を机につき、指を組む。
「明里、落ち着いてくれ。もう話すことはない。離婚しよう。」
この二人の関係が一日二日で始まったことではないのだろう。これまでうまく隠していたが、今はもう、雅美の妊娠を理由に私を追い出したいだけだ。
でも、私はこのまま引き下がるつもりはなかった。
「もし私が拒否したら?」
私は彼を見据えた。
「自分の見る目がなかったのは認めるけど、離婚なんて簡単にはしないわ。どうしても彼女と一緒になりたいなら、重婚罪で刑務所にでも行けば?」
最後の言葉はほとんど叫び声だった。
哲也は苛立ちを隠そうともせず、ネクタイを緩める。
「君が落ち着いたら、また話そう。」
しばしの沈黙の後、彼は立ち上がり、さらに追い打ちをかける。
「でも、俺の気持ちは変わらない。雅美の子どもは、俺たちの大切な存在だ。」
「子ども」という言葉が、私の傷をえぐった。昨日、彼の手にあった黒いビニール袋が頭に浮かび、胸が締めつけられる。
「自分の子どもでも、彼女のなら大事にするのに、私のは捨てろって?」
哲也は冷ややかに口元を歪めた。
「俺たちの結婚自体が間違いだった。明里、近いうちに荷物をまとめて出て行ってくれ。お互い、きれいに別れよう。」
「きれいに別れよう?」
私は哀しみと怒りが入り混じった笑みを浮かべた。「私の子を自分の手で奪って、心も体もズタズタにしておいて、それが“きれいな別れ”だって?哲也、ふざけないで。あなたが新しい人生を始めたいなら、私は絶対に思い通りにはさせない。覚えておきなさい!」