目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話


「もういい!」

私はドアを勢いよく閉めて出ていった。


廊下では、周囲から同情の視線が注がれる。めまいをこらえ、背筋を伸ばして早足で歩き出す。

強気な言葉を口にしたものの、心のどこかで、哲也との結婚がすでに形だけのものだとわかっていた。離婚しないのは、ただ彼を困らせたいだけだ。

どんなに辛くても、明日はやって来る。

男がいなくても、生きていかなくちゃならない。


そのまま五階の院長室へ向かい、復職の手続きをしに行った。

流産したばかりでも、仕事に戻らなくてはならない。男なんて頼りにならない。頼れるのは自分だけだ。お金が必要だった。母の治療にはお金がかかる。

医者は「まだ目覚める可能性がある」と言ってくれた。


ドアを開けると、高瀬雅美の姿が見えた。一瞬足が止まったが、覚悟を決めて中に入る。

雅美は私を嘲るような目で見て、カップを手に給水機の方へ歩いていった。


院長に復職の意向を伝えると、彼は困った顔で、しばらく口ごもった後に言った。

「藤原さん、実はね、数日前から患者さんたちから君の勤務態度について苦情が相次いでてね。病院の規定で、君との雇用契約は解除になったんだ。」


頭を殴られたような衝撃だった。

何ヶ月も休んでいたのに、どうして「連続の苦情」なんて?


「お父さん、お水。」

雅美が院長の前にカップを差し出す。


聖和病院の院長が高瀬雅美の父親なのは知っていた。少しは公正にしてくれると思っていた自分が甘かった。


「藤原さん、ごめんね。病院のルールだから、特例はできないんだよ」と院長は事務的に言う。雅美は椅子にふんぞり返り、勝ち誇った目でこちらを見ていた。


「……分かりました。」


私は背筋を伸ばしたまま、その場を後にした。めまいが襲ってきたが、必死に平静を装う。

言い返したくなかったわけじゃない。ただ、愛した人の前でみじめな姿を見せたくなかった。


廊下に出ると、なんと哲也が立っていた。私が解雇されたことを、彼はすでに知っていたのだろう。いや、むしろ裏で手を回したのかもしれない。

私は彼を無視して、そのまま通り過ぎた。


入院棟へ向かう角で、真っ赤なマニキュアの手がいきなり私の腕をつかんだ。


「いい加減に消えてくれない? 哲也は私の子どもの父親よ。いつまでしつこくしがみつくつもり?」


雅美の声は冷たく、嫌味に満ちていた。

見下ろした手と、この男女の醜さを思うと吐き気がこみ上げる。私は彼女の手を力強く振り払った。


「雅美、いい加減にしなさい!」


人通りの多い廊下で、みんながこちらを見ている。


哲也が近づき、雅美を引き寄せて無表情でこちらを見た。そしてポケットからカードを取り出し、私に差し出した。


「ここに二十万円入ってる。離婚届にサインして、家を出てくれたら暗証番号を教える。」


カードまで用意していたなんて、どこまでも計画的だ。

私は彼の裏切りに全く気付かなかった自分が情けなくて、悔しくてたまらなかった。


私はカードを受け取らず、彼らをじっと睨みつけた。

すると雅美は、哲也の手からカードを乱暴に奪い、私の顔めがけて投げつけた。


不意打ちだった。

冷たいカードの端が目元をかすめ、ヒリヒリとした痛みが走る。


私は目元を押さえ、床に落ちたカードを見つめた。怒りは次第に、言いようのない虚しさに変わっていった。


なぜ彼らがあんなに強気でいられるのか、ようやく分かった。雅美がトイレで言っていた通り、私は何の後ろ盾もない。どれだけ理不尽な目に遭っても、誰も助けてくれない。


昔、哲也がプロポーズしたとき、私は「母が植物状態だ」と伝えた。けれど彼は「一緒に未来を作ろう。お母さんが目覚めるのを一緒に待とう」と言い切った。

まるで今、私を追い出す決意と同じくらい強い意志で。


あの時は本当に感動したのに。

今は、ただただ惨めで悲しいだけだ。


私は哲也を睨みつけ、怒りで震える声を絞り出した。


「哲也、たった二十万円で自分の良心を買い戻せると思ってるの? あなたの良心が安物でも、私の失った青春は、どうやって償うつもり?」


哲也は後ろめたさからか、言葉に詰まった。


雅美は鼻で笑い、

「青春? 藤原さん、何を言ってるの? あなたみたいな女と結婚して、どこに楽しさがあるの?」


私はすぐに哲也を見た。彼の顔には一瞬、気まずそうな表情が浮かんだ。きっと私たちが別々に寝ていることも、雅美に話していたのだろう。


しばらく彼を見つめ、もう何も期待できないと悟った私は、雅美の挑発的な視線をまっすぐ受け止めた。


「そうね、私と結婚するくらいなら出家した方がマシかも。でも、あなたの前で彼が見せるのは、ただの発情した犬よ。」


今までで一番きつい言葉だった。


雅美は激怒し、私に飛びかかってきた。私は不意を突かれ、彼女に突き倒された。

その場所には医療廃棄物が積まれていて、床にはガラスの破片が散乱していた。私は咄嗟に手をついてしまい、手のひらは何箇所も切れて、背中や脚も尖った破片で傷ついた。


歯を食いしばり、声を上げることもなかった。


騒ぎを聞きつけて、さらに人だかりができる。


それでも雅美は気が収まらず、さらに蹴ろうとしたが、哲也が必死で彼女を押さえつけた。


「もうやめろ、雅美!」

面倒なことになりたくないのだろう。


「何? 彼女がかわいそうなの?」

雅美は嫌味たっぷりに言った。


哲也は答えられず、私は苦笑した。


「一応、二年も夫婦だったんだから、私を心配するのは当たり前でしょ?」


「ふざけないで!」

雅美は哲也を振りほどき、私の顔を平手で打とうとした。

私は立ち上がる力もなく、目を閉じてその一撃を受ける覚悟をした。


けれど、待っていた痛みは来なかった。


目を開けると、振り上げられた雅美の手首が、誰かのしっかりとした手に掴まれていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?