その骨ばった手をたどって見上げると、目の前にいたのは深沢知之だった。
今日は白いシャツにきちんとしたスラックス、黒い革靴は一切の汚れもなく、爽やかでありながらも圧倒的な気迫を纏っている。
「そんなに威張るなんて、大したもんだな。でも他人を図々しいって罵る前に、自分が『不倫』の看板をぶら下げてること、恥ずかしくないのか?」
深沢の声は低く静かだが、その瞳からは鋭い威圧感が伝わってくる。
彼が手首を軽く振ると、まるで強い力に引っ張られたかのように高瀬雅美がよろけて後退し、もし哲也が支えなければ倒れていただろう。
哲也は深沢を指さし、怒りを露わにする。
「これは俺の家庭の問題だ。お前には関係ない!」
「いや、関係ある。」
深沢は私をしっかりと抱き寄せ、落ち着いた様子で哲也を見下ろした。
「お前が今日彼女と別れるなら、俺は明日彼女と結婚する。哲也、いつまでもグズグズしてるのはお前の弱さだ。」
その言葉はまるで宣言のように響き渡り、強引さすら感じさせた。
深沢はもともと哲也よりも背が高く、このときの余裕ある態度がさらに圧倒的な存在感を放っている。
私は、彼が迷いなく哲也の名前を口にしたこと、そして突然の力強い庇護に心を揺さぶられた。
今まで、こんなふうに守ってくれる人はいなかった。
彼が現れたことで、私は一瞬でプライドを取り戻し、あの二人の前で胸のすく思いを感じた。
もちろん、哲也の中で私は完全に裏切り者になっただろう。
哲也は深沢を睨みつける——自分より遥かに優れて見える男を前に、口を開いても言葉が出てこない。やがて、その怒りの矛先を私に向けた。
「明里、お前がそんな奴だったとはな!俺の目を盗んで、よくもこんな下劣なことを!」
彼の青ざめた顔を見て、心の奥に奇妙な満足感が湧き上がる。
裏切られる苦しさを、ようやく彼も味わったのだ。私のことなどどうでもよくても、自分のプライドだけは守りたい。それが哲也という人間だ。
自分が捨てたものでも、他人の手には渡したくない——まさに彼らしい。
「勤務中に何をしているんだ?」
厳しい声が響いた。
気づけば高瀬院長が近くに立っていて、顔をしかめて雅美を睨んでいる。面目を丸潰しにされたのが明らかだった。
哲也はさらに私と深沢を睨みつけ、雅美に腕を引かれて去っていく。その際、床に落ちていたカードを拾うのも忘れなかった。
野次馬も、もう見どころはないとばかりに散っていき、現場には深沢と私だけが残った。
「母の様子を見に行きたい。」
私はかすかな声で言った。心はまだ冷たい悲しみに沈んだままだ。
「歩けるか?」
彼は私の脚の傷を見て尋ねる。
私はうなずき、彼の手を借りずに立ち上がろうとした。しかし、温かい胸元から離れた途端、視界が真っ暗になり——意識を失う直前、たくましい腕が私をしっかりと受け止めたのを感じた。
次に目を覚ますと、鼻に強い消毒薬の匂いがした。
私は病室のベッドに横たわっていて、そばには美紀が座り、リンゴの皮をむいている。彼女は短く切った艶やかな黒髪が印象的で、思わず触れたくなる。
「美紀……」
私が声をかけると、美紀は顔を上げ、私が目を覚ましたのを見てすぐに不機嫌そうに睨みつけた。
「明里、あんたって本当にどうしようもないね!こんなボロボロになってるのに、よくも私に隠してたよね?私を何だと思ってるの?本当にぶっ飛ばしてやろうか!」
彼女は果物ナイフを振りかざしてみせる。その姿がなぜか温かくて、親しみが込み上げてきて、私は思わず涙をこぼしてしまった。
美紀と私は正反対の性格だ。彼女は涙を見せることがなく、知り合ってから十年、泣いたところを見たことがない。私はというと、すぐ泣いてしまい、いつも「涙の安売り」と言われている。
「もういいから、正直に話しなさい。いったい何があったの?」
どうせ隠しきれないと悟り、私は事情を全て話した。ただ、深沢のことだけは伏せて。
話し終えると、美紀は隣の椅子を蹴り飛ばした。
「ふざけんな!今すぐ哲也のクズ野郎をぶっ飛ばしてやる!」
彼女は昔から義理堅い人だ。私のためにこんなに怒ってくれている。
「それより、どうやって私を見つけたの?ここ…聖和病院じゃないよね?」
私は辺りを見回した。
「ここは瑞生病院だよ。昨日電話した後、どうも様子がおかしいと思って、今日またかけたら、男の人が出て『瑞生にいる』って言われたの。」
深沢だ。
彼の「今日君が別れるなら、明日俺が結婚する」という強引な宣言が頭に浮かび、胸の奥が熱くなる。
「彼は…どこ?」