ベッドの上でじっとしていると、息が詰まるような孤独に襲われる。
美紀はよく様子を見に来て、毎回違ったスープを持ってきてくれる。でも、結婚生活の傷は、そう簡単に癒えるものじゃない。たとえ傷口がふさがっても、深い痕が残る。
哲也からは何度か電話があったけど、すべて無視した。画面に彼の名前が表示されるだけで、治りかけた傷がまた開く気がした。思い出すたびに心が切り裂かれる。無理やり考えないようにした。
私に連絡が取れないと分かると、哲也は直接家にやってきた。
ドアを開けると彼が立っていて、私は何も言わずにドアを閉めようとした。彼は手で強引にドアを押さえた。
「明里、離婚しよう。このままじゃお互いのためにならない。」
おかしい話だ。急いでいるのは彼の方だ。恋人のお腹は待ってくれないから。
彼が焦れば焦るほど、私は引き延ばしたくなる。彼を困らせることだけが、今の私の唯一の楽しみだ。
「哲也、あなたが誰とどうなろうが私には関係ない!離婚届に判を押してほしい?夢でも見てなさい。彼女のお腹が大きくなって、世間の目がどうなるか見ものね!」
冷たく言い放ち、「バタン」とドアを閉めた。
外から怒ったようにドアを叩く音と叫び声が聞こえたが、私は無視した。
美紀が来たとき、哲也が来たことを伝えた。
彼女は手を叩いて喜んだ。
「よくやった!明里ちゃん、そのまま粘ってやれ!焦る必要なんてないんだから、しっかり食べて飲んで、あいつらを困らせてやればいいのよ!あの女が早く正式な妻になりたい?だったら、わざとお腹が大きいままウェディングドレスも着られないようにしてやればいい!籍も入れずに子どもを産むなんて、あの女の面子はどうなるかしら!」
美紀の言葉で目が覚めた。哲也と高瀬雅美がここまで好き勝手できるのは、私に力がないせいだけじゃない。昔の私があまりに弱かったからだ。
復讐でも、これから自分を守るためでも、私は強くならなきゃいけない。
静かな日々が数日続き、七夕がやってきた。美紀が新しい服を持ってきて、どうしても外に連れ出すと言い張った。
本当は気が進まなかったが、彼女の勢いに押されて着替えることにした。スカートのファスナーを上げていると、玄関から怒鳴り声とドアを叩く音が聞こえた。
「藤原、また来たの?殴られたいのか!」
続いて、拳が肉を打つ鈍い音!慌てて飛び出すと、哲也が腹を押さえて苦しそうにうずくまっていた。
美紀は空手をやっているから、一発で効いたようだ。
「哲也、この拳は明里ちゃんの代わりよ!私の拳はクズ専用だから!」
哲也は立ち上がり、口元の血を拭いながら、美紀の後ろから私を見据えた。
「明里、そろそろきちんと話し合おう。」
七夕に離婚の話なんて、よりによっていい日を選んだものだ。
「何を言ってるの、帰れ!」
美紀が怒鳴り返し、私の肩を抱いて強引に外へ連れ出した。
彼女はわざと私の肩を抱き大きな声で言った。
「明里ちゃん、今日はしっかり遊ばせてあげる!イケメンとおしゃべりして、もし気が合ったらホテルにでも行く?」
そこまで大胆にはなれないけど、美紀の勢いに心が熱くなった。特に角を曲がると、哲也が怒りで顔をこわばらせて立ち尽くしているのが見えて、少しスッとした。
まず美紀は私を美容室に連れて行った。鏡の中の私は、ミディアムヘアを黒茶色に染め、毛先はゆるくカールされていて、オシャレで肌色にも映えていた。
「見てよ!」
美紀は鏡を見ながら感心した。
「やっぱり明里ちゃんは美人だよ!今日のこの姿なら、男たちがみんな振り向くわ!」
その後、彼女は私を「星の海」というバーに連れて行った。
爆音の音楽、まぶしいライト、踊る人々……すべてが私には場違いに感じた。
美紀は私を引っ張ってダンスフロアを抜けていく。口笛があちこちから聞こえる。「もっと楽しんで!」と彼女は耳元で叫んだ。
「クズ男にされたこと、同じように返してやればいい!気に入った人がいたら、どんどん声をかけな!」
私は居心地悪く歩いていたけど、ふと視線が止まった――少し離れたVIP席に、男性三人女性二人が座っていた。その中の一人が、深沢知之だった!
「どの人が気になるの?」
美紀が私の視線を追い、すぐにターゲットを見つけた。「白シャツでタバコ吸ってる人?いい目してるね!」
私はうなずいた。深沢知之はその場にいてもひときわ目立っていた。
「行こう、挨拶しよう!」
と美紀は私の腕を引っ張って強引に近づいていった。
「ちょっと……」と抵抗したが、空手の腕力には勝てない。
「ハロー!」
美紀がフレンドリーに声をかける。私は緊張して何も言えなかった。
ソファにゆったりと座っていた深沢知之がこちらを見上げ、その深いまなざしが私をしっかりととらえる。突然の再会に心臓がドキッと跳ねた。
「ちょっと詰めてもいいですか?」
言いながら、美紀は私を深沢知之の隣に座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
私はバランスを崩して座り込むと、すぐに力強い腕が私の腰を抱き寄せた!男らしい香りに一瞬で顔が熱くなる。
慌てて離れようとしたが、深沢知之の腕がさらに強くなった。彼は突然顔を寄せてきて、熱い息が耳元にかかった。
「まだ怒ってるの?もういいだろ?」
低く魅力的な声で、周りにだけ聞こえる絶妙なボリュームでささやいた。
何が何だかわからず、顔は真っ赤になった。
ハゲ頭の中年男性が私をじっと見て、深沢知之に尋ねた。
「この方は?」
「彼女です。」
深沢知之はきっぱり答えた。
空気が一瞬で凍りついた。みんなが驚き、美紀も私も唖然とした。
ハゲ頭の男は隣の若い女性を見て残念そうに言った。
「うちの娘、遅かったか。」
もう一人、ビール腹の男もため息。
「うちの娘にもチャンスはなかったな。深沢社長、隠すのがうまいね。」
ようやく気づいた。彼らは深沢知之に娘を紹介しに来ていたのだ。私は急遽、彼の身代わりになったわけだ。
二人の女性は私を恨めしそうに見ている。でも、ここで話を壊すわけにはいかない。深沢知之には助けてもらったから、今回は借りを返す番だ。
「どちらのお嬢ですか?」
ハゲ頭が、にやりとしながら私を試すように聞いた。
指先が冷たくなった。私の出自なんて、深沢知之に恥をかかせるだけだ。
深沢知之はタバコを消し、私の手を自分の膝の上にそっと重ね、口元に微笑みを浮かべながらも、きっぱりとした口調で言った。
「彼女は将来、私の妻になる人です。」
私を守るその姿勢は、あの日病院で見た時と変わらない。この言葉は心に深く刻まれ、後になっても胸が高鳴る。
彼の一言で周囲の詮索や嫉妬は一気に静まった。場の空気はしばし気まずくなったが、ビール腹の男が冗談めかして乾杯を促し、ようやく和やかになった。彼らが深沢知之にこれほど気を遣うのを見て、私はますます彼の正体が気になった。
何か聞き出せるかと期待したが、その後は他愛もない話ばかりだった。二人は何度も深沢知之にお酒を勧め、彼も断らずに受け、私の腰に回した腕はずっと離れなかった。
しばらくしてトイレに立つと、スマホをいじっていた美紀がすぐについてきた。きっと話したくて仕方なかったのだろう。
案の定、数歩歩いただけで私の首に腕を回し
「さあ、白状しなさいよ!いつからそんな関係になったの?全然気づかなかったわよ!」
私は苦笑いした。
「美紀の目でも分からない?彼、私をただのカモフラージュに使っただけだよ。」
「本当に?」
美紀は疑いの目。
「でも、彼のあの目は、本気にしか見えなかったけど。」
「演技が上手いんだよ。」
私はごまかした。その時は緊張して、彼の目なんてまともに見ていなかった。
何度も深沢知之とは何もないと説明して、ようやく美紀は納得した。
トイレから出て少し歩いたところで、私は突然足を止めた。血の気が引いていく――
薄暗い隅で、女性を壁に押し付け激しくキスし、肩ひもに手を伸ばしているのは、他でもない、私の夫・哲也だった。