心はもう麻痺していると思っていたのに、目の前の光景は、まるで毒針のように容赦なく突き刺さった。
少なくとも、彼が私をこんなにも激しくキスしたことは、一度もなかった。
手にバラを抱えた男性が通り過ぎて、ようやく気がつく——今日は七夕、恋人たちの日。私にとってはまるで処刑場だ。
この二人も、きっと今夜を一緒に過ごすつもりなのだろう。
昔は、こんな日を哲也が気にかけることなんてなかった。私は、そんな彼を「堅実」だとか「現実的」だと、自分に言い聞かせていた。
今思えば、本当に愚かだった。
どこでもかまわずイチャつく二人の姿には、嫌悪感しか湧かない。
「おや、これは藤原先生じゃないですか?偶然ですねぇ。不倫相手と七夕デートですか?」
美紀が大きな声で言い放ち、周囲の視線が一斉に集まる。
ぴったりと重なっていた二人の唇がやっと離れた。哲也がぎこちなく振り返り、数メートル先に立つ私——彼の正妻——と目が合った。彼の目には、驚きが隠せなかった。
「明里……?」
高瀬雅美が哲也の腕の中から顔を出し、信じられないといった様子で叫ぶ。
二人が驚くのも無理はない。
私は昔、身なりに無頓着で、質素な服ばかり着ていた。おしゃれを我慢して、節約を第一に考えてきた。
でも、そんな努力は結局、無駄だった。返ってきたのは、無情な裏切りだけ。
今日は美紀が私を徹底的に変身させてくれた。鏡に映る自分さえ、見慣れないほどだ。二人が驚くのも当然。
「さすが藤原先生、目が肥えてますね!その不倫相手の顔、まるで整形モデルみたい。インスタで流行ってるタイプじゃないですか!」
美紀の皮肉が二人に突き刺さる。高瀬の顔色が一気に変わり、哲也もひどく気まずそうだ。
「明里さん、仕事もクビになったのに、こんな場所で遊んでる余裕あるんですか?お母さんのことも放ったらかしなんでしょ?」
高瀬は美紀を相手にしたくないのか、私の弱点を突いてくる。
母のことを言われ、胸が締め付けられる。美紀はすぐにでも飛びかかりそうだったが、私は慌てて止めた。
高瀬も確かにムカつくが、周囲の目がある中で騒ぎを大きくしたくなかった。
美紀も私の気持ちを察し、それ以上近づかず、鋭い視線で高瀬を睨みつけた。
「ねぇ、不倫相手さん、『バズる』って言葉、知ってる?」
高瀬はきょとんとし、私も一瞬意味がわからなかった。
美紀の視線が高瀬のお腹に滑り、皮肉な笑みを浮かべる。
「お腹が大きくなって、あるいは子どもを連れて結婚したら、街中の話題になること間違いなし!」
美紀の毒舌は私には分かるが、高瀬はまだピンときていない様子だった。周囲から抑えた笑い声が漏れて、ようやく意味を悟ったのか、顔がみるみる青ざめる。そして、怒りの矛先を私へ向ける。
「だから何?哲也は私と結婚したいし、この子も望んでるの!それより、あなたこそ、今日はそんなに着飾って誰を誘惑しに来たの?その程度で、誰が相手してくれるのかしら?」
美紀が先に口を開かなければ、私は無視するつもりだった。でも、夫を奪った相手がそこまで偉そうに言うのは、もう我慢できなかった。
「そうね、昔は本当にバカが一人いたわ。でも今、そのバカは別のバカに引き取られただけ。ちょうどいいじゃない。」
私が言い終えると、美紀がすぐに親指を立ててくれた。
哲也の顔はみるみる青ざめ、みじめさが隠せない。
高瀬は私に言い返されるとは思わなかったのか、しばらく口をつぐみ、慌てて哲也の腕にしがみつく。
「哲也、見たでしょ?あの女の優しさも節約家ぶりも全部演技だったのよ!今はこんなに口が悪い!」
私は鼻で笑い、二人を冷ややかに見つめて淡々と言った。
「私の言葉がきつかったなら、ごめんなさい。でも、わざとよ。」
美紀は腕を組んで壁にもたれ、満足そうに私を見ている。
不満ははっきり口にしたほうが、我慢して飲み込むより何倍も気持ちがいいんだと、初めて実感した。
その時、私はふと思いついて、ゆっくりと哲也の前に歩み寄った。
「何するつもり?」
高瀬は哲也の腕をさらに強くつかみ、まるで自分のものだと言わんばかり。でも、もうこの男に未練はなかった。
私はガムを一枚、彼のスーツのポケットに押し込み、皮肉を込めて言った。
「哲也、キスの前にはガムを噛むのが、女性への最低限のマナーよ。」
私の「どうでもいい」という態度が気に障ったのか、哲也の眉間に深い皺が寄る。
彼はいつもそうだった。私を家から追い出しておきながら、昔のように自分にすがりついてほしいと願う。自分のプライドを満たすために。
でも、もうそんなふうにはならない。私にとって彼は、もはや何の価値もない人間だ。
彼の顔がゆがむのを見届けて、私は堂々と背を向け、歩き出した。
「何を偉そうに!どうせ哲也に捨てられたブスのくせに!」
高瀬の鋭い声が背中越しに飛んできた。
思わず足が止まり、胸の奥が苦しくなる。
人の夫を奪った女が、なぜこんなにも堂々としていられるのか。
傷はまだ癒えていない。ちょっとした一言で、また血がにじむ。
私はその場で動けなくなり、体が小さく震えた。せっかく築いた強がりも、今にも崩れそうだった。
その時、突然、強い腕が私の腰を抱き寄せ、世界がぐるりと回ったかと思うと、私は冷たい壁に背中を押し付けられていた。
深沢知之の熱い息がすぐそばに感じられる。彼は顔を近づけ、私の唇をじっと見つめながら、低く囁いた。
「ガム、もう噛んできたよ。」