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第13話


深沢知之が唇を重ねてきた瞬間、頭の中が真っ白になった。

彼の唇は柔らかく、少し冷たい指先が私の顎をそっと持ち上げる。息が少しずつ奪われていき、肌には微かな痺れが走る。拒むことも、応えることもできずに立ち尽くした。


「うわぁ!」


少し離れたところから聞こえてきた驚きの声が、その場の注目を一気に集める。拍手や口笛が次々と響き渡った。


我に返った時、彼の唇はちょうど離れていた。

見下ろすように私を見つめるその瞳は、深くて柔らかな光を湛えている。


「君の香り、すごく好きだ。」


低く響く声に、不思議な魅力が混じっていて、本当に恋人同士でいるかのような錯覚を覚えてしまう。


動揺しながらふと横を見ると、哲也の顔が見る見るうちに険しくなっていた。


「知之にここまでさせる女なんて、なかなかいないよな。」

茶化すような男の声がした。


振り返ると、チェックのシャツを着た男がタバコを手にゆっくりと近づいてくる。煙の中、その表情にはどこか余裕がある。彼は、あの夜山道で深沢知之を「女運がDNAに刻まれてる」なんてからかっていた人だ。私のことは覚えていないだろう、あの時とはまるで別人のようだから。


彼は私をじろりと見てから、深沢知之の肩を軽く叩いた。


「知之、上の部屋でみんな待ってるぞ。」


深沢知之は振り返ることなく、私の前髪に吐息をかけつつ、口元に微笑を浮かべる。


「卓也、悪いけど今は美女の方が大事だ。先に行ってて。」


顔が瞬時に熱くなる。秋山卓也は肩をすくめて、鼻歌を歌いながら去っていった。


「明里!自分が既婚者だってこと、忘れてないだろうな!」

堪えきれなくなったのか、哲也が低い声で怒鳴る。


壁にもたれていた美紀が、短く切った髪を揺らして小さく笑う。


「自分だって既婚者でしょ?人のこと言える?」


周りからくすくすと笑いが起きる。どうして彼がこんなことを言えるのか、私には理解できなかった。


高瀬雅美がここぞとばかりに口を挟む。


「哲也、よく見てよ!この人、根っから浮気者よ。あんたの目の前でこんなことして、最低!」


そんな言葉まで知ってるんだ、と呆れるしかなかった。


哲也の青ざめた顔を見ていると、心の奥にわずかな歪んだ満足感がよぎる。私はそっと深沢知之の腕に手を添え、柔らかい声で言った。


「もう、行きましょ。トランプするんでしょ?」


深沢知之は姿勢を正し、優しく私の顔を見つめてうなずく。


「うん。」


彼は高瀬雅美の罵りを気に留めていないと思っていた。だがすれ違いざま、彼はふいに足を止め、鋭い視線を高瀬雅美に向けた。


「『最低』がわからないなら、自分の顔を鏡で見てみれば?」


美紀が吹き出し、哲也を横目で見て言う。


「藤原先生、遊びに行こうよ。賭ける勇気、ある?」


哲也が乗ってくるはずがない。彼はギャンブル好きでもなければ、賭ける余裕もないはずだ。


エレベーターの扉が閉まり、下の喧騒が遠ざかる。深沢知之の長い指が「9」のボタンを押す。


演技はここまで、と私は手を引こうとしたが、彼は逆に私の手をしっかりと握り返した。掌の熱が一気に頬に伝わり、顔が真っ赤になる。


恥ずかしさでいっぱいだ。特に美紀がからかうような目でこちらを見ている。


九階のルームは豪華で、深沢知之が入るとあちこちから親しげな挨拶が飛んできた。私への視線も好奇心に満ちている。


彼が周囲と軽く言葉を交わしている間に、私はそっと手を離した。今度は彼もそれを止めなかった。


卓也が私たちに手を振る。深沢知之は自然に私の手をつなぎ、悠然と歩み寄った。


ちょうど一局が終わったところで、周りの人が席を譲る。卓也だけがタバコをくわえながら牌を洗っている。


美紀はこういう場に慣れている様子で、さっと席に座った。


「久しぶりにやるわ。私も入れて。」


卓也は煙をふわりと吐き、美紀に軽く口笛を吹く。


「美女がいるなら、これ以上のことはないね。」


「できる?」と深沢知之が私に顔を向けて尋ねた。


私は正直に首を振る。


「教えてあげる。」

彼は有無を言わせず私を椅子に座らせた。


立ち上がろうとしたが――できないのはルールもだが、賭けるお金もない。どれだけ大きな金額が動くのか、想像もつかない。


深沢知之が私の肩を押さえ、優しく笑う。


「気にしないで。負けたら、全部俺が払うから。」


その言葉が終わるか終わらないかという時、美紀が挑発的な声を上げた。


「おや、藤原、本当に来たの?お金は足りてる?それとも、隣の彼女を賭けるつもり?」


驚いて振り返ると――

哲也と高瀬雅美が、本当にルームの入り口に立っていた。



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