その日も和哉にとって、何一つ変わり映えのない、ごく普通の朝だった。
唯一違った事いえば、昨日発売された『ダブルソード』の新刊を夜遅くまで読み
(ふあぁぁ……ねむい……)
そんな和哉の様子に苦笑いを浮かべていた母親が、思い出したように声をかけた。
「そうそう、あんた、今日も道場でしょ?お父さん、ちょっと行くの遅くなるから、代わりに道場の鍵開けといてって言ってたわよ。よろしくね!」
「あ、うん。分かった」
頬張ったパンを牛乳で流し込みながら、生返事を返す和哉に母親から檄が飛ぶ。
「もう! あんた、大丈夫なの? もうすぐ大会でしょ!」
和哉の家では父親が弓道の師範をしており、和哉は幼い頃から自宅近くの道場で父親からの指導を受けていた。
「大丈夫だって、ちゃんと練習するから」
母親の小言に苦笑いで応えた時だった。
ドタドタと階段を駆け下りてくる音が聞こえてきた。和哉の妹の
「あっぶなーい!セーフだよね?」
中学三年生だが、まだ子供っぽい雰囲気を残している。
ショートボブの髪を寝癖がついたまま整えようともせず慌てて食卓につく美緒に、和哉は呆れながら注意する。
「美緒、朝からうるさいよ、もう少し静かにできないのか?」
「え~、だってギリギリだったし……っていうか、お兄ちゃん、また雑誌で特集組まれてたよ!もう、友達みんな『お兄さん紹介して~』ってうるさくてさ~」
そう言うと美緒は広げた雑誌をバサッと和哉の前に置いた。
その見開きには――。
『アイドル顔負けのルックスで女性に大人気!!弓道界の貴公子、一条和哉の素顔に迫る!!』と大きく見出しが付いたインタビュー記事と、その時撮られた写真も載っていた。
(そういえば、そんな取材を受けたな……)
和哉は雑誌をチラリと
「別にわざわざ僕の事なんか宣伝してくれなくてもいいのにね」
「何言ってんの? お兄ちゃんのファンが聞いたら泣くよー?ほらぁ、このページとかすごくカッコいいじゃん!!」
気のない返事をする和哉の言葉に、美緒は納得がいかないように言い返しながらさきほどの雑誌の写真を指差す。
そこにはまるで映画のワンシーンを切り取ったような、弓を構えて立っている和哉の姿があった。
(う……これは確かにカッコよく撮れてるな)
和哉の容姿をこれでもかと
プロのカメラマンの腕に感心しながらも、同時に感じる気恥ずかしさと居たたまれなさに和哉は慌てて雑誌を閉じると、誤魔化すように美緒に苦言を呈した。
「そっ、そんなことより早く朝ご飯食べないと遅れちゃうだろ!?」
「あ、そうだった!急がないと!」
美緒は思い出したかのように慌ててパンを口に詰め込むと牛乳で流し込むと、「行ってきます!」と慌ただしく家を出ていった。
そんな妹に呆れつつ、和哉も急いで食事を終えると学校へ向かった。
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「きゃー! 一条君よ~!」
「ホントだー! こっち向いてぇ~!」
学校に着き、昇降口へ向かう和哉に女子生徒たちの黄色い声がかかる。
(あー……またか……毎朝の事とはいえ困るな……)
内心げんなりしつつもそれを表に出さないよう気を付けながら、和哉は愛想笑いを浮かべて手を上げ「おはよう」と挨拶を返す。
するとさらに黄色い声が大きくなった。
(はぁ……勘弁してほしいよ)
和哉自身は自分がそこまで騒がれるようなルックスではないことは自覚していた。
確かに子供の頃は「女顔」だとか「男女」だとか言われ、
和哉としては、そんな自分がこんなふうに騒がれるのは”弓道界を盛り上げたい”という考えの大人たちにいいように利用され、それに便乗するマスコミに持ち上げられているだけだというのも理解していた。
(メディアの影響ってすごいよな……)
そんなことを考えながら教室に入る和哉に、友人の一人が声をかけてきた。
「よっ! 和哉、おはようさん」
「あぁ、
彼は高橋優斗といい、サッカー部の主将でもある爽やかなイケメンのスポーツマンだ。優斗の周りはいつも男女問わず多くの生徒に囲まれている。
そんな人気者の彼がなぜ自分に話しかけてくるのか不思議だったが、なぜか気が合うので一緒にいることが多かったし、”親友”と言ってもいいぐらいには仲が良いと和哉は思っている。
「相変わらず凄い人気だな!」
「いや、毎日ほんとに困ってるんだよ……」
「まぁそう言うなって! そういや、お前、また女と別れたってホントか?」
「はは……本当だよ。実は彼女に振られちゃってさ」
実は和哉には少し前“彼女”と呼べる存在がいたが、それも束の間――早々に破局してしまったのだった。
しかも、これが初めての話ではない。
何人か付き合ってきたが、結局は長続きしないまま終わってしまうのが常だった。
いつも女の子のほうから告白され付き合いが始まり、数ヶ月の交際期間を経てはフラれる、の繰り返しなのだ。
「ったく、とっかえひっかえ
冗談めかした口調で笑う優斗に和哉は肩を
「いやいや、羨ましいなんて言ってるけど全然嬉しくないよ。毎回フラれる理由も分かんないしさ」
「そうなのか?」
優斗の質問に和哉は真面目な表情で頷く。
「うん……何がダメなのかさっぱりなんだよ。最初は女の子から告白してきてくれて『どうしても付き合いたい』って言うし、可愛いからいいかなって思って付き合うんだけどさ……」
そう言いながら和哉は小さくため息を吐いた。
確かに和哉としても、その付き合いになんとなく居心地の悪さを感じてしまう時があったりしたのも確かだったが――それでも”自分を好きになってくれたのだから”と、彼女をないがしろにするなんて事はおろか、むしろその子の要望は出来る限り聞いてあげようと努力したりして大切にしてきたつもりでいた。
「別れ際はいつも同じこと言われるんだよね……『和哉のこと分かんない』とか『思ったのと違った』とかさ。意味分かんないじゃん?」
首を傾げる和哉に優斗は納得したようにポンっと手を叩く。
「なるほどな~。うん、それってお前が悪いんじゃね?」
「なんでだよ!?」
和哉が思わずムッとして言い返すと、優斗は苦笑いを浮かべた。
「だってさぁ、お前の中身も見ずに”見た目”だけで告ってくるその子たちもまぁその子たちだけど……そんな女の子たちに流されるように付き合うお前が良くないんだよ。もうちょっとしっかりしろよ!」
(うっ……まぁ、確かに……)
優斗の
そんな和哉に優斗はニッと笑い掛けると冗談めかして言う。
「もう、いっその事自分が誰かを本気で好きになるまでひとりでいたらどうだ?そしたらフラれる事もなくなるし、俺もお前と遊べる時間が増えるしな!あははっ」
「フッ……まぁ、それでもいいか――って、それよりさ、昨日、新刊出たんだよ!」
優斗の言葉に苦笑いをしつつ、今の和哉にとってはこの話題よりも重要度が高い話を持ち出す。
和哉は鞄から取り出した小説を優斗に掲げてみせた。
タイトルは『ダブルソード』――今話題の人気小説だ。
「へぇ、これがお前の言ってた小説かぁ……面白そうだな、どんな内容なんだ?」
それを受け取り、パラパラとめくりながら呟く優斗からの問いに、和哉は待ってましたとばかりに熱く語り始めた。
「主人公はギルランスっていう『勇者』の称号を持つ冒険者なんだけど、相棒のラグロスと一緒に魔王から世界を守るって話だよ!」
「ふ~ん、なんか王道のファンタジー小説って感じか?」
少し興味を示したように尋ねる優斗の様子に気を良くした和哉は大きく頷くと、怒涛の勢いで更に話を続ける。
「そうそう、ギルランスとラグロスの熱い友情! そして、婚約者のアミリアとの恋愛模様! で、なによりギルランスがめちゃくちゃカッコいいんだよ! 貴族の出で
「お、おお……そうなんだ」
あまりの和哉の推しっぷりに若干引き気味になりながらも、優斗も興味深そうに聞いていた。
そんな優斗に和哉の口は止まらない。
「あと、相棒のラグロスもカッコいいんだ。ギルランスと同じ師匠に育てられた
興奮を抑えられずに更に和哉が語り出したその時だった。
キーンコーンカーンコーン……話を遮るかのように朝のホームルームが始まるチャイムが鳴り響いた。
「いいとこだったのに……続きは後で!」
大好きな小説についてもっと語りたかったが仕方がない――和哉は本を鞄の中に戻すと、渋々席に着いた。
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学校の日課を終えた放課後――。
「今日は部活が休みだから遊びに行こう」という優斗の誘いに後ろ髪を引かれながらも、和哉は急いで道場へとやってきた。
父親の言いつけ通り鍵を開け道場内に入った和哉は、さっそく道着に着替えて練習を開始した。
まだ誰も来ていない。
和哉はこの静けさが好きだった。
射場に立ち、向かいにある的に狙いを定め矢を
意識を一点に集中しゆっくりと呼吸を繰り返すと、周りの雑音が消え去り、頭の中がクリアになるのを感じる。
ギリリと弓を引き絞り、的を狙い……カンッという弦の音と共に矢を放つと、パンッと乾いた音が道場内に響いて的に刺さった。
(うん、悪くない)
手ごたえを感じながら次の矢を番えようとした、その時だった。
どこからともなく「ミャ~」と猫の鳴き声が聞こえた。
(ん?猫?……どこから?)
和哉はあたりを見回すが、広い道場内に猫の姿は見えない。
「気のせいか?」
首を傾げつつ気を取り直して練習に戻ろうとした時、猫の鳴き声がまた聞こえた。
「ミャー、ミャー」
和哉は弓を置き、声を頼りにあたりを探すことにした。
道場内を猫の姿を探しながら裏庭まで出たところで、一本の大きな楓の木が和哉の目に入った。
(あ、いた!)
白いふわふわの毛をした小さな子猫が高い枝の上でこちらを見下ろしていた。
おおかた登ったはいいが下りられなくなってしまったのだろう――和哉は急いで物置小屋から脚立を持ってくると、子猫がいる場所まで登り、手を差し伸べながら声をかけた。
「おいで、怖くないよ」
しかし、その子猫は怯えているのか、なかなか降りてこようとしなかった。
「ほら、大丈夫だから」
なるべく子猫に警戒心を抱かせないよう、優しく声をかけながらさらに手を伸ばしてみるが、あと少し届かない。
「もう少し……あっ!」
その時だった。
足場にしていた脚立がグラリと傾き、体勢を崩した和哉はそのまま真っ逆さまに地面へと落下してしまった。
頭部に強い衝撃を受け、和哉の意識は急速に遠のいていく――。
(あれ……これ……ヤバいんじゃ……)
薄れゆく意識の中、遠くで声が聞こえた気がしたが、和哉はそれが何かも分からず暗闇に飲み込まれていった。