(……ん)
和哉が気が付くとそこは薄暗い空間だった。
(あれ? ここは……どこだ?)
まだぼんやりとした頭のまま起き上がり、周囲を見渡す和哉の目にゴツゴツとした岩肌の壁面が映る――どうやらここは洞窟の中のようだった。
周りには誰もおらず、少し離れた所でパチパチと火の粉を舞い上げながら燃える焚き火が見える。
洞窟の外は夜のようで、蒼白い月明かりが周りの草木を照らし出していた。
まるで洞窟の出口の形に切り取られた一枚の絵画のようにも見える美しい光景だった。
和哉はゆっくりと立ち上がると、恐る恐る外へ出てみた。
明日あたり満月なのだろう。
空にはもう少しで満ちそうな月が輝き、世界を照らしていた。
そんな夜空を見上げる和哉の耳に、不意に横から下草を踏む音が聞こえてきた。
ハッと振り向くとそこには一頭の黒い馬が佇んでいた。
馬はゆっくりと近付いてくると、まるで和哉のことを待っていたかのように
よく見ると馬の額には
(この馬……この角……)
和哉はこの馬に覚えがあった。
戸惑いながらも手を伸ばし、頭をそっと撫で話しかけてみた。
「もしかして君はギルランスさんの……ルカ、かい?」
すると、それに応えるように黒馬がブルルッと鼻を鳴らす。
その時、
木から落ちたこと、荒野で目覚めたこと、そして、自分が愛読していた小説の主人公、ギルランスに出会ったことを――。
「そうか……やっぱり、僕はあの時……」
和哉は自分が小説『ダブルソード』の世界に転移したのだと悟った。
まさかそんな”異世界転生小説”のようなことが実際に自分の身に起こるなど、俄かには信じられなかったが、このリアルな五感の全てが”現実”だと訴えていた。
(僕は本当に異世界転移したんだ)
改めてそう実感し、その事実を受け止めた和哉の目から途端に涙がポロポロとこぼれ落ちてきた。
「どうしよう……父さん……母さん、美緒……もう会えない、のかな?」
今まで生きてきた世界が突然奪われたという喪失感に加えて、これから先どうすればいいのか全く見当もつかない不安と恐怖に押し潰されそうになる。
「僕……これからどうなるんだろう……」
誰に聞かせるでもなくポツリと呟く和哉を心配でもするかのように、ルカはそっと鼻先を和哉の頬に押し付けるとペロリと涙を舐めた。
「……はは……ありがとう、ルカ」
慰めてくれるようなルカの優しい仕草に励まされ、和哉は苦笑して涙を拭うと、彼の頭を優しく撫でながら考える。
(いつまでも泣いてたってしょうがないよな……)
ここが『ダブルソード』の世界ならば、自分はこれからどう行動すれば良いのだろう?――そんな事を思案しつつルカの首を撫でていた和哉の目に、ふとルカの鞍に荷物と一緒に
(これは……小説の中でラグロスさんが使っていた弓だ!)
それは紛れもなく小説内でギルランスの相棒のラグロスが愛用していた弓だった。
憧れの聖なる弓は、力強いオーラを
(すごい……これが本物の
和哉はゴクリと唾を飲み込むと、その魅力に誘われるように弓矢へ手を伸ばそうとした――その時だった。
「それに触るんじゃねぇ!」
突然背後から怒鳴り声が響き、和哉はビクッと身
慌てて振り返ると、そこに立っていたのは怒りの形相のギルランスだった――手にはとこかで捕まえてきたであろう大きなトカゲのような生き物を
「ご、ごめんなさい! あんまり美しかったから思わず……すみませんでした!!」
和哉は平謝りに謝るが、それを無視するかのようにギルランスは険しい顔のままフイと顔を背けると、スタスタと洞窟の中に入っていってしまった。
(あ~……怒らせちゃった……)
ため息を吐きつつ和哉もその後に続く。
ギルランスは焚き火の前にドカッと腰を下ろすと、手に持っていた獲物を地面に置いてナイフで捌き始めた。
それを見た和哉は、なんとか彼の機嫌を取ろうと思い、ギルランスに話しかけてみるが……。
「あ、あの……何かお手伝いしますか?」
「…………」
勇気を出して声をかける和哉の思いも虚しく、ギルランスは黙々と作業を続けるばかりだ。
和哉は落ち込んだまま、再びため息を吐くと仕方なく少し離れた所に膝を抱えて座るしかなかった。
(う~ん、やっぱ怒ってるよね……?)
気まずい雰囲気の中、和哉は不機嫌そうなギルランスの様子に不安を感じつつも、その顔から目が離せずにいた。
焚き火に照らされたギルランスの顔は彫刻のように整っており、まるで神様が丹精込めて作り上げたかのような造形美だった。
金色がかった琥珀色の瞳が炎を反射して
(うわぁ……やっぱ、綺麗な顔だな~)
額の傷を隠すかのように片側だけ下ろした前髪が右目にかかっていて邪魔そうだが、その銀色の前髪と少し長い襟足の髪がまた美青年ぶりを引き立たせていた。
そんなギリシャ彫刻のように端正な顔立ちにもかかわらず、和哉にはどことなく厳しさを感じるもがあった。
特に、その瞳の鋭い眼差しは、獲物を狙う
(う~ん……小説通りのイケメンなんだけど……でも……)
和哉は違和感を拭えなかった。
(なんだろう……なんか違うんだよなぁ)
和哉の知る小説の中のギルランスはとても優しく温かい人柄で、その言動には常に相手への思いやりがあふれていた。
だが、今、和哉の目の前にいるギルランスは全く違っていた。
どこか他人を拒絶するような壁を作っているような印象を受けるのだ。
常に警戒しているのか、ピリピリとした緊張感を
例えるなら、群れから外れた手負いの狼といった イメージだが、何より口が悪く粗暴で……とにかく怖いのだ。
和哉の中のギルランス像がガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。
(なんか残念だな……憧れていたのに……小説の設定とは全然違うじゃないか!)
そんなことを考えながらギルランスを見続けていると、やがて肉が焼けるいい匂いが漂ってきた。
その匂いに刺激された和哉のお腹が盛大にグゥ~と鳴り響く――洞窟内に響き渡る音の大きさに慌ててお腹を押さえた。
(うわ~、でっかい音! 恥ずかしっ!!)
顔がカッと熱くなるのを感じつつ、慌てて身を縮こまらせた。
荒野で目が覚めてからずっと空腹を感じていたのだから仕方がない――そう思う和哉だったが、ふと疑問も湧いてきた。
(あれ? そういえばすごく喉も乾いていたはずだけど……?)
確かに口渇感が収まっているように感じる。
この怖いギルランスが気を失っている自分に水を与えてくれたとは到底思えず、しきりと首を捻りつつそんなことを考えている和哉に、焚き火の前で肉を焼いていたギルランスがボソリと言葉を投げかけた。
「……食うか?」
(えっ!?)
ぶっきらぼうなギルランスの声に驚きながら顔を上げると、彼はほどよく焼けた肉の串焼きを一本和哉に差し出していた。
どうやら食べ物をくれるようだ。
和哉は食事がとれる喜びとギルランスが自分に声をかけてくれたことが嬉しくて、何度も「はい!」と答えながら、赤ん坊がする”ハイハイ”のような四つん這いで手足をバタつかせてギルランスの所に近寄る。
そんな和哉の反応にギルランスはクッと小さく笑ったように見えたが、それも一瞬のことで、すぐにまたあの不機嫌顔に戻ってしまい、「ほらよ」とぶっきらぼうに言って串焼きを突き出した。
「ありがとうございます! いただきます!」
礼を言いつつ受け取った和哉は、さっそく香ばしい匂いを漂わせる肉にガブリとかぶりついた。
途端に口の中にジュワッと肉の旨味が広がり、あまりのおいしさに思わず目を瞠る。
「うまあっ!」
あのトカゲのような生き物がこんなにおいしいとは思いも寄らなかった和哉は喜々として貪るように食べ始めた。
口いっぱいに頬張り、夢中で食べる和哉の様子を横目で見ていたギルランスがまたボソリと呟く。
「お前……大げさだな……」
今度はチラリと犬歯を覗かせ一瞬だけ小さく微笑みの表情が浮かんだ気がしたが、やはりそれもすぐに消えてしまい、確認することはできなかった。
それよりも、指摘された言葉に恥ずかしさを覚えた和哉は、思わず肉を食べる手を止める。
(しまった! これじゃまるで子供みたいじゃないか!)
自分の言動に反省しつつ、和哉がリスのように食べ物を詰め込んだ頬を膨らませてモグモグしながら俯いていると、再びフッと笑う気配がした。
(――あ、また笑われた!)
そう思った瞬間、和哉は急に顔が熱くなった気がした。
(なんだろう?なんだか変な感じ……やっぱりこの人苦手だ)
そんなことを感じながらチラッと隣を見ると、ギルランスはすでに和哉のことなど眼中にない様子で、焚き火を見つめながら黙々と肉に
(やれやれ、本当に不愛想な人だなぁ)
ギルランスの様子に心のどこかで少し寂しさを覚えながら、和哉は溜め息をつくと再び肉を口に運んだ。
*****
*****
ギルランスから貰った肉のおかげで、空腹が満たされた和哉はかなり気力を取り戻すことができていた。
改めて今後の事を考えようとするが……やはり、何からどうすればいいのやらさっぱりわからない。
そんな和哉にずっと無言だったギルランスがおもむろに口を開いた。
「お前……その服を見る限り、この国のヤツじゃねぇな?」
唐突な質問だったが、少しは和哉に興味はあるようだ。
言われて和哉は自分の身なりを見下ろす――弓道の道着の袴姿のままだった。
「え……あ、はい。多分……そうですね」
まさか「異世界転移しました」などと言ったところで信じてもらえるはずもないだろうし、それこそ頭のおかしなヤツだと思われるのが関の山だ。
そもそも和哉自身、自分でもまだ信じられないくらいなのだ――なので返事も曖昧なものになってしまう。
「記憶がねぇようだが、全く覚えてねぇってことか?」
「そう、ですね……。気が付いたらあそこにいて……」
記憶喪失のふりを通す和哉は、探るようなギルランスの視線から逃れるように目を伏せるが、これはあながち嘘ではない。
「黒髪に黒い瞳か……見たことねぇ容姿だな……」
上から下までじろじろと全身を眺めるギルランスの
(もしかして、この世界には日本人のような見た目の人間はいないとか……?)
「あの……僕ってどこか変ですか?」
「あぁ? 別に」
不安に駆られた和哉の問いに、ギルランスは素っ気なく答えると、再び視線を焚き火に戻し、不愛想な顔のまま黙り込んでしまった。
(なんだよそれ! こっちは気になってるのに!)
ムッとした和哉は内心悪態を吐きながら思わずギルランスの横顔を睨みつけてしまうが、その視線に気付いたのか、はたと目が合った彼にまたまたギロリと睨まれる。
(ひっ!こわっ!)
和哉は慌てて目を逸らす。
(ダメだ! やっぱりこの人、苦手だ……)
ギルランスの鋭い眼光にビクつきながら、和哉も焚き火に向き直り、口を閉ざした。
再び暫く気まずい空気が流れていたが、そこでまた、ふとギルランスが思い出しように呟いた。
「確か……イチ、ジョウ、カ……? えーと、なんだったか?」
突然名を呼ばれ、和哉は思わずビクッと身体を震わせる。
「えっ?」
「名前だよ」
一度名乗ったはずだが、どうやらギルランスは和哉の名前を覚えてくれてはいなかったようだ。
(どんだけ僕に興味ないんだよ……はぁ、まあいいけど)
内心苦笑いを零しながら溜息を吐く和哉だったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「一条和哉といいます――和哉と呼んでください」
「カズヤ……か…」
和哉の名前を聞いたギルランスは確かめるように名前を呟くと、それ以降は口を開かなくなった。
(えっ? もしかして、これで終わり?)
拍子抜けしてギルランスの横顔を盗み見るが、彼は相変わらず黙ったまま、焚き火を見つめていた。
「あ、あの……」
沈黙に耐えかねた和哉が思い切って話しかけると、逆にギルランスから疑問を投げかけられた。
「――で、お前、これからどうすんだ?行く当てはあるのか?」
(あ~……それなんだよな……)
ギルランスに問われ、和哉は再び溜め息をつく。
正直今の和哉には身寄りもなければ頼れる人もいない。
その上異世界人であることもバレてはいけない、というなかなかハードな状況だ。
「はい……ありません」
ギルランスの問いに和哉は力なく答え、小さく頷いた。
これからのことを考えると絶望的な気持ちになる。
(まさかいきなり異世界に迷い込んじゃうなんて……)
いったい自分の身に何が起こったのか皆目見当もつかないまま、これからどうすればいいのかすら分からず不安になるばかりだった。
そんな和哉の様子にギルランスはハァと一つ溜め息を吐き、しばらく何か考えていたようだったが、やがて舌打ちをしながら和哉に聞こえないくらいの小さな声で呟いた 。
「チッ、面倒くせぇもん拾っちまったな」
「え? 今何か言いました?」
その呟きを聞き取れなかった和哉はキョトンとした顔で聞き返したが、ギルランスは「いや別に」と素っ気なく答えると、ある提案をしてきた。
「とりあえず、次の街までは連れてってやる。その後は自分でなんとかしろ」
ぶっきらぼうに言うギルランスに和哉は驚きを隠せなかった。
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
嬉しさのあまり声が上ずるほどだった。
(やった! 助かる!)
そう思い、満面の笑みを浮かべる和哉だったが、相変わらずな不機嫌顔のギルランスの鋭い視線と目が合う。
「礼はいらん。このまま置いていったら俺の寝覚めが悪いだけだ。勘違いすんなよ、あくまで仕方なくだからな。それから、俺の言うことは絶対だ、聞けなかったらその場に置いていくぞ、いいな!」
そう言うとギルランスはフンとそっぽを向いた。
(怖いのか優しいのか分かんない人だな……)
そんなことを感じつつも和哉は内心嬉しさでいっぱいだった。
今はギルランスの助けがなければ生きていけないのは事実だ。
自分は彼にとっては厄介者以外の何者でもないだろう――それでも助けてくれたうえに街にまで連れて行ってくれるというのだからありがたいことこの上ないのだ。
(それに……)
なにより和哉の気持ちを上げたのは、少しの間とはいえ、(ちょっと怖いけど)あの憧れの”勇者”ギルランスと旅が出来ることだった。
それが嬉しくてついつい自然と口元が緩んでしまう。
和哉がニヤニヤしながらその端正な横顔を見つめていると、視線に気付いたギルランスに不機嫌そうな顔でまた睨まれた。
「あ? んだよ!?」
「あ、いや……すみません」
ギルランスの威嚇するような視線に慌てて視線を逸らしながらも、和哉はつい
そんな和哉の様子をギルランスは相変わらず訝し気に睨んでいたが……。
「チッ……気色悪いヤツだな。さっさと寝ろ!」
ギルランスは鬱陶しそうに言いながら和哉に毛布を投げてよこすと、今度は体ごとプイと背を向けてしまった。
「はい、分かりました。おやすみなさい、ギルランスさん」
和哉は苦笑しながら返事をすると毛布をマントのように体に巻き付けると、そのまま焚き火の傍で横になった。
暫くは緊張やら興奮やらでなかなか寝付けなかったが、パチパチと鳴る焚き火の音を聞いているうちに、いつの間にか眠りについていた。
――その夜、和哉は夢を見た。
それは、以前自分が暮らしていた世界の夢だ。
父と母と妹、家族で楽しく会話しながら囲む食卓。
学校の友達と他愛もない話をしながら帰る夕暮れの道。
何気ない日常の風景を夢の中で見ているうちに胸が苦しくなってくる。
(帰りたい……みんなに会いたい……)
夢の中の家族の笑顔が次第にぼやけていき涙が溢れた。
「……うっ……」
頬に温かいものが流れ落ちる感触を