影の中を駆け抜け、私はようやく息をついた。
王都北端の下水道――かつて大火の被害を受けて閉鎖された旧水路の一つ。その一角に設けられた秘密の抜け道を抜け、シーフギルドの隠れ通路へと逃げ込んだ私は、背中から湯気が立ち上るほどの興奮と疲労に包まれていた。
「は、はぁ……すご……」
後ろでへたり込んだのはミレア。ギルドに残してきたはずが、途中の合流地点に現れたときは驚いたものだ。少しばかり覗き見の練習に付き合わせていたのが、よほど楽しかったのか、それとも――無意識に、誰かの「影」を追う癖でもあるのか。
「何度言ったらわかるのよ。勝手についてくるんじゃないって言ったでしょ」
「で、でも……紗紅夜さん、すごく危なそうだったから……」
真っ直ぐな目でこちらを見つめられると、思わずため息が出た。……こういう子、昔にもいた。まるで、かつての自分をそのまま映した鏡を見ているようだった。あの時、手を差し伸べられた「私」と、今回、手を差し伸べられそうになっている「ミレア」。その間に横たわる、決して埋まらないはずの溝を、私はどう扱うべきか、内心で惑っていた。
……情が湧いたわけじゃない。ただ、使えるかもしれないから、気にかけておく。それだけ。そう言い聞かせながら、私はどこか自分に嘘をついているような気がした。
*
ギルドに戻ると、案の定、《夜の君》が待ち構えていた。仮面の奥に感情を見せないその人影は、私が差し出した文書を一目見ただけで、それがどれほど危険なものかを悟ったようだった。
「……これを、お前一人で持ち歩くのは危うい」
「同感ね。で、ギルドはこれをどうする気?」
「いずれ、それを知ることになるだろう」
はぐらかされた。それが腹立たしいと感じる自分に、私は少し驚いた。いつから私は、この王都の運命なんてものに首を突っ込むような女になったんだろう。ただの依頼をこなすだけの泥棒だったはずなのに。あの予言を見た瞬間、私はもう、傍観者ではいられないと悟った。ギルドの思惑、王都の闇、そして自分自身の過去。全てが絡み合い、私をこの濁流へと引きづり込んでいる。
でも、遅かれ早かれ分かっていた。あの夜を境に、私はただの泥棒じゃいられなくなった。
*
翌日、私はミレアと共に、ある場所を訪れていた。
場所は、王都東区にある
「……まさか、ここに来る日が来るとは思わなかった。」
「うちのギルドでも、簡単に口にできない場所ですから。」
ミレアの声が、いつになく緊張している。
この書庫の主は、《銀の鎖(シルバー・チェイン)》と呼ばれる情報組織の一員だった。噂では、王都の権力層の裏情報、王族の血筋、ギルド間の裏取引……王都に渦巻くあらゆる「澱」を記録し、管理しているという。まるで、嘔吐の喉元に食い込む「銀の鎖」そのものだ。
そして、私が持ち込んだ予言文書が“本物”であるなら、この書庫主は何かを知っているはず。
*
「……久しいな、紗紅夜。」
書庫の奥にいたのは、眼鏡をかけた中年の男。名はセブルク。彼は、私がまだ駆け出しの頃に何度か顔を合わせた古い情報屋だ。元冒険者でありながら、魔術研究にも精通している、王都でも屈指の“記録人”だ。
「お前がこれを持ってくるとは、よほどの流れが王都で起きているようだな。」
「私もまだよく分かってないのよ。ただ……あまり気分のいい内容じゃないわ。」
文書を見せると、セブルクは唸り、静かに告げた。
「これには続きがある。そして“銀の鎖”の本体が、数日前からその断片を探して動き始めている。」
セブルクは眼鏡の奥から鋭い視線を向けた。
「お前が持ってきたこの文章に記された《王都、沈む。王家、裏切られ。銀の鎖が喉を締める。》という予言は、まさに我々『銀の鎖』が追い求める、王都の深層に関わる情報だ。これは単なる予言ではない。王都の根幹を揺るがす、ある計画の序章に過ぎない。」
「……続き?」
「ああ。“王家の裏切り”を予言するだけじゃない。最終章には、ある“扉”を開く儀式の記述がある。それが起これば、王都の支配構造は完全に変わる。」
私は、息を呑んだ。
「つまり、ただの禁書じゃない。“鍵”なのね。」
「そうだ。そして、その儀式に必要な“もう一つの鍵”が……お前の背後に現れるだろうな。」
言葉の意味を問いただすより先に、扉が勢いよく開かれた。
「お久しぶりだね、紗紅夜。」
そこに立っていたのは――灰色のマントを翻し、獣のような目で笑う男。かつて、私と共に仕事をしていたシーフギルドの“脱退者”――ルード。
「アンタ……生きてたのね。」
「生きてるとも。だが、今はもう“盗賊”じゃない。“選ばれし側”の者さ。」
彼の眼差しの奥には、狂気と野心が宿っていた。それは、かつて私が知っていた、仲間を誰よりも大切にしていたルードの面影とはかけ離れたものだった。何が彼を変えたのか。その疑問が、私の脳裏をよぎった。
そして、その腕には、私と同じように“鍵”とされるもう一つの文書が、しっかりと握られていた。それは古びた羊皮紙に、王家の紋章らしきものが薄く刻印されたものだった。私の持つ預言の断片と対をなすような、不吉な輝きを放っていた。
*
「……ゲームの幕は、まだ上がったばかりだよ、紅い狐。」
「上等よ、灰色の犬。」
私たちの間に、かつての友情など残っていない。あるのはただ、鍵を巡る静かなる戦争の始まりだけだった。