王都ブリテンは今日も賑わっていた。陽光が石畳を照らし、噴水の水音に子供たちの笑い声が混じる。表通りの喧騒と活気――それらすべてが、まるで“何も知らない者たち”の幸福を象徴しているかのようだった。
だが、私は知っている。この都の地下には、光の届かぬ“影”が蠢いていることを。人の欲望、企て、裏切り――それらが絡みついた澱のようなものが、王都の根を腐食させている。
だからこそ、私は今日も影を歩く。
*
新たな依頼。それは、シーフギルドを通じて持ち込まれた、厄介な“仕事”だった。
表向きにはただの盗み。王都西区にある老舗の書庫を管理する貴族、マクスウェル家の館に保管された“古文書”の奪取。
だが、依頼人の素性は不明。報酬は破格。それだけで、十分な警戒信号だ。
加えて、この“古文書”がただの蔵書ではないことはすぐに分かった。王都の記録保管を担うメイジギルド、その一部の魔法士たちがこっそりとマクスウェル家の出入りを監視しているという情報を、古い情報屋の老人から得た。しかも、その文書は《予言録》の断片――かつて大戦を引き起こしかけた禁書の一部らしい。
「ねえ、紗紅夜さん。それって、盗んじゃいけないものなんじゃ……?」
そう言ったのは、最近私の影にくっついてきている子犬――ミレア。無口だった彼女も、ようやく私に小言を言えるようになったらしい。成長の証とでも思っておこう。
「“盗むべきか”じゃない。“盗む価値があるか”が問題なのよ。私たちは盗品の意味で動くんじゃない。美学と報酬、そして納得のいく理由が揃った時だけ動く。それが――泥棒の流儀ってものよ。」
ミレアが目を丸くする。
「かっこいい……」
「ふふ、まあね」
*
マクスウェル邸は、王都の中でも古い貴族の屋敷にふさわしい厳重な警備が敷かれていた。魔法によるセンサー、回廊を巡回する傭兵や番犬、そして――あらゆる“気配”を嗅ぎ取るという、呪符仕掛けの風鈴。
呪具まで使ってくるとは、面倒な。
私はすでに二晩、この屋敷の周囲を観察していた。人の動き、風の流れ、魔法の反応。すべては、完璧な“侵入”のため。
そして三夜目、満月の光が強く屋根瓦に差し込むその夜、私はついに動き出した。
【ハイディング】【ステルス】。私の足音は風の囁きにも劣った。影を影として滑らせ、屋根を伝い、屋敷の裏手にある図書塔へと近づく。
そこに、奴がいた。
「……誰?」
低く、鋭い声。私の前に現れたのは、漆黒のマントに身を包んだ人物。目元には仮面。動きに無駄がない。――アサシンギルドの人間。
不意に現れた彼女と、私は対峙した。
「私の仕事を邪魔するつもりなら、容赦しないわよ?」
「お互い様ね。こっちは“文書の破壊”が仕事。盗みじゃないけど、用件はかぶってるわ」
……なるほど。誰かが私に“盗ませ”、誰かが“証拠を隠滅”しようとしているわけか。
「一緒に入って、目的の前で解決する。どう? 一時休戦」
「面白い。手を組む?」
アサシンは一瞬の逡巡の後、静かに答えた。
「利害が一致するなら。邪魔だけはするなよ、泥棒。」
「ふふ、いいわね。スリと暗殺者、最悪のコンビだけど、今夜限りなら組んであげるわ」
私たちは互いに軽く視線を交わし、静かに頷いた。この奇妙な協力関係は、今この瞬間、始まったのだ。
*
潜入は成功した。だが文書にたどり着いた時、私は戦慄する。
それは、ただの予言ではなかった。
《王都、沈む。王家、裏切られ。銀の鎖が喉を絞める。》
預言文の断片。だが、それは現王家に関する重大な密書だった。反乱の兆し。計画的な政変。これが外部に漏れれば、王都全体が炎に包まれる。
「……これ、本当に“盗む”だけで済むと思ってるの?」
隣のアサシンが言った。
「さあ、どうかしら。でも、依頼は依頼よ」
私は文書を巻き上げ、懐に収める。
だがその瞬間、外で鋭い笛の音が響いた。
――衛兵!
何者かが侵入を察知し、王宮直属の騎士団が駆けつけてきたのだ。
「くっ……これは想定外ね。逃げるわよ!」
「当然!」
私たちは走った。影から影へ。だが追手は速い。詠唱を声が聞こえる。「焔よ、燃え盛れ!」炎の球が壁を焼き、私たちを追い詰める。さらに、「縛鎖よ、絡め取れ!」魔法の鎖が空を縛離、退路を断とうとする。
私は【ハイディング】を使おうとしたが――触れられた。
スキル、強制解除。私の姿が露わになる。
「捕らえろ! 逃がすな!」
まさかの、絶体絶命!
……だが、次の瞬間、暗闇から煙幕が放たれた。
「“影”を歩くなら、せめて呼びなさいな」
聞き覚えのある声。姿を現したのは――シーフギルドの上級員、かつての“先輩”だった。
「借りは後で返してもらうわよ、紗紅夜!」
そう言って、彼女は私の腕を引いて、闇の中へ消えた。
王都の闇は、私が思っていたよりもずっと深く、そして……手強い。
でもいいわ。こういうの、嫌いじゃない。
――美しく盗めるなら、私は、どこまでも影になる。