夜の帳が、王都ブリテンの屋根瓦を静かに覆い始めた。昼間の喧騒は影を潜め、街路にぽつぽつと灯りがともるたびに、この古都はまた別の顔を見せ始める。私はその静けさの中を、一人、音もなく歩を進めていた。石畳に響くのは、自分の靴音ばかり。その沈黙が、かえって心臓の鼓動を強く感じさせた。
ボマー事件が収束して数日が経った。あれから、王都の空気はわずかに、しかし確実に変わったように感じる。まるで、見えない糸が張り巡らされたかのように、張り詰めた緊張感が漂っていた。誰かが何かを探している――そんな不穏な視線が、路地の影や建物の隙間から、肌を刺すように忍び寄るのを感じていた。
「……嫌な予感って、だいたい当たるのよね」
ふと、私の行く手を遮るように、夜風がひらりと一枚の紙片を舞い上げた。それは、まるで私を待ち構えていたかのように、足元へと吸い寄せられる。拾い上げて広げると、そこには見覚えのある印――黒百合の紋章が、漆黒のインクで鮮やかに刻まれていた。
「……ギルドマスターからの呼び出し、か。ずいぶん久しぶりね」
この印を持つ者、それは“シーフギルド”の最上層に立つ人物――
シーフギルド本部は、王都の地下深く、忘れ去られた古井戸を下った先にある。普段は人一人通らない寂れた場所だが、私のような裏稼業の人間にとっては、そこが最も安全な隠れ家だ。井戸の底に続く螺旋階段を一段一段降りるたびに、湿った土の匂いと、微かな石の香りが鼻腔をくすぐる。その空間は驚くほど静かで、石造りの壁に等間隔で灯る無数の燭台が、長い影を揺らし、まるで生きているかのように蠢いて見えた。
最奥の広間、仄暗い玉座のような椅子に、ギルドマスター――《夜の君》は変わらず黒いローブの裾を長く引きずりながら腰を下ろしていた。彼の顔は無表情な仮面で隠されている。しかし、その仮面の奥から放たれる眼差しは、私の心を射抜くかのように鋭かった。まるで、私の全てを見透かしているかのような、底知れぬ深さがあった。
「紗紅夜――よく来てくれたな。貴様、あの“ボマー”を仕留めたらしいな」
低く、しかし響くような声が、静寂な空間に広がる。
「……まあ、仕留めたというより、勝手に爆散してくれたって感じだけど」
皮肉交じりに返すと、ギルドマスターは仮面の奥で微かに笑ったようだった。そのわずかな変化にも、彼の感情の揺れが感じ取れた。
「そのせいで、いくつかの“計画”に狂いが生じた。お前が潰したのは、ただの愉快犯ではない。背後には“鍵のない扉”という組織が存在している」
「……鍵のない扉?」
初めて聞く名に、私の眉がぴくりと動いた。
「ああ。表社会では名もなき存在だが、裏では金と情報を媒介に、戦争すら引き起こす連中だ。あの爆弾騒動は、ある貴族を標的にした陽動だったらしい。貴様の一手で、やつらの時計が狂った」
思わず、眉をしかめる。私の“仕事”が、ただの泥棒の域を超えていたということか。知らず知らずのうちに、巨大な組織の謀略に足を踏み入れていたことに、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「それで? 褒めに呼ばれたってわけでもないでしょう」
私は冷静を装って尋ねる。彼の言葉の端々から、ただならぬ雰囲気が漂っていたからだ。
「褒めるわけがなかろう。次は“貴様の覚悟”を試させてもらう」
その言葉と同時に、彼の背後の壁が音もなく開いた。まるで隠された扉が魔法のように現れたかのように。そこから、一人の少女が姿を現した。金色の瞳に、肩までの漆黒の髪。その目は、どこか――そう、遠い昔の“私”を見ているようだった。怯えと、しかし確かな光を宿した瞳。
「この子、名前はミレア。元・鍵開け専門のスリだ。今はギルドの保護下にある。だが、お前に“仕事”を教えてもらいたいと言っている」
「……教える? 私が?」
予想外の言葉に、私は思わず問い返した。泥棒として生きてきて、誰かに何かを教える立場になるなど、考えたこともなかった。
「お前も、昔は教えられる側だったはずだろう」
ギルドマスターの言葉が、私の心の奥底に眠っていた記憶の扉を叩いた。その瞬間、ひどく古びた記憶が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
――小雨の降る夜、凍える体で、泣きながら盗みに入ったあの屋敷。捕まる寸前、突如現れたひとりの女盗賊が、私を影へと引きずり込んだのだ。彼女の目は、私と同じ絶望と、しかしそれを超えた強さを秘めていた。
「生きたけりゃ、技術を覚えな。道具でも心でもいい、盗みを美しく仕上げる覚悟を持ちな」
……あの人の言葉が、私を“紗紅夜”にした。あの時の恩義と、泥棒としての矜持が、今の私を形作っている。
ギルド本部を出て、ミレアはまだ子犬のように私の後ろをついてくるだけだった。しかし、その金色の瞳には、確かな熱と、未来への希望が宿っているのが見て取れた。彼女の小さな背中を見ていると、かつての自分の姿が重なった。
「あなた、名前は?」
振り返り、私は優しく問いかけた。
「……ミレア。あなたが、あの紗紅夜なんですか?」
その言葉に、少し照れくさいような、誇らしいような気持ちになった。
「私が“あの”かどうかは知らないけど……そうね、今日からは“先輩”って呼んでくれていいわ」
初めて感じた、“教える”という立場。これは、泥棒としての新しい段階なのかもしれない。自分の得た技術と知識を、次の世代に繋ぐ。やれやれ、これじゃあ、のんびりパンを焼く時間もなくなりそうね。でも、どこか、悪い気はしなかった。
その夜、帰り道の途中で、私は王都の一角にある古い噴水の前に立ち止まった。月の光を浴びて静かに水を湛えるその場所は、かつて私が暮らした貧民街の路地裏を思い出させた。石造りの獅子像が、当時見た薄汚れた壁の落書きのように見えた。初めてスリを働いた場所。震える手で奪った、手のひらサイズの小さなリンゴ。あのとき、自分には何も守れるものがなかった。弱くて、ただ生きることに必死だった過去。
「……ふっ、何を感傷に浸ってるのよ、私らしくない」
自嘲気味に呟き、私は噴水の水面に映る自分の顔を見た。そこには、過去の怯えた少女の面影はなく、むしろ強く、どこか諦めたような、それでいて未来を見据える女性の顔があった。けれど、私は確かに感じていた。これは、ただの「仕事」じゃない。自分の過去と向き合い、他人の未来に手を伸ばす――そんな新たな試練が、すぐそこまで来ているという予感を。
「――いいわ、やってやろうじゃない。私の“美学”が、どこまで通用するのか、試してやる」
夜風に髪がなびく。冷たい風が、私の頬を優しく撫でていく。誰も見ていない影の中、私は小さく笑った。その笑みは、覚悟と、そしてかすかな期待に満ちていた。