レンブリー伯爵ソフィア・エバーグレンは、ワイングラスを片手に暖炉の前をせわしなく往復していた。
「良くないこと」
呟きながらワインをがぶりと飲む。普段、人前でも一人で酒を楽しむ時も、絶対にこんな飲み方はしない。ただし、今夜は特別だ。
「良くないこと……——ではないかもしれない」
もう一口。グラスが空になった。
こうしてもう一時間にもなるが、落ち着く気配は一向にない。当然だ。ソフィアは今日初めて男娼を買ったのだ。
これ以上ワインを飲むべきか否か考えながら、マントルピースの上に置かれた鏡を一瞥する。
鏡の中の女は、艶のある黒髪を下ろし白い肌は酒のせいか仄かに赤みを帯びていた。つまり、男娼を買ったはいいものの、動揺している女の姿があった。
まさしく、今の自分だ。
それになんだか、ナイトドレスの胸元が開きすぎている気がする。
ソフィアが男を迎えるにあたって、悩んだすえに選んだのは真紅のシルクのナイトドレスだった。胸の深いカットに黒い薔薇を模したレースが贅沢に使われている。
自分が魅力的に見えると思い、四年前に戯れに買ったものだった。あの時は、もし夫が帰ってきたら、その時に着てみせようと思ったものだ。
だが、その機会は訪れなかった。
それから四年、誰かに見せた事はないし、着たこともなかった。ソフィア自身も買ったことをすっかり忘れていた。
ソフィアは結婚相手であるレナードと、一度も会ったことがなかった。
婚約も父から言われて本人にも会わずに合意したし、婚約後も彼は遠い大陸に留学をしていた。結婚式の直前に領地で発生した水害の対応で彼は港からそのまま領地に向かい、結局顔を合わせることもなく、結婚の署名は代理人によって行われた。
代理人による結婚は珍しくないとはいえ、さすがに一度も顔を合わせていない夫婦など、ほとんどいないはずだ。
離れ離れの生活は、最初は水害で壊れた石橋を設計する数ヶ月間で終わるはずだった。それが嵐でさらに伸び、やがて橋が完成するまでになりまた伸びた。
結婚生活の初めのうちは、ソフィアもまめに手紙を送っていた。ただ、返信として届くのは代筆の短いものだけだった。
何年か前に自分も領地に行こうかと手紙で伝えると、『来る必要はない』との返事が来た。その時、ソフィアの心は凍りついた。
まぁ、実際には凍りついてはいなかった訳だけど。ソフィアは苦笑した。
あれから、まだしばらくは彼が帰ってくるかもと思い続けてきたのだから。こんな際どいドレスまで買って。
空になったグラスにワインを注ぐ、ボトルに残ったのはあと僅かだ。
今となっては夫が帰ってこようがこまいがどうでもいいように思える。最初の数年は戸惑い、惨めな思いはしたものの、話したこともない人物はいないも同じだし、未婚の令嬢より伯爵夫人の方が自由に行動しやすい。
ただ、夫のことを聞かれて気にしているふりをし続けるのはうんざりしてきたのは間違いない。それに少しは人恋しさもある。
そんな時に、ある夜会で聞いたのだ。上流階級の女性専門の男娼があると。
覚悟を決めなさいソフィア!
上流階級では、そこら中の既婚女性が愛人を持ち好き放題振る舞っている。その中で男性を買うことくらい、大げさに考える必要はないはず。――と思う。少なくとも、娼館宛に短い手紙を書いた時はそう思っていたし、あの時はいい考えだと思っていた。
今はワインをがぶ飲みする程度には後悔をしている。ただ、誰かに抱きしめてもらいたいのは本心だ。
夫であるレナードも女性を買ったことはあるはず。たぶん。そもそも婚約前から愛人がいるかもしれない。
未だに顔すら知らない男との書類上の契約を守る理由はある? ソフィアにはあるように思えた。ひどい裏切りにも思える。だが、それは相手が思いやりがある場合の話だ。レナードにはあてはまらない。
現に、今まさに男娼を待っているにもかかわらず、夫の顔は一切浮かんでこなかった。
顔も知らないので当然だ——いや、正確には肖像画は見たことはある。
本邸に飾ってある、若い頃の彼の肖像画だ。
ただ、自分を惨めにさせた男の顔を眺める事になんの意味がある? なのでソフィアは夫の顔を積極的に忘れようとしたし、実際のところ、ぼんやりとした面影しか浮かんでこない。
夫には期待できない。ならば……買うしか無い。
その時、ドアノックの音が響き、ソフィアを心底驚かせた。
*
ドアの向こうに立っていたのは、身なりのいい紳士だった。
くすんだ金髪を固く編み込み、暗い色の外套は飾り気はないが上品だ。精悍な顔立ちに、濃い青みがかった瞳が穏やかにソフィアを見つめていた。
思わずほぅっと息をついてしまう。
彼は……物凄く高そうだ。実際高かったし、礼儀正しそうな紳士となれば当然の値段だろう。
「ソフィア?」
紳士は礼儀正しく挨拶すると低い声で呟くように言った。
うわ、とんでもなくいい声だ。
ソフィアは答えに詰まって、ぎこちなく頷くことしかできなかった。男はソフィアの格好に気づいたのか、愉快そうに目を細めている。
歳は……わたしと同じか少し上くらい。28歳ほどだろうか。端正な顔立ちに少年の面影はない。
「……若く、はないわね」
紳士は眉を上げた。
「それはどうも」
いけない、いつまでもよだれを垂らして見つめているわけにはいかない。
「いい意味よ。ほら、十代の男の子が来たら、どうしようかと思っていたし……」
緊張でペラペラと喋っている自覚はあるが、止められない。どうやら、わたしは不貞には向いていないようだ。
ふと、ドアも開けたまま玄関先に二人で立っている事に気づいた。女主人が際どいドレスを着て、色男を迎えていると思われてはまずい。
「来て」
ソフィアは男の手を取って階段を進んだ。
この屋敷は彼女が相続したもので、同じ街にあるレンブリー伯爵本邸とは別の場所にある。普段は使用人もほとんどおらず、今日は通いの者もいなかったため、今夜はソフィアひとりだけだった。
寝室に招き入れてから、ようやくソフィアは男と手を繋いでいることに気づいた。
――異性と手を繋いだのはいつ以来だろう。少なくとも二十年は前の気がする。
男の手は大きく、ソフィアの手をすっぽりと包み込んでいた。皮手袋越しにもしっかりした腱の感触が伝わってくる。
その大きな手が、手触りを楽しむようにシルクの夜着をなで上げる——ふいに脳裏に浮かんだ光景にソフィアは赤面した。
まったく、飲みすぎたのは間違いない。
「あなた、お名前は? 聞いてもいいのかしら?」
「レオです」
ソフィアは思わず眉をひそめた。レナードのことが頭をよぎる。
——よりにもよって、今このタイミングで夫の事を思い出すとは……。
「良くない名前だわ」
「それはどうも」
「ごめんなさい。貴方の名前が悪いのではないの。わたしの問題よ。今から夫以外の男性と関係を持つ時に、彼の事を思い出すのは間の悪い話でしょう」
「なるほど」
レオは眉をしかめて腕を組んだ。
「ワインはどう? 蒸留酒のほうがいい? あ、でも、あなたは仕事中だから駄目かしら?」
「お構いなく。真夜中には飲まない主義なので」
「あら、そう。じゃあ、紅茶でも……」
言葉は尻すぼみになっていく。お湯を沸かすには台所まで行かなければならないし、もう火も消しているだろう。
ソフィアは伯爵家の令嬢として育ち社交の場を踏んできた。結婚してからは慈善活動に精を出し、それなりに場慣れはしているつもりだった。
――なのに、どうだ。
目の前のこの男が落ち着いていればいるほど、自分の動揺が際立っていく気がする。
絶対に飲みすぎだ。
彼はそんなソフィアを、訝しげにじっと見つめている。
「あの、それで……」
ソフィアがようやく口を開こうとしたその瞬間、男がふいに彼女に近づいた。
「ソフィア」
名を呼ばれて、ソフィアの心臓が大きく跳ねた。
彼の瞳は金がそばかすのように散っている——なぜ今、こんな場違いなことを考えてしまうのだろう。
ソフィアの脳裏に、ある一枚の肖像画がよぎった。今はもう思い出さないようにしていた男の顔だ。肖像画に描かれていた男の顔が、今目の前にいる男の顔と奇妙なほど重なった。
その眼差しと、瞳に浮かぶ金箔のような斑点。
「レ、レナード……?」
ソフィアはほとんど声にならない声で呟いた。
思わず後ずさる。
「あなた、わたしの旦那様?」
我ながら滑稽な問いかけだと思った。状況が状況でなければ、吹き出していたことだろう。
「契約上は」
眼の前の紳士は気取った仕草で肩をすくめた。様になりすぎていて腹立たしいくらいだ。
「——な、なるほど……そうね——吐きそう……」
「私もだ」