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第2話 レンブリー伯爵の誤算

 酒だ。酒が必要だ。

 何年も待ちわびた妻に会いに家に帰ってきたというのに、妻が男と会っていたとは。こんな時は特に。


 彼女もそんな様子だった。青い顔をして後ずさると、新しいワインを取り出しコルクスクリューと格闘している。

 まったく、僕の方こそ酒が必要なのは間違いない。しかもずっと強いやつを。

 レナードは床に転がるワイン瓶を一瞥してため息をついた。

 この女、どれだけ飲んだのだ?


「そんなに飲むのを止めなさい」


「わたしが屋敷でなにを飲もうがわたしの勝手よ」


 ポンっとコルクを抜くと、ソフィアは得意げに胸を張って振り向いた。

 おいおい、貴族の女が自分でワイン栓を抜くのを初めて見た。自分の結婚相手は伯爵家の令嬢と聞いていたが、いまさらながら怪しく思えてくる。


「我々は話し合う必要があると思わないか?」


「そうね。先にどうぞ」


 レナードは深呼吸をして落ち着こうと努めた。実際は彼女の肩をつかんで揺さぶってやりたい気分だったが。『どういうつもりだ?』とかなんとかを叫びながら。

 だが、女に乱暴したことはないし、これからもないだろう。そんな事をするくらいなら、窓から飛び降りたほうがマシだ。

 ここは一つ、紳士らしく冷静に行こうじゃないか。

 ——いや、無理だ。


「君は一体何をしているんだ? 私の屋敷で男と会っていたのか?」


 想像よりも荒々しい声が出てしまい、自分でも驚いた。しかし、彼女は一歩も引かなかった。その瞳は冷たく、ワインボトルを抱えている割には落ち着いて見える。


「ここはあなたの屋敷ではないし、男とも会っていない。わたしは男娼を買ったのよ」


 なお、悪い。

 淑女の、しかも自分の妻の口から『男娼』なんて言葉が出てくる日がくるとは思ってもみなかった。悪い夢を見ている気がする。

 おいおい、まさか遠く離れた地で貞淑に夫を待ち続けているとでも思っていたのか? たった数行の短い手紙一つで? うるさい、黙ってろ。

 レナードは沸き起こる怒りを抑え、冷たく言い放った。


「私からの手当で男を買っていたとはな」


「あなたからの手当には手を付けていない。そもそも毎年いただいているお金は慈善事業に全額寄付しているもの」


「なんだって?」


 初耳だ。


「寄付しているのよ。わたしは母からの相続が十分にあるし、多くはいらないと手紙にも書いたはずよ」


 その手紙は覚えている。何年も前の結婚したすぐ後に届いたものだ。彼女が非常に裕福だとは知っていたし、暗にいらないとも書かれていたが、夫として妻に手当を渡すのは当然の義務だと思っていた。


「全額と言ったか? 散財したな」


「孤児院を作ったのよ。門にあなたの名前が彫ってある」


 ソフィアはポツリと言った。

 なるほど、立派だ。だが、それとこれとは話が別だ。


「善い行いをする淑女は男娼を買うのが趣味なのか?」


「いいえ、少なくともあなたが来たから、趣味にはならなかった。こんな夜更けにね。念の為に言っておくけど、今回が初めてよ」


 レナードは眉を上げた。

 初めてとソフィアは言ったが、その言葉を鵜呑みにはできなかった。何年も離れて暮らしてきたのだ。彼女の何を知っているというのだ?

 放蕩に耽っていたといわれても驚かない。いや、死ぬほど驚くだろうが。

 ソフィアはグラスに新しいワインを注ぐと振り向いた。

 彼女の格好を鑑みるに、男心をそそるには十分に見えた。艶のある黒髪に、瞳は淡い緑色だ。普段のレナードならハッとする顔立ち。それに心地良い声。

 大きくカットされた胸元から白くなめらかな肌が見える。何年も女に縁のない生活をしていたのを差し引いても非常に魅力的なのは間違いない。

 くそっ、強い酒が必要だ。

 寝室を見回すと、マントルピースに並べられたクリスタルのデキャンタに入ったブランデーが目についた。ここは彼女の屋敷なので、ソフィアの父親のものだろう。

 構うものか。


「私は貞淑な女性と結婚したつもりだったが、思い違いだったようだな」


 ソフィアは大胆に開いた胸元に気づいたようで、頬を赤らめて胸元を掻き抱いた。結果、その胸が大きく盛り上がる。レナードはなんとか視線をそらした。


「あなたが結婚した女のことを覚えているとは思わなかった。会いにも来ず、訪ねもしなかったからでしょう? 返事の手紙すら代筆だった」 


 ソフィアは皮肉っぽい笑みを浮かべる。

 レナードの胸がグッと詰まった。そうだ。手紙は全て代筆を頼んでいた。その言い訳をこの場でするつもりはない。


「結婚して何年だと思う?」


「五年」


「その通り、よりによってなんで今夜帰ってきたの?」


「君が病いにかかったと聞いて帰ってきたんだ。その仕打ちがこれか?」


「病い? それは一ヶ月も前の話よ。ご覧の通り回復しているし、その事も先週の手紙に書いたはずよ」


 たしかそんな手紙も読んだ。都でたちの悪い風邪が流行ったと聞いていたので、良くなったとの知らせを聞いて心底ホッとしたのだ。

 ソフィアからの手紙は一つ残らず目を通している。


「どうも私の想定以上に元気らしい」


 ブランデーを目一杯グラスに注ぐ。右手は使えないから、グラスはマントルピースに置いたままだ。ブランデーは盛大にグラスからこぼれている。

 普段人前でも一人で酒を楽しむ時も、絶対にこんな飲み方はしない。

 一口飲むと、琥珀色の液体は喉元をなめらかに通り過ぎ、みぞおちで爆発した。

 ソフィアの父親はとんでもなく酒の趣味がいい。これでは彼女がワインをがぶ飲みしているのもうなずける。


「自分に怒り狂う資格があるような言い草ね」


 資格はある、僕は彼女の夫なのだから。

 書類上はな。婚約中も、結婚後も会ったこともない。ベッドを共にした事もない形だけの妻だ。レナードは心の底からのささやき声を無視して続けた。


「つまり、私がいないから男娼を買ったのか?」


「男を買った理由を結婚相手に言うべきではないことは知っているわ」


「離縁したいのか? 僕達は関係がなかったから、申し立てれば可能だったはずだ。男を買ったら、君の不貞になるのだぞ」


「馬鹿らしい」


 なんだって?


「離縁したいのなら、とっくにしているわ」


「結婚生活を続けたいと考えているなら、こんな事はしないはずだ」


「あなたはなんにも分かっていない。ま、わたしもあなたの事をなにも知らないけど」


 ソフィアはそう言うと、窓辺から下を覗き込んだ。

 レナードには彼女の言葉の意味がまるで理解できなかった。ふたたび、ゆさぶってやりたい衝動が込み上げてくる。


「君が買った男なら、屋敷の前にいたから私が追い払った」


「なんですって?」


「醜い男だったよ」


 レナードはぼそりと言った。

 実際はレナードよりずいぶん若く、彼より華やかな当世風で一目置くような美形の男だった。それに、レナードが怪しんで声をかけるとすぐに察して、その場を離れた。

 賢い男だ。

 だがそんなことを妻に知らせる気は一切ない。


「少なくとも謝罪する気持ちはあるのだろうな?」


「何に対して? あなたを男娼と間違えたこと?」


「分かっているはずだ」


「あなたは女を買ったことがないとは言わせないわよ。少なくともわたしに愛人はいない」


 くそっ、この女、信じられない。これ以上歯を食いしばると脳みそが耳から出てきそうだ。

 しばらく睨み合うと、ソフィアはため息をついて口を開いた。


「——続きは明日にしましょう。今夜はもう寝るわ」


 ソフィアはだいぶ少なくなったワインにコルクで栓をすると、マントルピースの上においた。


「怒鳴り合うだけじゃなくて、もっといい過ごし方があったはずなのに」


 ランプの明かりがシルクのドレスを照らし、身体のラインを際立たせていた。

 滑らかなシルクの手触り、彼女の冷たい手が自分の髪の毛をくしゃくしゃにする——レナードは脳裏に浮かんだ光景を振り払った。


「この寝室使っていいわよ。わたしは母の部屋で寝るから」


 パタリとドアを閉める音に続き、鍵のかかる音が響いた。

 レナードはグラスに並々と注いだ酒を一気に煽った。どれだけ飲んでも足りない気がした。

 玄関扉を開けた時の彼女の困惑した表情を思い出し、胸が詰まる。

 彼女が僕だと気づいて、喜んで胸に飛び込んできてくれるとでも思ったのか?さすがにそこまで図々しくはない。

 そもそも、彼女が僕の顔を知っているかも怪しいのだ。実際、気づきもしなかった。

 本邸に向かう途中に、彼女の屋敷に明かりが灯っているのを見て、飛び込んだのは完全に失敗だった。

 いや、成功か? 少なくとも男娼を追っ払う事はできた。

 彼女とは、ただ礼儀正しい挨拶と今後について話し合うはずだった。


 それに、今までの謝罪の言葉だって考えていた。たっぷりと考える時間はあったのだ。そう、たっぷりと。

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