次の日の朝、レナードは人生最大の二日酔いに見舞われた。どれだけ飲んだのかは覚えていないが、これだけ体調が悪いのは無茶な飲み方をした学生以来だ。
そして、当然のごとくソフィアの姿は屋敷にはなかった。
げっそりとした調子で本邸にたどり着き、五年ぶりの主人の帰還に使用人たちを前代未聞の大混乱に陥らせた。
レンブリー伯爵邸の中は、レナードが子どもの頃と随分変わっていた。全体的に壁紙が取り替えられ、家具も一新され、明るさが増している。
一方、使用人たちは見慣れた顔ばかりだった。驚きつつも歓迎され、屋敷全体が活気づいていくのを感じながら、レナードは随分長いこと帰宅していなかったのを後悔した。
領地から持ってきた新しい服に着替え、重い頭を抱えながら階下へ向かう。
「旦那様、本日のご予定はいかがしますか?」
後ろから執事のオーウェンが話しかけてきた。手には、料理長が張り切って作ったらしい特製の酔い覚ましを持っている。
レナードは恐る恐る濁った液体に口をつけた。
ひどい味だ。酸っぱくて苦い。死者をも起きそうだ。
「オーウェン、階段に私の肖像画がなかったかな?」
「奥様が模様替えの際に移動されました」
なるほど、顔も見たくないほど嫌われているらしい。やけ酒のおかげか昨夜の怒りはすっかり冷めて、今は『まあ、当然だろうな』と思える。
「妻はどこへ?」
「奥様でしたら……」
昔から何事も率直なオーウェンが、珍しく言い淀んだ。
「孤児院か?」
執事はホッとしたように笑みを浮かべた。
「孤児院での炊き出しのお手伝いに行っています」
なるほど、我が妻は慈善事業に熱心のようだ。だとしたら、今日の予定は決まりだ。
レナードはオーウェンから場所を聞き出すと、不味い酔覚ましを飲み干した。酒浸りの脳に活を入れ、ソフィアの孤児院に向けて出発した。
彼女との話し合いは避けては通れない。
*
ソフィアの孤児院は街のはずれ、西にある大通り沿いにあった。
孤児院は小さめのカントリーハウス調の建物で、正面の中庭が炊き出しの会場となっていた。年長の子どもたちが食事の後片付けをしている。
いた、ソフィアだ。
レナードが脇道から覗くと、すぐに彼女を見つけた。
昨夜あれだけワインを飲んでいたにもかかわらず、彼女は今まさにブティックから出てきたような姿だった。今日は藍色のシンプルなアフタヌーンドレスを着ている。控えめだが洗練されていて、明らかに洒落者だ。
なんだか、自分が時代遅れの服を着た田舎者に思えてくる。実際そうだが。
レナードは微笑みを浮かべているソフィアを初めて見た。その穏やかな笑顔に、胸の奥が暖かくなる。
その顔が自分の登場で消えてしまうのは、あまりにも容易に想像がつく。
だが、こそこそと物陰から妻を見つめる趣味はない。レナードは堂々と正面から乗り込んだ。
レナードに気づいたソフィアは、わずかに顔をしかめ、目を閉じた。
「おはよう」
「おはようございます。レンブリー伯爵」
ソフィアは礼儀程度に礼して呻くようにつぶやいた。
ふん、伯爵か。いいだろう。
「何しに来たの?」
「私の金を使い果たした結果を見に来た」
ソフィアの警戒した表情をレナードは無視して言った。
彼と同じで、彼女も再会を歓迎している様子はない。
「いい施工だな……総レンガ造りの三階建て。窓の大きさと間隔のバランスがとれている」
レナードが感心したように建物を見上げていても、ソフィアは別の光景に目を向けていた。
「卒院間際の子ども達が食事を作って配給をしているの。街の食べ物屋で働くより、料理を覚えて料理人として雇われた方がお給料がいいから」
レナードはふと視線を門へと移した。孤児院の門を中心に街の大通りでよく見かける大型の街灯が並んでいる。これだけあれば、夜でも十分明るく安全だろう。
それに、レナードの領地では見かけないデザインだ。
「これは最新型だな。鋳鉄製か! いいな。かなりの値がしただろう」
「ねぇ、もしかして……」
ソフィアはためらいながら口ごもった。
沈黙が流れ——レナードは彼女の言いたいことを察した。
おい、冗談じゃない。
「レンブリー伯爵家は君が孤児院を少々建てようが破産したりはしない。心配する必要はない」
君は好きなだけ使えばいい、と続けそうになり、レナードは頭をふった。
そのまま気まずい沈黙が流れる。
「私の名が記された門を見たい」
ソフィアに案内されたレンガ造りのアーチ門には、『レナード・ヒース・エバーグレン救育院』と刻まれた青銅の看板がかかっていた。
それを目にした瞬間、レナードは自分が思った以上に感動していることに気づいた。
妻が建てた建物に、自分の名が掲げられている。それが誇らしかった。
思わずアーチに手をかける。
「アリジニア式だ」
「え?」
「アリジニア式のレンガの積み方だ。ほら、一段ずつ交互に組んでる。レンガは南ロス産かな。良いものを使っている。長く持ちそうだ」
ソフィアは驚いた様子でレナードを見ている。どうやら薄情な夫から蘊蓄を垂れる男に格下げされたようだ。構うものか。
「大学では歴史と建築を専攻していた。爵位がなかったら、建築家になりたかった。婚約した時に国にいなかったのは、政府の使者として隣国の大規模水路事業の視察に行っていたからだ」
ついでにもう一つ自慢してもいいだろう。
「数学が得意だ」
ソフィアは眉を上げた。
「君は私の事を何も知らないと言っただろう。だから話している」
「自慢話だけをしにきたの?」
「法学が苦手だ。試験に何度も落ちて父に呆れられた。だから今でも弁護士は優秀な男を雇っている」
ソフィアは少し戸惑っているようにも見える。
「君はどうなんだ? 手紙には慈善活動のことなんて一言もなかったじゃないか。門に私の名前を掲げる前に、知らせてくれてもよかったのに」
「施しを嫌う人もいるのよ」
なるほど、つまり僕は傲慢でしみったれた貴族だと見られていたわけだ。
ソフィアは少し目を伏せて、足元の石畳を見つめていた。
冷たい風が吹き抜け彼女のスカートの裾が揺れる。視線は合わせないままだが、どこか言葉を選んでいるような沈黙だった。
「いつまでここにいるの?」
「そうだな、ひと月くらいかな。久しぶりだから、用事を片付けて帰る予定だ」
用事——その言葉に含まれる意味を、二人とも理解していた。
昨夜の口論が脳裏をよぎる。声を荒げた事を思い返し、レナードは後悔していた。傷ついていたのはしょうもない自尊心だと分かっていたのに。
ただ今も、眼の前の彼女が他の男と一緒にいる所を想像すると、どうしようもない苛立ちがこみ上げてくる。その資格はないと分かってはいるのに。
「なんで帰ってきたの?」
「風邪を引いたと知って心配したからだ」
「治ったと知らせたじゃない」
「それでも心配した」
「やっとわたしの事を思い出したってわけ?」
実際にそうだった。石橋の基礎工事が一段落し、ようやく彼女のことを考える余裕ができた。さすがにこれ以上後回しにはできないと思い、屋敷へ向かったのだ。
「——そうだ」
ソフィアの横顔がわずかに歪み、凍りつくように冷ややかな目になるのを感じた。
やったじゃないか。完全に傷つけた。
嘘でもずっと思っていたと伝えるのは欺瞞だろうが、『君の存在は全ての問題を置いて、領地から飛び出すほどではなかった』と伝えることになんの意味がある?
「そう……」
ソフィアは目を伏せ表情が読めない。その様子に、レナードは会いに来るべきではなかったという思いをいっそう強めた。
出会いは最悪だった。それでも今は彼女に惹かれて始めている。
実際のソフィアは手紙の中の彼女とは別人で、本気で手当を使い切り、孤児院を建て、酒を飲み、魅力的だった。知性と行動力、そして思いがけない一面に心を奪われつつある。
だからといって、今さらひざまずいて許しを請うのは、かえって彼女を傷つけるだけだ。
それに、何度考えても五年前の結婚式の前に、災害のあった領地に向かわない選択肢はなかった。別れが辛くなるだろう。
できるなら、抱きしめてキスをし、何日も寝室にとどまりたい。
それでも心臓を銀の皿に乗せ差し出す時だ。
「会いもしなかったのは領地の立て直しに忙殺されていたからだ。正直に言うと、結婚する前も後も君に割ける時間はなかったし、今考えても作れなかったと思う。それでも後悔はしていない。私には責任があるから。ただ、ソフィア。君には申し訳なかったと思っている」