「正直に言うと、結婚前も後も君に割く時間はなかったし、今考えても作れなかったと思う。それでも後悔はしていない。私には責任があるから。ただ、ソフィア。君には申し訳なかったと思っている」
レナードの告白は、思っていた以上にソフィアの心を傷つけた。
君に割く時間はなかった。
もちろん、そうだろう。思った通りだった。
ただ、これまではどこか空想上の存在のようだったレナードが、こうして目の前に現れ、本人の口から告げられると想像以上に堪えた。
「あなたはこれからどうしたいの?」
「どうするかは君に任せる」
結婚したての頃に感じた惨めさが、またゆっくりと沸き起こってくる。いまさらそれを再確認するなんて冗談じゃない。
ソフィアは深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「それを伝えて、わたしが喜ぶとでも?」
「いいや、ただ——。君をずっと思っていたといわれるよりマシだと思う」
その通りだ。そんな嘘を聞いたらきっと泣き出していただろう。
今まさに身体の芯が凍りついたように強張っているのだから、すでに限界だ。傷ついていると思われたくない。そんなのは本当に惨めだ。
「やっぱりワイン瓶で殴っておけばよかった」
レナードは眉をしかめたが、一歩も引かなかった。
そこは評価してあげてもいい。とソフィアは場違いに思った。
「自分の都合で帰ってきて、全部わたしに任せるなんて都合がいいと思わなかったの?」
「思う」
「話合う余地はあった。わたしはあなたの領地に行くこともできたじゃない。手紙で伝えたはずよ」
「酷い有様だったから断ったんだ。上流で土砂崩れがあって石橋が崩落して、畑も家屋も水没した」
レナードは言葉に詰まったように少し目を伏せた。
「邸宅も半壊していた。ずっと宿か、馬小屋の横の小屋で暮らしていた。修繕が終わったのは、ようやく一年前だ」
初耳だ。
あの短い手紙にも、レナードの父からも聞いていなかった。私に隠していたのだろうか? 心配掛けまいと?
いや、そうではないだろう。慎重に言葉を選んではいるけれど、単に伝えることすら思い浮かばなかったのだ。
その事実が、胸の奥にまた冷たいものを残した。
「他に、わたしに言っていないことは?」
レナードはしばらく考え込んだ末、右手の革手袋を静かに外した。
無言で差し出されたその手を見て、ソフィアは思わず息を呑んだ。親指の付け根に大きな痣があり、幾筋もの固く盛り上がった傷跡が残っている。
「領地の復旧中に怪我をして、腱がだめになった」
ソフィアは思わずレナードの手を両手で包み込んだ。昨夜そっと握った大きく温かな手だ。爪は短く切り揃えられ、堅い腱が目立つ。
仕事ばかりしていたのは間違いない。
「ペンは今でも持てない」
「……だから代筆だったのね?」
レナードは黙って頷いた。
ひどい傷だ。そっと傷跡を指でたどると手首の付け根まで伸びている。
そういえば、昨夜も左手で酒を注ぎ、グラスを持ち上げていた。しばらく不自由に思いをしたに違いない。
その瞬間、ソフィアは自分がレナードにとってどれほど遠い存在だったのかを痛感した。
胸がつまり、目頭が熱くなる。
悲しくて泣いていると思われるのは癪だ。
「——怒っているのよ」
ソフィアは唸るように言うと、潤んだ瞳でレナードを睨みつけた。
私は——ただの他人だった。その実感が、どうしようもない怒りを呼び起こす。
「大事な事はわたしには知らせず、名実ともに放っておかれたって訳ね。婚約した時だって、結婚した時だって、あなたはわたしの前にいなかった。それでも、つらい事は分かち合う事ができたし、わたしはそのつもりだった」
瞳から涙が一粒がこぼれ落ちる。
「あなたが台無しにしたのよ」
ソフィアの言葉が重く響き、ふたりの間にまた沈黙が流れた。
「まだ隠していることがあるでしょ」
レナードと目が合う。金箔が散ったような虹彩には、後悔の念がにじんでいるように見えた。
そうでしょうとも。
「言って」
ソフィアは答えの代わりに差し出されたハンカチで涙を拭った。
まったく、用意のいい男だ。
遠くで馬車の車輪が石畳をかすめる音がした。春はまだ遠く、冷たい風が二人のあいだを吹き抜けていく。
いまだ繋いだままの手はじんわりと温かく、ソフィアの心を落ち着かせていった。
ただ、胸の奥に渦巻く苛立ちと怒りは、なお確かにくすぶっている。
それでもソフィアは、まだこの手を離したくないと感じ始めていた。
その時、ソフィアは気づいた。
自分は、この図々しい男に惹かれている。
長年放置しておきながら、突然押しかけてきて、優しい嘘で取り繕う事も甘い言葉で誤魔化す事もせず、全てぶちまけた率直な男に。
孤児院の出来栄えに感心し、街灯一つにも目を輝かせるレナードの一面に触れるたびに惹かれつつある。
やっぱり殴るべきだった。父のクリスタルのデキャンタで。
あの『来ないでいい』との手紙に反発して、無理矢理にでも領地に行くことはできたのに。そうしたら、話し合う余地はあったのでは? こうなる前に変えられたのでは?
何不自由なく暮らしていく中で、夫との関係に踏み込むのが怖くて、行動に移せなかったのは私の方だ。そうだ、傷ついた自尊心を認めなくなかったのは私の方だ。
彼は私を突き放したけれど、それでも率直に本心を伝えてくれた。残酷な事実は言いづらかっただろうに。
「君の手紙には心が癒やされた」
低い声がソフィアの身体に響く。
彼の右手から伝わる暖かさが、ソフィアの強張った手を少しずつ溶かしていく。
彼は慎重にソフィアの言葉を待っているようだった。まるで刑を執行される囚人のようだ。
彼女は無理やりにでもレナードの本心を聞き出せて良かったと思った。傷つき、怒り、苛立ったが、ここまで来たら自分も率直になるべきだ。
「あなたに会ったから、これからまた離れて暮らすのは辛くなると思う。そんな生活には戻りたくない」
このまま離縁したとしても、離れ離れの生活になっても、私はきっと事あるごとに彼を思い出すだろう。
何事もなかったように振る舞うのはもう無理だ。
皮肉っぽい言葉も、突然レンガの積み方を嬉しそうに語るのも、父の酒を勝手に呑むのだって別にいい。
そんな相手を簡単に手放すべきではないのは間違いない。
自分の惨めさを隠すために、もしかしたら幸せになれたかもしれない機会を逃すのは愚かなことだ。
「あなたもそう思ってくれていればいいのにって、思う」
「僕もこのまま帰ったら君を恋しいと思うだろう」
レナードはそっと右手を持ち上げて、ソフィアの手に口づけをした。
温かな感触が指先から腕へと伝わり、身体の芯までじんわりと温められていく。
まるで星が一列に並んだかのような、パズルのピースがぴったりはまったような感覚があった。
頬が熱くなり、視界がわずかに滲む。
「それ、嬉し涙だよな?」
レナードはソフィアの手を撫でながら言った。気が散るからそんな事はしないで欲しい。
「それで、どうなの?」
「どう——とは?」
「あなたはわたしを抱きしめてくれるの?」
「喜んで」
レナードは早速行動に移し、ソフィアを胸に引き寄せた。
首筋に手を添え、ゆっくりと撫で上げると、それに応えるようにレナードは優しく抱きしめ返してくれた。
ソフィアが笑うと彼の胸から低く響く笑みが返ってくる。
彼女はレナードの柔らかな髪の感触を楽しんだ。きっちりと編み込まれたくすんだ金髪をくしゃくしゃにしたいと思っていたのだ。
「ねぇ、女を買ったことはある?」
「この瞬間最も適切ではない質問だと思う」
レナードは彼女の髪に顔を埋め、低く呻くように呟いた。
彼女はそのまま彼の胸に頬を寄せ、静かに答えを待った。
「正直に白状するとある。何年も前のことだ。婚約してからはない。知りたいだろうから言うが、愛人はいない」
「博識の伯爵なのにモテないのね。いい声をしているのに」
「そうだよ」
「でも清廉潔白というわけではないでしょう?」
「それはお互いさまだ」
服越しに感じる体温と確かな腕の感触が、ソフィアの心を静かに満たしていった。
レナードはソフィアにキスをした。