遥奈は勢いよく振り返り、その凛とした背中に視線を釘付けにした。
彼が歩くたび、人々は潮のように道を開ける。目に見えない威圧感が周囲に広がり、周囲の人々の目には畏敬、憧れ、そして恐れの色さえ浮かぶ——あの冷ややかなオーラは、誰しもを圧倒してしまう。
そんなわけがない!
彼女の“ヒモ男”には、こんな雰囲気は絶対にない!
彼は真夏の太陽のように、野性的で奔放、少しばかり不良めいている。会うたびに自分からちょっかいを出し、彼女がその気になるとじらし、気分が冷めると必死にご機嫌を取る。ベッドの上でのテクニックは、まさに熟練の域だ。
遥奈はよく彼の胸を指でつつきながら笑い罵った。「あなた、本当に男の妲己だわ!」
彼は決まって邪悪な笑みで彼女の顎を掴む。「だったら、君は女帝か?」
あんな骨の髄まで遊び人の彼が、どうして目の前のこの冷たく高貴で世俗を離れた御曹司と同一人物だなんてあり得るの?
遥奈は自分に言い聞かせようとしたが、胸の奥の不安は蔓のようにどんどん広がっていく。
贈り物の儀が終わり、客たちは席につく。遥奈は早々に99番テーブルに座り、会場中を見回したが、あの姿をもう一度見つけることはできなかった。
彼女は携帯を取り出し、アドレス帳を開いて「ヒモくん」とメモされた番号で指が止まる。
ぼんやりとしたその瞬間、ふと誰かに見られているような異様な感覚が湧き上がった。
遥奈ははっと顔を上げた!
宴会場二階の回廊から、冷たく澄んだ視線が騒がしい人ごしを突き抜け、正確に彼女を射抜いていた。
彼だ!
距離が遠くて、彼が自分を見ているのかは分からないのに、心臓はどうしようもなく激しく鼓動した。
気がつけば、彼女は発信ボタンを押していた。
二階の男は、依然として動かず静かに立っていたが、一方の手で携帯を耳に当てた。
よかった……と遥奈は胸をなで下ろし、すぐに切ろうとした——
電話が、つながった!
遥奈は感電したように再び顔を上げた!
二階の男は微動だにせず、ただ一方の手で携帯を耳に当てている。
心臓が太鼓のように鳴り響き、鼓膜を突き破りそうだ!遥奈はぎこちなく携帯を耳に当てた。
受話器からは、あの懐かしくもあり、どこか他人のような低く冷たい声が響く。
「何か?」
遥奈は口を開かず、ただ二階で同じように携帯を持つ男をじっと見つめた。
彼もまた、彼女を見ていた。
数秒の沈黙。遥奈は突然、電話を切った!
二階の男は、ゆっくりと携帯をポケットにしまった。
遥奈の心臓は、まるで見えない手にぎゅっと掴まれたように苦しくなった。息が詰まりそうなほど。
どうして、こんなことに?
なぜ、こうなったの?
この世に……同じ葉は二枚とないのだ。
九条修己——彼こそが、三年間自分が“ヒモ”として囲っていた、あの男だったのだ!
あまりの衝撃に、頭の中が真っ白になった。
記憶の断片が、勝手に溢れ出す——
三重昌幸が白鳥結衣を連れて異国へ去った夜。
親友の早川美月は彼女を「星煌クラブ」へ連れて行った。
あの夜、彼女はひどく酔っ払い、早川美月は何人ものホストを指名した。成り行きで、彼女はある“ホスト”と関係を持ってしまった。
翌朝、後悔しつつも、その美しい顔を見た瞬間、気持ちは一変した。どうして三重昌幸は好き勝手しているのに、自分だけが寂しい思いをしなくちゃいけない?そもそもこの結婚は形だけのものだ。
彼女はすぐさま百万円の小切手を切って彼に差し出した。「これからお姉さんが養ってあげる、いい?」
その後、翠嵐荘の住所を教えた。三年間、彼はそこに住んでいた。
毎月、彼女は百万円の小切手を渡した。機嫌が良ければ、彼の元へ通う。会うのはいつも夜か深夜。彼は必ず彼女を楽しませてくれた。
二人は暗黙の了解で、色恋以外のことは話さず、お互いの家柄や素性も尋ねない。ただ一時の快楽だけが目的だった。
彼は彼女の真面目な人生の中で、唯一の反逆だった。
その“反逆”が手に負えなくなり始めたと気づいたとき、彼女はきっぱりと手を引いた。
これでもう二度と交わらないと思っていた。
だが今、かつて従順だった獲物は、すでに冷たい視線で彼女を狙う狩人に変わっていた。
そして彼女自身も、すでに巧妙に編まれた網の中に落ちていたのだ。
三重昌幸が戻ったとき、遥奈は椅子に座ったまま呆然としていた。
彼女の顔は青ざめ、魂が抜けたようで、大きなショックを受けたのは明らかだった。いつもなら誘惑的で魅惑的な瞳も、今は虚ろで光がなく、珍しくぼんやりとした表情に、どこか儚さが漂っていた。
三重昌幸は胸の中の妙な感情を抑え、彼女の隣に腰掛けた。聞かなくても分かる、きっと桜庭淑子と桜庭早耶に会ったのだろう。かつての母親も今では赤の他人だ。
宴が始まる。
三重昌幸は遥奈が次々と酒をあおるのに気づいた。何か思い詰めているようだ。
三杯目を注ごうとしたとき、彼はグラスを押さえた。
「女がそんなに飲むものじゃない。」
遥奈は酔いがかった目で彼を見上げる。「なに?心配してるの?」
三重昌幸の声は冷え切っていた。「大事な場で酔いつぶれて、三重家の恥をさらすな。」
遥奈はふてくされて小さく唸った。
「うるさいな…失恋したんだもん、ちょっとくらい飲ませてよ。」
彼女の目尻の赤みが、三重昌幸の心をなぜかざわつかせたが、すぐに顔を曇らせた。
「遥奈、その手は通用しないぞ!今日君が酔い潰れても、俺は一秒も心配しない!」
遥奈は無視して、さらに酒をあおった。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。なぜ彼が九条修己なの?彼は自分が三重家の妻だと知っていた?ホストのふりをして三年間も彼女に養われて、何が目的だったの?
悩みで頭がいっぱい!
酒が進み、客たちが続々とメインテーブルに挨拶に向かう。三重昌幸が立ち上がる。
「行くぞ、九条様に献杯しよう。」
彼が先導し、遥奈はグラスを持ってぼんやりと後ろをついていった。
主賓席は人だかりでいっぱいだった。老婦人はすでに席を立ち、九条修己だけが主賓席に座っている。
次々と客が献杯に訪れる。九条修己は気品ある態度で、大抵は客が自分で飲み、彼は軽くグラスを合わせるだけ。ごく一部の大物だけに対してのみ、ほんの一口飲むのだった。
前のグループが去ると、三重昌幸はすぐに進み出て、両手でグラスを差し出し、軽く頭を下げた。
「九条様、かねてよりお噂は伺っております。私は横浜天照建設の三重昌幸です。どうぞ一献お受け取りください。」
先ほど観察した限り、九条修己は誰に対しても、少なくともグラスを合わせていたはずだ。
だが——
九条修己はまぶたを伏せ、指先をテーブルに添えたまま、微動だにしない。グラスを持ち上げる気配すらない。
三重昌幸の差し出したグラスは、宙に取り残された。
空気が、一瞬で凍りついた。