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第二話 清算


佐藤太一は思った。随分と気前がいいものだ、と。

だが、小松美穂が求めていたのは、金ではなかった。

彼女は顔を上げ、佐藤にほのかな微笑みを浮かべた。

「これらは、結構です」

「……は? 足りないと、おっしゃるのですか?」

佐藤は面食らった。

その言葉が、美穂の胸をじんと刺した。佐藤でさえ、彼女が金に目がくらんだ女だと思っている。ましてや三井雅人なら尚更だ。

これほどの大金を「慰謝料」として出すのは、将来、金銭的なトラブルを恐れてのことだろうか。

美穂は苦い笑みを浮かべ、持ち歩いているハンドバッグから一枚の**ブラックカード**を取り出し、佐藤に差し出した。

「これは雅人様から預かったカードです。お返しください。そして、お伝え願えますか…私はこれまで、雅人様の一円たりとも使ったことはありません。だから、お金による『償い』も受け取れません」

佐藤は完全に呆然とした。五年もの間……小松さんは三井様の金を一切使わなかったのか?

美穂は彼が信じようと信じまいと構わず、そのブラックカードを権利書の山の上に置いた。

そして、振り返らずに嵯峨野の別邸を後にした。


京都の冬の風は、肌を刺すように冷たかった。

美穂は別荘地の道を独り、歩いていく。

細い影が地面に長く伸び、より一層、彼女の小さく儚げな姿を浮かび上がらせた。

ベージュのコートの襟を立て、歯を食いしばりながら、ハイヒールの音を響かせ、鴨川タワーマンションへと一歩一歩戻っていった。

ドアを開けると、ワンフロアを占有する広大な空間が広がる。贅を尽くした内装だ。

しかし、美穂が感じたのは、底知れぬ冷たさだけだった。まるで雅人の心のように。

ソファにしばらく呆然と座り込んだ後、彼女は荷造りを始めた。

このマンションは雅人から贈られたものだ。

彼に捨てられた以上、彼に関わるものは何一つ持ち出さない。

スーツケースを引っ張り出し、クローゼットを開けると、自分が買ったわずかな衣類を丁寧に詰めていった。

あっという間に荷造りは終わった。スーツケースを引きずり、マンションを出た。

車に乗り込み、佐藤太一にメールを打つ。

『佐藤さんへ。鴨川タワーマンションのパスコードは0826です』

佐藤は話のわかる男だ。このメールを見た瞬間、すべてを理解した。

小松さんは金を受け取らなかったばかりか、三井様が与えた豪華なマンションさえも、塵芥のように捨て去ったのだ。

あまりにも潔いその決断は、五年前、百万円で一夜を買ってくれと三井様の足元にすがりついたあの女とは、まるで別人のようだった。

佐藤はすぐに会社へ引き返し、品々をそのまま三井雅人の元へ持ち帰り、美穂の言葉を一語一句違わず伝えた。

三井雅人は、冷たくよそよそしい桃尻眼を上げ、机の上の品々に視線を走らせた。氷のような目つきは、やがてあの一枚のブラックカードに留まった。

「カードに百万、足されてる?」

冷たい声が響く。

「はい、そうです」

佐藤は即座にうなずいた。会社に戻る前に確認した。毎月の定額振り込み以外に、確かに百万円が加算されていた。

明らかに、小松さんが返した「あの夜の対価」だ。

雅人は濃い眉をひそめ、しばらく沈黙した後、節くれだった指を伸ばし、ブラックカードを掴むと――ポキッという乾いた音と共に、真っ二つに折り曲げた。

そして、権利書の山を佐藤の前に押しやり、冷たく命じた。

「処分しろ」

佐藤は口を開き、小松さんのことを少しでも弁護しようかとも考えたが、雅人がすでにパソコンを開き、仕事に没頭しているのに気づいた。

彼は察し、口を閉ざすと、品々を持って、社長室から静かに退出した。


スーツケースを引きずりながら、美穂は親友の高橋美波の住まいへ向かった。

ドアを軽く叩くと、静かに待った。

高橋美波も彼女と同じ孤児で、児童養護施設で幼い頃から共に育ち、実の姉妹のように絆で結ばれていた。

彼女が雅人に連れ去られた時、美波は言ったものだ。「美穂、もしあの人に捨てられたら、ここに帰っておいで」。その言葉が、雅人の不動産を拒む美穂の背中を押していたのだ。

ドアがすぐに開いた。美波は美穂の姿を見るなり、目尻を下げ、笑みをこぼした。

「美穂!どうしたの?」

美穂はスーツケースの引き手を握る指に力を込め、少し気まずそうに言った。

「美波……お世話になるわ」

美波はその時初めて、彼女の手元のスーツケースに気づき、笑みが凍りついた。

「どういうこと?」

美穂は無理に軽い口調で笑った。

「彼とは……終わったの」

美波は呆然と、必死に笑顔を保とうとする美穂を見つめた。

小さな顔はこけ、目の下に隈ができ、血色も悪い。

寒風の中に立つその体は、風にでも吹き飛ばされそうなほどに細く、儚げだった。

そんな美穂の姿を見て、美波の胸は突然、締め付けられるように痛んだ。

彼女はすぐさま駆け寄り、美穂をぎゅっと抱きしめた。

「大丈夫、私がいるから」

その一言で、美穂の目尻が一瞬で熱くなった。

彼女も美波を抱き返し、そっと背中を叩いた。

「大丈夫よ、心配しないで」

美波にはわかっていた。彼女が無理に強がっているだけだと。

美穂が三井雅人をどれほど愛していたか、彼女は誰よりも知っている。

この五年間、美穂が必死に働いたのは、あの百万円を返すためだった。そうすれば、彼の心の中の自分の印象が変わるかもしれないと、無邪気に信じて。

それでも結局は、無情にも捨てられたのだ。

美波はふと、五年前の雨の夜を思い出した……。

もし美穂が真田卓也のために「あの選択」をしなければ、三井雅人に出会うこともなかった。

そうすれば彼女の美穂は、平凡ではあるけれど、穏やかな幸せを掴んでいたかもしれないのに。

だが、過ぎたことは、取り戻せない……。

美穂は親友に悲しんでほしくなかった。そっと彼女を押しのけると、優しい笑みを浮かべた。

「どうしたの?泊めてくれないの?このまま外で寒風に吹かれていたら、凍っちゃうわ!」

美穂が相変わらず、いつも通りに強がっているのを見て、美波は少し安心した。彼女は美穂がこの苦境を乗り越えられると信じていた。彼女たちのような孤児にとって、捨てられることは珍しいことではない。生きていれば、乗り越えられない壁はない。

そう思うと、美波の気持ちは少し軽くなった。彼女はスーツケースを受け取り、美穂を部屋の中へと招き入れた。

「これから『お世話になる』なんて言わないで!ここはあなたの家よ。好きなだけいなさい!」

そう言うと、すぐに清潔なパジャマを一揃い持ってきた。

「まずはお風呂に入って温まりなさい。私は何か作るから。それから、しっかり眠りなさい。何も考えちゃダメよ、わかった?」

美穂はパジャマを受け取り、素直にうなずいた。

「うん」

美波はいつもそうだった。無条件に彼女を温め、彼女の暗い人生に差し込む一筋の光だった。

ただ……末期の心不全が、間もなく彼女の命を奪うだろう。もし美波にそのことを知られたら、きっと涙を流すに違いない。

あんなにも優しく、思いやりのある人を、泣かせるわけにはいかない。

美穂はキッチンで忙しく動く背中を見つめると、そっと近づいた。

「美波……会社、辞めようと思うの」



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