高橋美波は強く同意した。「そりゃそうよ!この何年か、わずかな残業代のために体をこわしちゃったんだから。さっさと辞めて、家でゆっくり休みなさい。お金のことは、私に任せて!」
小松美穂は胸がじんと温かくなり、小さく「うん」と応えると、涙を浮かべて浴室へ向かった。
運命は彼女を一度も顧みたことがなかった。別れが決まっているのなら、残り百日にも満たない時間を、せめて心の人のそばで過ごそう。
翌朝、彼女は厚めの化粧で病弱な青白さを隠し、桜華グループに辞表を提出に出かけた。
自分の席に座り、パソコンを起動して辞表を書き始めようとしたその時、同僚の田中明美がイスを滑らせて近づいてきた。
「美穂、メール見た?」
小松美穂は首を振った。週末は三井雅人に連れ回されて、メールなんて見ている暇はなかった。
田中明美は慌てて教えた。「中村さんから着任通知が来てるよ。今日、会長の娘さんが新社長として来るんだって」
小松美穂は会長の娘に全く思い当たる人物もなく、興味も湧かなかった。辞める身にとっては、誰が来ようと関係ない。
しかし田中明美は興味津々で、ゴシップ好きの顔をして言った。「海外留学から帰ったばかりで、経営学の博士号は持ってるけど実務経験はゼロって話よ。外部からいきなり社長に迎えられて、批判されないのかな?」
隣の席の山本玲子が鼻で笑った。「誰が批判なんてするもんですか? あの方、三井財閥の御曹子が心に秘めた初恋の人なんだから」
「三井財閥」という言葉を聞き、小松美穂はマウスを握っていた指が、思わず止まった。
「え?!何?!何?!」
田中明美は世紀のスクープを聞いたかのように、山本玲子の袖を引っ張って興奮した。「三井財閥のあの人って女性に興味ないんじゃなかったの? 初恋なんてあったの? それもうちの新社長が?」
山本玲子は笑いながら田中明美の手を軽く叩いた。「あら、空気読めてないわね! 財閥のそんな噂も知らずに、社長秘書室でどうやってやっていくのよ?」
田中明美は山本玲子の袖を引っ張って頼んだ。「ルー姐、教えてよ!」
山本玲子はようやく声を潜めて話し始めた。「三井様とうちの会長の娘さんは幼なじみなの。噂によると、五年前にも三井様が桜庭お嬢様にプロポーズしたんだって」
「でも桜庭お嬢様は学業を理由に断って、少し気まずくなって、五年も連絡を取らなかったらしいのよ。それなのに桜庭お嬢様が帰国した途端、三井様が空港まで迎えに行ったんだから、この想いの深さ、火を見るより明らかじゃない?」
田中明美は口を押さえ、目を見開いて憧れの表情を浮かべた。「まあ! まるでリアル社長の愛妻物語じゃない!」
小松美穂の胸が詰まり、顔から少しずつ血の気が引いていった。
三井雅人が契約を途中で打ち切ったのは、彼の初恋の人が戻ってきたからだったのか。
それなら、心に大切な人がいるなら、なぜ五年前に迷いもなく彼女の一夜を買ったのだろう?
それどころか、最初の関係を持った後、無理やり愛人契約を結ばせた。
彼女と抱き合うたびに、彼は狂ったように自制を失っていた。
彼女は信じられず、山本玲子にその情報源を問いただそうとしたその時、社長専用エレベーターのドアが開いた。
会長付きの秘書、中村静子と数人の部署長が先に出て、エレベーター内に向かって恭しく頭を下げた。
「三井様、桜庭様、社長執務区域でございます。どうぞお越しください」
その言葉が終わらないうちに、高価なスーツに身を包み、全身から冷気を放つ男がエレベーターから出てきた。
彫りの深い顔立ちは、この世のものとは思えないほどの美しさ。背筋は伸び、気高くも冷ややかで、近寄りがたい雰囲気を漂わせている。
まるで絵から抜け出てきた貴公子のようで、優雅さと冷たさが同居し、まともに見つめることすら躊躇われる。
小松美穂は一目で三井雅人だとわかった。心臓がぎゅっと締め付けられる——なぜ彼が桜華グループに?
考える間もなく、三井雅人がわずかに体を向け、エレベーター内へと節くれだった指を差し伸べた。
すると、白く透き通るような細やかな手が、そっと彼の掌に重ねられた。
三井は軽く力を込め、その手を握りしめると、女性を導き出した。
小松美穂がその女性の顔をはっきり見た時、三井雅人がなぜ当初、自分を買ったのか、突然理解した。
彼女の目元が、桜庭由佳と何分か似ていたのだ。全く同じというわけではないが、目元の雰囲気がわずかに似通っていた。
しかし、このわずかな似ている部分だけで、小松美穂には残酷な現実がはっきり見えた。
彼女は、三井雅人も多少は自分に想いがあると思い込んでいた。それはただの、代わりだったのだ。
心臓が予告もなく激しく痛んだ。細かな痛みが全身を走り、彼女の顔は青ざめた。
田中明美がそれを見て慌てて聞いた。「美穂、どうしたの? 気分悪い?」
小松美穂はそっと首を振った。田中明美がさらに何か言おうとしたが、中村静子が二人を案内して近づいてきた。
小松美穂はすぐにうつむき、もう二度と見ようとはしなかった。しかし、キーボードの上に置いた手は抑えきれずに震えている。
中村静子が説明した。「こちらは社長秘書室です。秘書は皆こちらにおりますので、桜庭様、何かご用がございましたらいつでもお申し付けください」
桜庭様は軽く頷き、一同を見渡すと、穏やかな声で言った。「おはようございます。新社長の桜庭由佳と申します」
桜庭由佳……
その名前を聞いて、小松美穂の顔はさらに青ざめた。
脳裏に、三井雅人がベッドで彼女と死ぬほど絡み合う情景が、抑えきれずに浮かんだ。
情熱に駆られると、彼はいつも彼女の耳元で、低くささやくように呼んだ。美穂……と。
今になってわかった。あの情欲に満ちたささやきが呼んでいたのは、美穂ではなく、由佳……だったのだ。
小松美穂は両拳を握りしめ、爪が掌に食い込んだが、痛みはまったく感じなかった。
弄ばれ、捨てられたという窒息感が激しく押し寄せ、目尻がすぐに赤くなった。
なんてバカなんだろう、彼がたまに見せるわずかな優しさに、心の底から惹かれ、真心を差し出してしまったなんて。