温かい吐息が耳元をかすめ、小松美穂の背筋に寒気が走った。
必死に抵抗したが、黒崎龍之介は彼女の腰をがっちりと締め上げ、逃げ出す隙を与えなかった。
「いい匂いだな……」
そう呟くと、彼は彼女の髪に鼻を埋め、手は下へとずるずると滑り落ちていく。
美穂はすぐさまその手を押さえつけ、冷たい声で言った。
「黒崎様、お自重ください。」
すると黒崎は彼女の耳朶を軽く噛みながら、やくざな笑みを浮かべて言い返した。
「自重? それが何だよ?」
声そのものは悪くないが、その言葉の内容は吐き気を催すほどだった。美穂は心底嫌悪した。
彼女が顔を背けると、その目には嫌悪の色が満ちていた。しかし黒崎龍之介は全く意に介さない。
女が抵抗すればするほど、彼の征服欲はかき立てられ、それは歪んだ快感をもたらしたのだ。
片手で彼女の顎を摘み上げると、蒼白い指が軽薄に彼女の頬を撫でる。
「黒崎様、私たちそれほど親しくありません。どうか節度をお守りください!」
美穂は彼の手を激しく振り払った。
一ヶ月前、黒崎グループに書類を届けに行った際に、黒崎龍之介に目をつけられてしまったのだ。
それ以来、彼は仕事の相談を口実に、頻繁に会社に現れては嫌がらせを繰り返していた。
手を出したり、卑猥な言葉を浴びせたり。
美穂は仕事でお金を稼ぐために、簡単には角を立てられず、ただ耐えるしかなかった。
しかし今、桜華グループを離れた彼女には、黒崎を恐れる理由はなくなっていた。
ところが、彼女に冷たくあしらわれても、黒崎は怒るどころか、むしろ甘やかすような口調で彼女の頬を軽くつねった。
「一晩付き合えば、すぐに親しくなれるさ?」
この男の厚かましさに、美穂は吐き気を必死でこらえながら、自分にまとわりつく体を押しのけた。
彼女の抵抗が、逆に黒崎をより興奮させたのか、彼は突然、彼女の頬に強く口づけした。
冷たい感触が頬に残り、美穂は吐き気をこらえきれずに今にも嘔吐しそうになった。
彼女が黒崎を押しのけようとしたその時、背後から突然、老いた声が響いた。
「雅人?」
その名前を聞いた瞬間、美穂の身体が強張った。
彼女はゆっくりと黒崎の腕の中から振り返り、エレベーターホールに立つ人影を見た。
距離が少し離れていて、表情ははっきり見えない。
ただ、その桃色の目が、一瞬たりとも離さず、自分を射抜いているのを感じた。
その奥から滲み出る冷たい殺気が、今にも彼女を飲み込んでしまいそうだった。
桜華グループの会長、桜庭弘毅は会社に入った途端、三井雅人の姿を見つけると、慌てて重役たちを引き連れて迎えに行った。
「雅人、今日はどうした風の吹き回しで桜華グループへ?」
三井雅人はようやく視線を外すと、淡々と応えた。
「由佳を送ってきたまでだ。」
桜庭は即座に、三井雅人が娘の後ろ盾として来たのだと理解し、満足そうにうなずいた。
「ご苦労様。由佳が戻ってすぐに、わざわざ足を運ばせてすまなかったな。」
三井雅人はほとんど感情を込めずに口元をわずかに緩めた。
「お邪魔ではない。これで三井財閥に戻る。」
桜庭は慌てて言った。
「ああ、そうだな、ご公務がおありだろう。近いうちに由佳を連れてお伺いする。」
三井雅人は軽く一礼すると、ためらうことなく歩き出した。
後ろに控えていたボディガードたちは素早く二列に分かれ、警護しながら進んだ。
彼は小松美穂のすぐ横を通り過ぎたが、その視線は一瞬も彼女にとどまることなく、まるで空気のように無視した。
やはり… さっきは錯覚だったのだ。三井雅人は彼女など気にかけていない。どうしてわざわざ見つめようか。
三井雅人の車列が轟音と共に走り去って初めて、黒崎龍之介は遅ればせながら、あれが三井家の次男だったことに気づいた。
彼は悔しさのあまり美穂を押さえつけていた手を離し、挨拶しようと慌てて追いかけたが、排気ガスを顔に浴びせられるだけだった。
あの高級車を筆頭にした十数台の豪華な車列は、夜の闇の中に躊躇いもなく消えていった。
すっかり面目を潰された黒崎龍之介が、しょんぼりと戻ってくると、さっきまで壁に押さえつけていた美女が、客用エレベーターの方向へと、とっくに逃げ去っていることに気がついた。
彼は無意識に、さっき小松美穂にキスした唇を触りながら、目に獲物を狙い定めた狩人特有の興奮した光を宿していた。
「黒崎明」彼は振り返らずに、後ろに控える補佐に命じた。
「あの女の住所を調べろ。」
「かしこまりました、黒崎様。」
黒崎明は即座に応えた。
小松美穂は錦江マンションに逃げ帰るような気持ちだった。ドアを閉め、カバンを放り投げると、彼女は力の抜けた人形のようにソファに崩れ落ち、ぼんやりとしていた。耳をつんざくような携帯電話の着信音が鳴り響き、やっと混乱した思考から現実に引き戻された。
彼女は携帯を取り出し、画面に表示された名前を見て微かに眉をひそめた。
佐藤太一? 三井雅人の社長室長? 彼が何の用だ?
微かで、自分でも認めたくないような期待が胸にちらついたが、彼女は通話ボタンをスワイプした。「佐藤室長、何か御用でしょうか?」
電話の向こうから、佐藤太一のいつもながらの丁寧な声が聞こえた。「小松さん、お忙しいところ失礼いたします。先ほど嵯峨野別邸の整理をしていたところ、小松さんがお忘れになったと思われる私物が見つかりまして。お受け取りになるのはいつ頃がご都合よろしいでしょうか?」
落とし物の話か… 彼からの連絡じゃなかった。
かすかな期待の火花は瞬時に消え、心が重く沈んでいった。
「佐藤室長」美穂の声にはかすかな疲労がにじんでいた。「お手数ですが、そのまま処分してください。」
相手が何か言う間もなく、彼女は即座に電話を切った。一瞬の躊躇もなく素早く、佐藤太一、そして三井雅人とのすべての連絡手段——電話番号、LINE、連絡可能なあらゆる経路を、削除し、ブロックした。
昨日までは、心の奥底にまだ、三井雅人から連絡が来るのではないかという滑稽な期待が残っていたから、消すに忍びなかったのだ。しかし今、目の前に残酷な現実が突きつけられ、彼女は完全に諦めた。最後にもう一度、その馴染み深い名前が完全に消え去るのを確認すると、彼女は携帯の電源を切り、ソファに体を丸めて、重い疲労感に身を任せ、眠りに落ちていった。