美穂はその男のことを知らず、簡単には口をつけられなかった。酒に何か仕込まれていれば、黒崎龍之介のこれからの「ゲーム」は、よりやりたい放題になるはずだ。
躊躇していると、その男は穏やかに笑った。
「安心して。何も入ってないよ」
玉のように温かなその笑顔に、美穂の警戒心は少し解けた。グラスを受け取り、形だけ口をつけたが、飲み込まずに口の中に含んだままだった。
男の隣にいた女がそれを見て、鼻で笑った。
「ねえ黒崎、あなたが連れてくる女って、どんどん場違いになってるわね。うちの北斗がせっかくお酒を勧めてるのに、泥棒みたいに警戒して。ほんっとに無礼よね!」
女が「北斗」と呼んだのは、三井雅人の従弟、三井北斗だった。北斗もまた遊び人だが、黒崎ほどの変質性はなかった。美穂が三井雅人の傍にいた頃、彼の親族や交友関係には一切触れることがなかったので、北斗を見るのはこれが初めてだった。思わずじっと見つめてしまう。雅人にどこか似ているが、雰囲気はずっと穏やかだった。
美穂が自分の挑発に全く反応しないのを見て、女の顔色が曇った。彼女の言葉の意味は明らかだった。他の誰かであれば、とっくに空気を読んで詫びを入れ、一気に飲み干しているはずだ。なのにこの女ときたら、とぼけ通しで、本当に空気が読めない!
美穂ももちろん意味はわかっていた。だが、その言葉は黒崎に対して発せられたもので、自分に直接向けられたわけではなかった。わざと知らんぷりを決め込むのが得策だった。
女は不満げに黒崎に言った。
「黒崎さん、今日三井様にお会いできたのは、うちの北斗が取り持ってくれたおかげよ。そうじゃなきゃ、三井様のお顔も拝めなかったでしょう?プロジェクトの話なんてなおさら。なのに、あなたの女が一杯の酒も飲もうとしないなんて。これからどうやって楽しむ気なの?」
美穂はその時、黒崎龍之介と三井雅人が全くの他人で、三井北斗の紹介でようやく繋がったのだと理解した。どうやら今夜のこの席は、単なる「友人に会う」場ではなかったらしい。黒崎の狙いは、三井雅人が持つプロジェクトにあった。
その事実に、逆に彼女の張り詰めた神経が少し緩んだ。プロジェクトの話には時間がかかる。まだやり取りの余地はある。
ほっとしたのも束の間、隣の黒崎が顎をしゃくって命じた。
「飲め」
もうとぼけている場合ではなかった。美穂は仕方なくグラスを持ち上げ、一気に飲み干した。彼女はほとんど酒を飲まない。三井雅人が酒の匂いを嫌ったので、彼女も酒を絶っていたからだ。その強烈な酒が一気に喉を流れ下り、灼けるような辛さが喉を直撃し、むせて涙が止まらなかった。
黒崎はそれを見ると、すぐに彼女を抱き寄せ、親しげに背中を叩いた。
涙で視界がぼやける中、美穂は三井雅人が黒崎の腕に向けた視線を、ちらりと見たような気がした。その目は毒を塗った刃のように冷たく、殺気がみなぎっていた。
しかし、視界がはっきりすると、その深い桃色の瞳に見えたのは、ただひたすらに冷ややかな無関心だけだった。
美穂の自嘲の念が一層強まった。三井雅人は自分を代わりとしか思っていない。真面目に相手にしたことなど一度もないのに、いったい何を期待しているのだろう?
美穂が息を整えると、黒崎は彼女を抱いたまま北斗に言った。
「北斗さん、悪かったな。こいつは接待の経験がなくて、マナーがわかんねえんだよ」
北斗は笑ったが何も言わない。彼の隣の女は、まるで尻尾を踏まれた猫のように、一瞬で毛を逆立てた。
「黒崎さん、それどういう意味よ?!」
黒崎は眉を上げ、さして熱のこもらない口調で言った。
「鈴木亜美、お前のことなんて言ってねえぞ?なんでそんなにカリカリしてんだ?」
「姐さん」と呼ばれた鈴木亜美は、瞬間、怒りで顔を赤らめた。
「私、あんたよりずっと若いのよ!姐さんって呼ぶの?!」
「歳は若いかもしれねえが、見た目は老けてるだろ?姐さんじゃなきゃ、妹って呼ぶか?」
「あんたってばーっ!」亜美は言い返せず、悔しそうに足を踏み鳴らすと、振り返って北斗の袖を引っ張り甘えた。
「北斗、見てよ!あんな風に馬鹿にされて。ほんっと腹立つ!もういい、帰ろうよ!」
北斗は気長に彼女の手を叩いた。
「よせよ亜美、黒崎の旦那様がどんな奴か知ってるだろ?口に任せて言っただけだ。気にするなよ」
亜美が引き下がるはずがなかった。彼女は「月影」の看板だったが、今は北斗に付いている。「水商売の経験がある」という言葉が何よりの禁忌だった。黒崎龍之介には直接手を出せなくとも、彼の女をいじめるくらいは朝飯前だ。
「もういいわ、いいわ。遊びに来てるんだから楽しまなきゃ、そんなこと気にしてられないわ」亜美は目をくるりと動かし、笑顔に切り替えた。「でも、ただ座ってるだけなんてつまんないわよ?ゲームでもしましょうよ?」
「何をする?」黒崎は即座に興味を示した。
亜美は手品のように何組ものトランプをテーブルに置き、艶めかしく笑った。
「ペアでトランプね。負けた方は…服を一枚脱ぐ。どう?」
「面白い!」黒崎はそういう色っぽい場面を待ち望んでいた。即座に承諾した。他の男たちも哄笑して賛同した。
北斗は隣の三井雅人を一瞥し、小声で言った。
「雅人兄さん、みんな少しやりすぎかも…もし嫌なら…」
言葉が終わらないうちに、三井雅人はすでに亜美が差し出したトランプを受け取り、声には感情が滲んでいなかった。
「ルールは?」
北斗は驚いて呆然とした。彼のこの兄貴分は、こういう場所をひどく嫌っていた。今日、にも黒崎の誘いを受けただけでも異常だったのに、ましてやこんな露骨なゲームに付き合うとは?
亜美はなおさら狂喜した。女を近づけないと噂の三井雅人が、こんなにも気さくなのか?彼女は慌てて熱心にルールを説明し始めた。
美穂はソファに凍りつくように座り、手足が冷たくなっていた。どうやって断ろうか考えていると、亜美が彼女の心を見透かしたかのように、先手を打って退路を塞いだ。
「ここにいる人、全員参加ね。小松さん…そんなに空気読めないことしないでよね?」
瞬間、すべての視線が、審判と好奇心を込めて美穂に集中した。
目に見えない重圧に、彼女は背中に棘を感じた。ここにいる誰一人として、彼女が敵に回せる相手ではなかった。
追い詰められ、美穂は無言でうなずくしかなかった。
ようやく「空気を読んだ」のを見て、亜美は勝ち誇ったように口元をほころばせた。