美穂が拭く手が、わずかに止まった。
忘れていた。車に乗せてくれた男の名は三井。三井家の者に、高価な絨毯など気に掛かるはずがない。
彼女は黙ってティッシュをしまい、鞄に収めると、こわばった様子で北斗を一瞥し、低い声で言った。「ありがとうございます」
北斗は気に留めないように手を振った。「どちらまで?」
美穂はもじもじするのをやめ、鴨川タワーマンションの住所を告げた。
車が動き出し、鴨川タワーマンションへ向かう。
助手席の北斗をちらりと見る。彼は窓の外を向いて、まったくこちらの方を見ようとしない。そのおかげで、美穂の心の内の気まずさはいくぶん薄らいだ。彼女はうつむき、黙ってティッシュで濡れた服の雨粒を拭った。
ルームミラー越しに、後部座席の細った姿を眺める北斗。こんな寒い夜に、コート一枚もなく、雨に打たれながら道端で車を拾っていた。彼の好奇心はかき立てられた。
「小松さん、黒崎様がお送りにならなかったのですか?」
『黒崎様』の呼び名に、美穂は一瞬たじろいで、今の自分が黒崎龍之介の「女」であることを思い出した。ティッシュをぎゅっと握りしめ、適当な嘘を口にした。「少し口論して、降ろされてしまって…」
北斗は軽くうなずいた。「そういうことでしたか」彼女が震えているのを見て、暖房の温度を上げると、それ以上は尋ねなかった。
車内に高まった温もりが、冷え固まった美穂の体を徐々にほぐしていく。彼女は感謝の眼差しを北斗に向けると、慎ましく説明を加えた。「配車アプリを呼ぼうとしたんですけど、スマホのバッテリーが切れてて…近くの店も閉まっていて、雨宿りする場所もなくて…本当にご迷惑をおかけしました」
北斗は片手で顎を支え、ルームミラーに映った気まずそうな美穂を見つめながら、穏やかに言った。「構いませんよ」
その言葉に、美穂はようやく緊張を解き、頭を窓にもたせかけると、疲れきって目を閉じた。温風が心地よく、彼女はすぐに深い眠りに落ちた。
しばらくして、車がマンションの玄関前に停まった。北斗は振り向きもせずに言った。「小松さん、着きました」
返事がない。振り向くと、美穂が窓にもたれてぐっすり眠っている。彼は眉をひそめた――この女、油断しすぎじゃないか? 見知らぬ男の車で、そんなに安心して眠れるのか? 俺がいい男だと思っているとでも?
北斗が助手に目配せすると、助手はすぐに車を降り、後部座席のドアを開けてそっと美穂を揺すった。「小松さん、お着きです」
揺すられて目覚めた美穂は、重たい瞼をこじ開けた。視界はぼんやりと靄がかっている。雨で心臓病が悪化したのだとわかる。幸い思考ははっきりしていて、今が北斗の車の中だと理解した。無理に体を起こし、改めて礼を言うと、ドアを開けて降りようとした。
「小松さん」北斗が彼女を呼び止め、後部座席から高級ブランドの傘を取り出して差し出した。「まだ降っています。どうぞ」
美穂はそれが高価な傘だと見て取り、返す機会がないのではと思い、柔らかい口調で断った。「ありがとうございます。すぐそこですから、走って帰ります」
北斗は一瞬、戸惑った。彼女の眼差しから気遣いを読み取ったのだろうか、そのまま傘を押し付けた。「返却は結構です」
美穂は困ったが、彼の強い態度に折れ、受け取った。「では、三井様…連絡先をいただけますか? 後日お返しするために」
連絡先を求められて、北斗の眼はたちまち蔑みに染まった。「小松さん、俺、自分から近づいてくるのは好きじゃないんだ」
そんな風に誤解されるとは思わなかった美穂は、慌てて弁明した。「そういう意味じゃないんです! 傘が高価すぎて…」
「小松さん」北斗の声は冷たく、警告を含んだ眼差しで遮った。「送ったのは、手を貸しただけのこと。余計な気があるなら、さっさと諦めろ」
その言葉は美穂を鋭く傷つけた。彼女はそれ以上何も言わず、傘を置くと、さっと背を向けた。雨の中を数歩歩むと、腹立たしい感情が込み上げてきて、彼女は突然、振り返った。
「三井様、お送りいただきありがとうございます。でも、どうか私を見る目に色をつけないでください! 断ったのは、この傘が高価すぎて返せなくなるのが怖かったからです!」
言い終えると、彼の反応などお構いなしに、振り返ってマンションの中へ駆け込んだ。
北斗は雨の中に消えていく、小さな後ろ姿を呆然と見つめた。美穂のような女は、少しでも身分のある男に巡り会えば、玉の輿を狙うものだと思い込んでいた。そうでなければ、あの年上の男を出て、すぐに黒崎龍之介の懐に飛び込むはずがない。しかし彼女の言葉は、彼にわずかな恥じらいを抱かせた。どうやら先入観を持ち、彼女を誤解したのは自分の方らしい…。
美穂は雨に打たれながら自宅に駆け戻り、ずぶ濡れのドレスを脱ぐと、首にかけていたダイヤのネックレスを外し、ケースに放り込んだ。明日、これらの黒崎龍之介にまつわる忌々しい品々を送り返すつもりだ。
ケースを閉じると、浴室へ向かい、浴槽いっぱいに張った熱い湯に浸かった。頬や背中をゴシゴシと強くこすり、肌が真っ赤になるまで洗い続け、鏡に映る青ざめた自分の顔を見つめた。化粧を落とした顔は、病的な憔悴と、光を失った瞳だけが残っていた。
彼女はまるで汚れた蟻のようで、踏みつけにされるがままだった。でも、彼女だって尊厳が欲しかった…。
「尊厳…」美穂はその言葉を噛みしめ、自嘲気味に笑った。身を売って三井雅人に抱かれたあの時から、彼女に尊厳などとっくに失われていたのだ。
髪を拭き、ベッドに倒れこむと、疲れ果てて再び深い眠りに落ちた。
雨に打たれたことで心臓病は悪化し、美穂は翌日の午後まで昏睡状態にあった。高橋美波は夜勤を終え、午後まで寝て食事を用意すると、まだ美穂が起きていないことに気づき、ドアをノックした。何度か呼んでも返事がない。不吉な予感がした美波はドアを開け、美穂の顔がほてり、額に触れると熱かった!
「美穂! 高熱よ!」美波は聞く耳も持たずに布団を剥ぎ、彼女を起こした。「すぐに病院に行くの!」
高熱で朦朧とした美穂は「病院」という言葉に抵抗したが、美波はもう彼女を背負い、車で病院へと飛ばした。
緊急外来、点滴、人工呼吸器――美穂には先天性の心臓病があった。美波は風邪の発熱が極めて酸欠を招きやすいことを知っており、医師に必要な処置を取るよう強く求めた。
深夜近くまでかかって、ようやく高熱は下がり始めた。美波は一息つくと、仕事を休んで病床に付き添い、美穂の青ざめた頬を痛々しそうになでた。二人は児童養護施設で寄り添いながら育った、互いにとって最も大切な存在だった。美波は、美穂が男運に恵まれず、恋に青春を費やしては傷だらけになっていくのを、胸を痛めていた…。
高熱の美穂は混乱した夢に囚われていた。かすかに、血に染まった手を差し伸べる少年の姿が見える。苦しそうに何か言っているが、声は聞き取れない。
「何て言ったの…?」彼女は少年の方へ歩み寄った。