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第十九話 過去に葬られた人


少年は突然黙り込み、澄んだ目で彼女をじっと見据えた。激しい雨が降り注ぎ、彼の顔の血のりを洗い流す。美穂はようやく彼の顔をはっきりと見ると、焦って駆け寄った。

「卓也!」

次の瞬間、景色は一変した。自分がキャバクラの入り口に跪いているのが見える。黒い傘を差した男が近づき、見下ろすように尋ねた。

「清いか?」

彼女は顔を赤らめてうなずき、手を差し出す。その手を握りしめた瞬間、男の手は血まみれに変わり、眼前の男は鬼気迫る少年の姿へと変貌した。その目は真っ赤に染まり、彼は美穂の首を絞めながら絶叫する。

「美穂! なぜあいつに体を売ったんだ!? なぜ俺を裏切った!? なぜだ!?」

「違う! そうじゃないの!」美穂は必死に首を振りながら弁解した。

だが少年は彼女を強く押しのけると、背を向けて去ろうとした。美穂は追いかけ、彼の服の裾をつかんで泣き叫ぶ。

「真田卓也! 行かないで!」

「美穂、どうしたの?」

高橋美波は美穂の連続した叫び声に驚き、慌てて彼女の体を揺すった。美穂の意識がゆっくりと現実へ戻り、目を開けると、夢の中の三井雅人も真田卓也も消え去り、ただ心配そうな美波の顔だけが残っていた。今の苦しい夢が、触れたくない過去をむりやり掘り起こしたものだと、ようやく理解した。

脳裏に残る映像を振り払い、渇いた喉をうるおそうと水を求めると、腕に刺さった点滴の管が目に入った。

「高熱で倒れてたから、病院に運んだんだよ」まだぼんやりしている美穂に、美波は優しく説明し、コップの水を注意深く口元へ運んだ。

温かい水が喉を通ると、ようやく少しだけ生きている実感が戻ってくる。

「美波……」

「うん?」美波は応えながら、美穂の額に張りついた冷や汗で濡れた髪を耳の後ろへかき上げた。「お腹すいた?」

美穂は辛そうに首を振った。「お医者さん……何か言ってた?」心臓のことはまだどう切り出そうか迷っていた。今回の入院で、もう隠し通せないかもしれない。

「医師は詳しくは言わなかったよ。高熱で意識が朦朧としてたから、とりあえず点滴をして、採血もした。そろそろ結果が出てるはずだ」そう言うと美波は立ち上がった。「取りに行ってくる」

美穂は慌てて彼女の腕をつかんだ。「美波、ちょっとお腹すいたから、まず何か食べるもの買ってきてくれない?」

美波はうなずいた。「わかった。お粥買ってくるね。待ってて」

美波の姿が見えなくなると、美穂は無理に体を起こし、点滴スタンドを押しながらレポート用紙出力機へ向かった。心機能不全。採血結果は心不全の事実を十分に露呈していた。美波に見せるわけにはいかない。彼女を悲しませるのが怖い。何より、迫り来る死に彼女を直面させるのが怖かった。二人は児童養護施設で育ち、互いを支え合い、唯一のよりどころだった。もし美波が自分の余命が短いことを知ったら、耐えられるだろうか?

美穂は報告書を細かく破り、ゴミ箱に捨てた。これで、見ることはない。

振り返り、病室へ戻ろうとしたその時、救急口に何台もの高級車が滑り込んできた。黒服の護衛たちに囲まれた三井雅人が車から降り、桜庭由佳を抱えて病院へと足早に駆け込んでいく。

彼の焦燥に満ちた様子を目にし、美穂の心は徐々に沈んでいった。

彼と一緒にいた頃、自分も心臓発作で救急に運ばれたことがあった。その時、彼はどんな反応だったか? ベッドの傍らに立ち、見下ろすように、苦しんで体を丸める彼女を、まるで乞食に施すかのように侮蔑の目で一瞥し、ブラックカードを振りかざしたものだ。仮病を使って同情を買い、金をせびろうとしていると決めつけていたのだ。

その記憶が蘇り、美穂の口元に自嘲の笑みが浮かび、たちまち目に涙が溢れた。

どんなに悔しくても、どんなに無念でも、彼女はただ硬直した体で背を向ける。

「二度と俺の前に現れるな」――彼はそう言った。ならば、彼女はそれを守る。

残された人生において、三井雅人とたとえすれ違っても、見知らぬ他人として。

背後から足音が近づく。その一歩一歩が、まるで彼女の心臓を踏みつけるように痛く、全身が震えた。三井雅人は彼女の横をすれ違ったが、一瞬たりとも視線を向けることはなかった。彼女の予想通りだった。男の冷酷さは、過去を顧みることはない。ましてや、二人の間には、情など最初から存在しなかったのだから。

美穂は顎を上げ、涙をこらえた。ただの捨てた男に過ぎない。大したことではない。

点滴スタンドを押して病室に戻ると、ちょうどお粥を買って戻ってきた美波と鉢合わせた。

「熱が下がったばかりなのに、勝手に動き回って! 命知らずなの?」美波は真顔で彼女をベッドに押し戻す。「自分に心臓病があるってわかってるんでしょ?」

美穂は心が温かくなり、唇を噛みしめて微笑んだ。「報告書を取りに行ったの」

「私が取ってくるって言ったでしょ!」美波はお粥の容器の蓋を開けながら言った。「報告書は? 見せて」

美穂は瞬きをした。嘘はつきたくなかったが、仕方なく口を割いた。「医師のところへ持っていったんだけど、診察室に忘れちゃったみたい」

美波は深く考えず、ただ心配そうに尋ねた。「結果はどうだったの?」

「ただの血液検査よ。何も問題ないわ」美穂はできるだけ平静な声を保った。

美波がかき混ぜていた箸の手を止め、真剣な目で彼女を見つめた。「あなたは普通の人と違うのよ! 採血は心臓の状態を確認するのに大事なんだから!」

美穂は笑った。「わかってるよ。お医者さんも心臓は大丈夫だって言ってたし、安心して」

美波はようやく安堵の息をつくと、人肌に冷めたお粥を差し出した。「好きな卵がゆよ。少し食べて」

美穂はそれを受け取り、一口ずつ口に運んだ。美波は蒼白い彼女の顔を見つめ、何か言いたげな様子だった。さっき間違えていなければ、美穂は「真田卓也」と叫んでいた。その名前は長年、美穂の禁忌だった。悪夢の中でその名を叫ぶのは初めてのことだ。美波は、心の奥底でまだ卓也を忘れられていないのかと尋ねたかったが、古傷をえぐることを恐れた。

逡巡した末、美波は最終的に沈黙を選んだ。真田卓也はもう過去の人。口に出すのはただの厄介事だ。

美穂は小鉢半分ほどでスプーンを置いた。「そろそろ仕事に行くんじゃないの?」

美波は時計を指さした。「何時だと思ってるの? 行けるわけないでしょ」

「じゃあ……」

「二日間休みを取ったんだ。お前の看病でな」美波は隣の空いているベッドにごろんと横になった。「ちょうど俺も休めるしな」

美穂は優しく微笑んだ。「ありがとう」

美波は手を振ってあくびをした。「ちょっと仮眠するわ。何かあったら呼んで」

「お医者さんがいるから、安心して休んで」美穂はうなずいた。



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