高橋美波はすぐに疲れ切って眠りに落ちた。水商売の仕事は夜勤が多く、並大抵の苦労ではなかった。大学に受からず、学歴がなければ普通のサラリーマンのようにオフィスで安定した仕事に就くことも叶わない。高校卒業後、良い職が見つからず、それでも京都に残りたい一心で月影に身を置いた。酒の販売から始めて、実績を重ねてマネージャーに昇進。数年かけて車と家を手に入れ、小さな成功を収めた代償は、身を削るような疲労だった。
だが、彼女には頼れる婚約者、江藤朗がいた。来月九日に結婚を控えている。家庭を持てば、孤児としての人生から抜け出し、自分の居場所を手に入れられる。高橋美波の未来には、希望があった。
一方の美穂は、他に何も望まなかった。ただ、高橋美波の結婚式の日まで生きて、この目で彼女が花嫁姿になる姿を見届けられれば、それで本望だった。
一晩入院して高熱は下がったものの、身体は依然として弱々しい。美穂はこれ以上入院したくなかったため、高橋美波に退院の手続きを頼み、家に帰った。
家に戻るとすぐ、高橋美波はキッチンにこもって忙しそうに動き回った。美穂が手伝おうとすると、「休んでて!任せなさい!」と追い出されてしまった。
美穂の熱は下がったが、心不全の症状はむしろ悪化していた。胸の締めつけるような痛み、めまい、酸素不足による全身の倦怠感で、立っているのもやっとだ。手伝う力もなく、言われるがままに部屋に戻った。
横になったその時、携帯電話が震えた。フォローしている芸能ゴシップアカウントの更新通知だ。三井雅人と一緒にいた頃、彼のスケジュールを知るために登録したものだった。
開くと、パパラッチが捉えた三井雅人が桜庭由佳を抱きかかえて救急外来へ運び込む写真が載っていた。記事は二人の旧交復活を煽り、コメント欄では家柄が釣り合い、才子佳人だと褒め称える声が並ぶ。
美穂は苦笑した。確かに似つかわしい相手だった。通知を消し、電源を切ろうとしたその時、一通の未読メールが目に入った。
開くと、見知らぬ番号からのメッセージだった。「病院で何してた?」
美穂は一瞬固まった。なぜ自分が病院に行ったことを知っている? 送信時間を見ると、昨夜、目が覚めた直後…。昨夜病院で会ったのは、三井雅人だけだ。まさか彼?
指先がわずかに震え、彼女は打ち返した。「どなた?」
相手は即座に返信した。冷たい言葉が三つ。「答えろ。」
画面を見つめながら、美穂の鼓動は早まった。その口調は三井雅人を思わせる。しかし、直感は告げた。彼がこんなメールを送るはずがない、と。
眉をひそめ、彼女は打った。「あなた、誰なの?」
今度は相手の返信が途絶えた。約一時間後、ようやく届いたのは「黒崎龍之介」という名前だった。
美穂の張り詰めた心が、ふっと軽くなった。黒崎龍之介だったのか。しかし、これは彼の常用番号ではない。また番号を変えたのか?
美穂は考えたが、やはり腑に落ちず、その番号に直接電話をかけた。
電話は切られ、代わりにメールが届いた。「会議中だ」
美穂は一呼吸置き、勇気を振り絞って黒崎龍之介の仕事用の番号に電話した。今度は彼はすぐに出た。声は低く、苛立ちを帯びている。「会議中なんだ!用件は?!」
彼が本当に会議中だとは思わなかった美穂は、「何でもない」と言い、慌てて電話を切った。頭おかしい…会議中なのに見知らぬ番号からメールを送るなんて!
黒崎龍之介がいつも違う番号で嫌がらせをすることを思い出し、美穂は深く考えないことにした。携帯を置いて無視しようとしたが、またメールが入った。最初の質問を執拗に繰り返す。「答えろ、なぜ病院に行ったんだ?」
彼は頭がおかしい、電話で聞けばいいものを、わざわざメールで絡んでくる。無視したいが、怒らせるのも怖い。美穂は歯を食いしばって返信した。「高熱で点滴を受けてた」
予想された追加質問は来ず、嫌がらせはようやく止んだ。彼がまた調子を狂わせただけだと思い、美穂は携帯を置き、重い疲労に押し潰されるように深い眠りに落ちた。
意識がぼんやりとした中、携帯電話の着信音が彼女を現実へと引き戻した。
美穂は重い瞼を必死に開け、手探りで携帯を取り出し、応答した。
「ハニー」黒崎龍之介の声が受話器から響く。わざとらしいほどの気怠さが混じっている。「昨日高熱だったんだって?今の調子はどうだ?」
この突然の“気遣い”に、美穂の朦朧とした意識は一気に引き締まった。自分の肉体を欲しいままにしようとするだけのこの男が、いつ彼女の生死を気にかけたことがあるというのか?メールに続く電話…命が長くないと知って、慈悲をかけるつもりなのか?
頭の中に様々な考えが渦巻いたが、表情には何も出さず、ただ冷たく一言返した。「もう平気」
「平気ならいい」黒崎龍之介は適当にそう言うと、すぐに本題に入った。「前に俺を探してたのは、件の件が片付いたのか?」
案の定だ。美穂は心で嘲笑った。太陽穴が脈打つように痛む頭を押さえながら、なんとか体を起こし、声は冷たかった。「三井様にはお会いしました。ご検討中とのことです」
かつて、黒崎龍之介の手から逃れるため、彼女は三井雅人を脅す不適切な動画があると偽り、それをネタに三井財閥からプロジェクトを奪い取ると言い張った。確固たる口調だったが、それが最初から最後まで偽りだと知っているのは彼女だけだった。彼女の手にいわゆる動画などなく、三井雅人を脅してプロジェクトを要求することなど、到底不可能だった。彼女の計画は、この口実で黒崎龍之介を引き延ばし、高橋美波の結婚式が終わるまで時間を稼ぐことだった。
そして、彼女は彼のもとへ行き、共倒れになるつもりだった。
そう、彼女はとっくに決めていたのだ。自分の命を賭けて、高橋美波のこれからの平穏な人生を守ることを。
「入札会は来月十日だぞ!」黒崎龍之介の声は明らかに焦りを帯びていた。「いつまで待てと言うんだ?」
美穂の胸がぎゅっと締め付けられた。高橋美波の結婚式は来月九日。彼女は式が終わってから行動を起こすつもりだったが、入札会はその翌日の十日!時間が差し迫っており、黒崎龍之介が十日まで待つことを許すはずがない。
歯を食いしばり、彼女は低い声で言った。「来月九日、その日に確かなお返事をいただけるとおっしゃっていました」
「てめえ…!」電話の向こうで黒崎龍之介が罵声を上げた。「その動画をよこせ!俺様が直接あいつと話をつける!」
美穂の心臓が一気に冷たくなった。手のひらに冷や汗がにじむ。彼女は必死に平静を装い、素早く心を落ち着かせ、少し“彼のためを思って”いるような諫言めいた口調で言った。「黒崎様、私がそんな手段で三井様を脅し、プロジェクトを奪い取る手助けをしたことで、彼はすでにあなたに対して強い不快感を持たれています。もしあなたがご自身で動画を持って交渉されれば、三井様の怒りを完全に買うだけでしょう。そうなればプロジェクトはおろか、三井財閥そのものを敵に回すことになり、得るものより失うものの方が大きいと思いませんか?」