早川奈美は立ち上がり、さりげなく高橋翔太に握られていた手を離し、俯いて服のボタンを直した。
高橋が親代わりの両親にまで取り入ろうと、この上なく気遣い深い態度を演じているせいで、彼女は両親に別れを切り出せずにいるのだった。
車に乗り込むと、高橋は身を乗り出してシートベルトを締めようとした。早川が自分でやると言ったのに、彼は無理やりベルトを引っ張って離さない。車外の両親の視線に気づくと、高橋は声を張り上げた。「ご両親、行ってきます!」
車が動き出す。沈黙が続いた後、高橋が口を開いた。「あの一件以外に、俺のどこが気に入らないんだ?」
早川は唇を結んだ。「…その一件だけで、十分じゃないの?」
「たとえ悪かったのは俺でもな」高橋の声は低く沈んだ。「お前はどうだ? 婚約してから、俺が手すら触れさせてくれない! 俺と婚約したのも、早川家を助けられるからってだけだろうが?」
早川は窓の外を見た。確かに、婚約を承諾した背景には現実的な事情があった。けれど、せめて感情を育てていこうという気持ちもあった。彼女は愛を信じてはいない。それでも、互いにチャンスを与えようとは思っていたのだ。だが、高橋の裏切りが、そのかすかな芽を完全に踏み潰してしまった。
高橋の目には、自分が権力にすがる女と映っているらしい。
「黙り込むってことは、認めたってことか?」高橋はハンドルを握りしめた。「男なら誰だってやりかねない、よくある過ちだ! 過去は水に流して、やり直そう、いいか?」
早川は無言のまま、冷たい横顔を向けた。
車が病院の入り口に停まった。早川はシートベルトを外す。
その時、高橋が突然に近づいてきた。「チューしてくれよ。それでケリをつけよう、な?」
甘ったるい香水の匂いが漂ってきた——早川は覚えていた。昨日、藤原麻衣が使っていたのと同じ香りだ。
「っ!」
早川は咄嗟に顔を背けた。「…他の女の匂いをつけたまま、私にキスしようだなんて。吐き気がするわ」
高橋は固まり、思わず袖の匂いを嗅いだ。そして、たちまち顔色を曇らせた。
「ご祖父様には…性格の不一致で別れたと伝えておくわ」早川は、最低限の体裁を保とうとした。「もう芝居はやめましょう。互いに大人しく手を切りましょう」
そう言うと、彼女はドアを開けて降りた。
高橋は、早川の断固とした後ろ姿を見つめながら、なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。最初は打算的な気持ちだったかもしれない。しかし、時が経つにつれ、偽りの気持ちの中に本物が混じり始めていたのだ。
早川の、冷たさと清らかさが入り混じった不思議な雰囲気が、高橋の心をくすぐってやまなかった。それなのに、未だに指一本触れられていないことが、余計に彼を焦らせていた。
「早川奈美!」高橋は車のドアを開けて叫んだ。「あの夜がなかったら…お前は俺を愛せたか?」
早川は足を止めず、振り向きもせずに歩き続けた。終わったことだ。今さら聞いて、何の意味がある?
高橋がこれ以上絡んでくる様子はなかった。早川はほっと一息ついた。しかし、昨夜の一千万円は、返さねばならぬ借金として心に重くのしかかっている。
オフィスに戻った早川は、預金と家を売って工面できる額を計算したが、焼け石に水だった。苛立ちを募らせていると、ノックの音がした。午前中の予約はなかったはずだ。
白衣を着た女性が入ってきて、にこやかに診察券を差し出した。「高橋先生がお休みで、ずっと診てもらってたものだから…」
早川は、どこかで見たような気がした。カードを通すと——鈴木雅子。生年月日の欄を目が走った。0721。
…やはり。心の内の推測が的中した。
「どちらがご不調ですか?」
「神経衰弱と不眠です。薬が切れてしまって」鈴木は椅子にもたれ、こめかみを軽く揉みながら答えた。
早川は彼女のカルテを開いた。難治性不眠症、重度のうつ病、長期服薬。通常通り、処方箋を作成した。
「ありがとうございます」鈴木は礼を言い、立ち上がった。ドアの所まで来て、ふと振り返る。その目に、探るような鋭い光が浮かんでいた。「早川先生…直樹と、お知り合いですか?」
早川はぎくりとした。
鈴木の笑みは消えていない。「直樹は十年も海外にいて、帰国も数えるほど。でも彼、あなたには…どうも、特別みたいですね。いつ、お知り合いに?」
早川は即座に悟った。薬は口実で、探りが本命だ。パスワード0721…鈴木は明らかに何かを察している。早川の心が沈んだ。まさか、鈴木雅子と黒沢直樹は…恋人同士なのか?
その思いが早川を慌てさせた。あの夜…彼女は、付き合っている男を手を出してしまったのか?
「いいえ。何度かお会いした程度です」早川は淡々とした口調で答えた。
鈴木は意味深に彼女を見つめた。「そう…ですか?」それ以上は追及せず、ドアを開けて出て行った。
ドアが開いた瞬間、たまたま通りかかった黒沢直樹と鉢合わせになった。
「直樹?」鈴木はほんのり驚いた様子だ。
黒沢の視線が鈴木をかすめ、オフィス内の早川を一瞥した。「偶然か? それとも…彼女に用事か?」
鈴木は処方箋を軽く揺らした。
「薬、もらいに来たの」
黒沢の目が処方箋に落ち、口調がほんの少し柔らかくなった。「…また、眠れないのか?」
「ええ…持病だからね…」二人は打ち解けた様子で話しながら、遠ざかっていった。
早川は俯き、胸中に悔恨の念が渦巻いた。…彼女は、本当に過ちを犯してしまったらしい。
しばし考えた後、早川は院内ネットワークを開き、黒沢直樹の連絡先を見つけた。そして、一通のメールを打ち込んだ。
「黒沢先生。あなたの彼女(?)が、誤解したようです。必要なら、私から説明します。」