黒沢直樹がオフィスに戻ると、携帯が「ピンッ」と鳴った。
画面のメッセージを読み流し、椅子に寄りかかると、口元がほころんだ。指先で軽くタップしながら返信する。
「彼女?誤解だよ?俺、独身だし。」
早川奈美は眉をひそめた。独身?
朝の鈴木雅子の、詮索するような態度。それは明らかに、正統な彼女としての自信に満ちた様子だった。
もしかして…二人はまだ正式な関係ではないのか?
だとすれば、あの夜の自分の行動は、厳密には不倫には当たらない?
少しほっとしたのも束の間、再び携帯が震えた。
やはり黒沢からのメッセージ。
「俺が独身かどうか試してるのか?早川奈美、お前、俺のこと好きなのか?」
文字の端々に漂うからかいの気配。奈美は、彼が今、どんなに気楽な顔をしているか、容易に想像できた。
彼女は素早く返信した。「お騒がせしました。」
明らかに話題を終わらせる合図だったが、黒沢は常識を外れることを選んだ。
すぐに三本目のメッセージが届く。
「早川奈美、お前、何か忘れてやしないか?あの夜の前まで、俺は童貞だった。お前のせいで『肉を食う』経験をさせられちまった。この借り、どうして返すつもりだ?」
奈美:「……」
あの余裕たっぷりの態度からすると、とても「経験なし」には見えない。
心の中では疑念が渦巻いたが、顔には平静を装い、「すみません」とだけ返した。
黒沢は画面を見つめ、目尻の笑いを深めた。ゆっくりと打ち込む。
「謝っただけで済むと思ってるのか?男ってのは、一度味を占めたら、もう止まらないんだぜ。早川奈美、これからはお前が俺に責任取ってくれよ。」
奈美の耳朶が熱くなった。彼女は即座に携帯を裏返しにデスクに置き、深く息を吸い込んで顔の火照りを抑えようとした。立ち上がって洗面所に向かい、冷水で頬をパシパシと叩き、ようやく鼓動を落ち着かせた。
外科診察室に戻ると、田中拓真がドアを開けて入ってきた。口を開くよりも先に、黒沢が携帯を凝視し、口元にかすかな笑みを浮かべている姿が目に入る。あまりに集中しているため、田中の入室に気づいていない。
拓真は興味津々で近づき、ちらりと画面を覗こうとした――その瞬間。
黒沢がぱっと顔を上げ、視線が鋭く拓真を捉えた。
拓真は気まずそうに二度笑う。「ナオキ、何見てたんだよ?そんなに楽しそうで。」
黒沢は携帯をしまい、表情を元に戻した。「こんな昼間に病院に来るって、用か?」
「お前こそ言えよ!」拓真は不満げに腰を下ろし、足を組んだ。「二日もすっぽかすとか、オムツの頃からの付き合いだってのに?急に帰国して定住するなんて何かあるのかと思えば、女のためかよ。」
黒沢が眉を上げる。「女って?」
「知らん顔か?お前の甥っ子の婚約パーティーの日、ホテルのスイートにトイレがなかったわけ?わざわざ宴会場のフロアまで行ったじゃねえか。」拓真はすべてを見通したような顔で、「どう見てもお前、わざと…」
「独身の癖に何が分かるんだ?」黒沢が遮った。
「ちっ、」拓真は意に介さない様子。「独身が何だ?身内の縁をかっさらうお前のほうが高尚だと?言っておくけど、相手は少なくともお前の甥っ子と婚約したんだぞ?こんな内緒の恋、バレたらみっともないだろうが?」
黒沢は彼を一瞥し、取り合うのも面倒くさそうに言った。「用はそれだけか?」
拓真は咳払いした。「もちろん違うよ。今夜、六本木のクラブで、お前の歓迎会だ!今回はすっぽかすんじゃねえぞ!」
「今夜は科の飲み会がある。」黒沢は眉をひそめた。
「科の飲み?」拓真の目が輝いた。「じゃあちょうどいいじゃねえか!人数多いほうが盛り上がるし、一緒に行こうぜ?」
黒沢は一瞬考え込み、「わかった」と返した。
退勤後、早川奈美は直ちに不動産会社へ向かった。代官山ヒルズのマンションを売りに出そうとしたのだ。
しかし、仲介業者が相場を見て首を振った。「早川さん、最近は市況が低迷していましてね、相場通りではなかなか早く売れませんよ。お急ぎなら、値下げが一番の近道です。」彼は画面のデータを指しながら続けた。「お宅の物件は時価で約2000万円、1500万円くらいに下げれば買い手がつきやすいです。」
奈美は眉をひそめた。500万円も目減りする?あまりにも損だ。彼女は一旦売却の考えを断念し、代わりに小林優衣に電話をかけた。
電話が繋がると、賑やかな騒音が聞こえた。優衣が個室から出てくる。「奈美?お金のこと?オッケー!50万円、そろそろ解約できる預金があるの。親が用意した嫁入り道具代ね、先に使って!早く返せば早くスッキリするし!そうだ、いくら足りないの?」
奈美は唇を噛んだ。「1000万円。」
「ひ……1000万?」優衣が詰まった。「えっと…塵も積もれば…慌てないで奈美、また考えよう!」そうは言うものの、彼女自身、1000万が小さな額ではないことは分かっていた。
奈美はバックミュージックに気づいた。「カラオケ?」
「うん、科の飲み会で今夜…」優衣が言い終わらないうちに、背後で個室のドアが開いた。
彼女が振り返ると、ちょうど黒沢直樹が煙草の吸い殻を消し、彼女の横をまっすぐに通り過ぎていくところだった。
電話の向こうで奈美が怪訝そうに聞いた。「どうしたの?」
「なん、なんでもない!」優衣は胸を焦がした。彼がどこまで会話を聞いていたか分からない。この新たなイケメン医師が白月光(叶わぬ恋の相手)がいると噂されながら奈美に手を出しているらしいことを思うと、尚更良くない気がした。曖昧に「後で話すね、戻るわ」と言った。
奈美は切れた電話を見つめ、タクシーを拾って帰ろうとした。手を上げたその時、再び着信音が鳴った。
優衣の番号だった。彼女は受話器を取る。「もう終わったの?」
しかし、受話器から聞こえてきたのは見知らぬ男の声だった。「あの、小林さんが酔いつぶれて個室でぐったりしてるんですけど…お友達ですか?お迎えに来ていただけますか?」
奈美は一瞬呆然とした。「場所を送ってください。すぐに向かいます。」
広々とした個室で。
田中拓真が携帯を置き、黒沢に向かって顎をしゃくった。口元に含み笑いを浮かべて言った。「もう向かってるってさ、十数分で着くそうだ。ナオキ、お前を長いこと知ってるけど、こんなに遠回りするのは初めてだぜ。一体どんな娘なんだよ、そんなに骨を折らせるなんて?」