黒沢直樹が淡々と一瞥をくれた。
「余計な世話は焼くな。口を固く閉じて、連れて行け。」
田中拓真が鼻をこすり、泥酔して意識のない小林優衣を担ぎ上げた。
「俺が酔わせてアポ取らせたのに、これが礼か?用済みってわけだな、直樹さん。」
「だから?」黒沢は眉を上げた。
「大したものは望まないよ。あの階下の絶版アンティークカー…数日貸してくれないか?」田中が探るように言った。
黒沢は無駄口を叩かず、テーブルに車のキーを放った。
田中はキーをひったくるように掴むと、にんまりした。「さすがだぜ!安心しろ、今すぐ片付けるからな!」
得をした彼は即行動に移り、小林を担いだだけでなく、個室にいた他の連中も全員連れ出した。
早川奈美が六本木のクラブに着いた時、目を引くデザインのアンティークカーがちょうど入口から離れていくところだった。彼女は特に気にも留めず、助手席で眠り込んでいる小林優衣の存在にも当然、気づかなかった。
個室番号を見つけ、彼女はドアを押し開けた。
予想していた喧噪はなく、個室は異様に静まり返っていた。ソファの奥深くに、一人の男が背を向けて座っているだけだった。
早川はスマホのアドレスを確認し、中へ歩み入った。
「こんにちは、小林さ…」
言葉が終わらないうちに、ソファの男が顔を上げた——
なんと、黒沢直樹だった!
彼女の心臓が高鳴った。そうか、外科の飲み会だ。彼がいないわけがない。
早川は気持ちを落ち着けて言った。
「黒沢さん、小林優衣は?」
「さっき出て行った。」
「行った?でも彼女は…」早川は眉をひそめ、瞬間的に察した。
そんな偶然があるものか?
彼女は黒沢をまっすぐ見据えた。「わざと私を呼び出したの?」
黒沢は片手をポケットに突っ込み、口元に含み笑いのような影を浮かべて立ち上がり、近づいてきた。「会うたびに、挨拶もなしにいなくなるのがお前の癖か?早川奈美、俺から逃げてるのか?」
「別に…」早川は反射的に否定したが、彼の微かに開いたシャツの襟元から覗く鎖骨に目線が焼け付き、思わず顔をそらした。
黒沢がさらに一歩詰め寄り、その気配が迫ってきた。「違う?なら、なんでメールを返さない?」
早川は指先をぎゅっと握りしめた。脳裏に、彼が午前中に送ってきたメッセージが否応なくよみがえった。
『早川奈美、俺に借りがあるんじゃないか?あの夜の前は、俺、初めてだったんだ。お前に経験を奪われた。この借り、どうするつもりだ?』
『「ごめん」の一言で済むと思うなよ?男は一度味をしめたら、もう止められない。責任を取ってもらうぞ。』
責任?どうやって取れと?
大人の間の暗示は、これ以上なく明らかだ。男が突然女に詰め寄るのは、愛か、さもなくば欲のためだ。
彼には想い人がいる。答えは明白だ。
黒沢は彼女が黙り込むのを見て、目に一瞬の探るような色を走らせた。タバコのケースを開け、一本を指の間に挟んで弄ぶ。
早川の視線が、彼の手首の内側——そこにくっきりと刻まれた「R」のタトゥーに落ちた。
彼が自ら言っていた。それは彼の「想い人」を表すものだと。
この「R」は、鈴木雅子の「子」だろうか?
早川は目を伏せ、平静な声で言った。「黒沢さん、鈴木先生は気にされないんですか?」
「ん?」黒沢は眉を上げ、真剣に考え込むふりをして、「彼女がなぜ気にするんだ?」
早川の眉間の皺はますます深まった。彼の表情を探るように見つめ、自分が勘違いしたのか疑った。彼の態度は軽く、誰かのために身を清めているようには見えない。しかし、パスワード0721は何を意味するのか?感情と欲望をきっぱり分けているということか?
彼女は雑念を振り払い、顔を上げて言った。
「高橋翔太はあなたの甥ですよね?続柄から言えば、私はあなたを叔父さんと呼ぶべきです。」
黒沢の目つきがたちまち危険な色を帯びた。ライターを取り出し、「カチッ」と指先のタバコに火をつけた。
薄暗い光の中、煙がゆらめき、彼の横顔の輪郭を冷たく硬く浮かび上がらせた。「つまり、お前と高橋翔太がまだ完全に切れてないってことを、わざわざ俺に思い知らせに来たのか?」
早川は唇を結んだ。自分の感情状態を知られたくなかった。心に白月光(理想の人)を抱えた男に近づきたくなかったし、二人の関係の気まずさも感じていた。
だが黒沢は笑った。その声の端々には、慵懶さと棘が混じっていた。「だが聞いた話じゃあ、お前、彼と完全に縁を切ろうとしてるんだってな?俺の聞き間違いか?」
早川の心臓が大きく震えた!この話は、電話で小林優衣にだけ打ち明けたことだ!小林が酔って口を滑らせたのか?それとも…彼が通話を盗み聞きしたのか?
彼女が返答する間もなく、黒沢が猛然と詰め寄った!片手で彼女の肩を掴み、抗えない力でぐいっと自分の懐へと引き寄せた!
「早川奈美、俺をバカだと思ってるのか?」その声は低く、騙された怒りを帯びている。「あの夜、俺を報復の道具に使って、用が済んだら捨てる気か?俺黒沢直樹はそんなに気軽に寝られる男だと思うな。」
そう言いながら、彼の薄い角質の指先が、早川の唇を強く擦りつけるように撫でた。その目は鋭く研ぎ澄まされていた。「今まで気づかなかったが、お前って奴は…用済みになればすぐ捨てる、悪い女だな。」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼は突然うつむき、早川の唇を激しく奪った!
濃厚なタバコの香りと、彼特有の侵略的な気配が瞬時に早川を飲み込んだ。頭が真っ白になり、本能で抵抗しようとしたが、彼の指ががっちりと組まれ、早川の体全体が強引にソファの奥深くへと押し込まれた!
これはむしろ罰だった。キスというより、彼の不満をぶつけるための占有行為だ。
早川は夕食を取っておらず、低血糖と酸欠でめまいが襲い、体はぐったりと力が抜けていた。
黒沢の腕は鉄の輪のように早川の腰を締め付け、唇と舌が彼女の頬を伝い、首筋へと噛みつくように移動した。熱い吐息が肌に焼き付く。彼の喉仏が大きく動き、全身から人の心臓を締め付けるような圧迫感が放たれた。
見知らぬ電流が背筋を走り、早川は思わず震えた。
「コンコンコン——」
不意にノックの音が響き、店員の声がした。「お客様、お時間のほうが…」
ドアが少し開かれ、中の様子を一目見た店員は瞬間的に声を呑み、「バタン」とドアを閉めて逃げ出した。
早川はハッと我に返り、全身の力で彼を押しのけ、ソファから飛び起きた。
彼女の目尻は赤く染まり、息は荒く、朧げな瞳には涙が浮かんでいた。胸が激しく上下する。力の差による敗北感と、心の底で湧き上がるわけのわからない焦燥が絡み合っていた。
しかし黒沢は低く笑い声を漏らした。その声には、わずかだが満足感が漂っていた。彼は立ち上がり、一歩一歩近づいた。その大きな影が早川を完全に覆った。
「俺も、道理をわきまえていないわけじゃない。」彼はうつむき、微かに腫れた彼女の唇を捉えて、驚くべき言葉を放った。
「お前が俺の最初の経験を持っていった以上…よかったら、結婚してくれないか?」